・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみでも扱う場合あり(74より)。部分読みや資料目的など非通読本の引用メモは番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. 町田康 ヒグチユウコ 『猫のエルは』 講談社
エルは家にきたその日の夜に危篤状態に陥った
この世に生まれて間もない頃でまだ乳を飲んでいた
医師は、医学的には死んでいる、と言った
妻が医師に、まだ生きて動いているものを死んでいるというのが医学的
立場だとしたら医学になんの意味があるのか、と言った。
医師は、やってみる、と言った
そしてエルは助かった
奇蹟を体験した
私は運転をしながら泣いた
妻も泣いた
エルはキャリーケースのなかでぼんやりしていた
そしていま私の仕事場の半間の押し入れの奥
突っ込んである紙袋に入りごんでもぞもぞしている
楽しくてやっているのか
やらなくていけなくてやっているのか
顔が見えないからわからない
でもそれでいいのだ
いったん死んでこの世に帰還したエルは
生きてるだけで儲けだから
猫のエルは生きてるだけで儲け
そしてそれを仕事を怠けてぼんやり見ている人間である俺は
見ているだけで儲け
見ているだけで儲け
90-1
猫の目は澄んでいた。一点の濁りもなく澄んでいた。その澄んだ目で夕日に照らされて赤い諧和会議の参加者を見下ろして猫は思っていた。
あいつらは言葉によって諧和が齎されると信じている。そして自分たちが僥倖によってその言葉を得たことを諦め、歓んでいる。幸福な奴らだ。いや、不幸な 奴らだ。ならば余はおまえどもに問いたい。やいおまえども。おまえどもはそれが言葉だと思っているのか。本当に思っているのか。言葉を超えたところにある高い言葉がいまもこの世に響き渡り、それが諧和だけをもたらすものでなく、火も剣ももたらすことに気がつかないのか。諧和を低い言葉で築くことができる、そう思うこと自体が傲慢で諧和ともほど遠いということに気がつかぬのか。ははは、気がつかぬようだな。幸福な奴らだ。いや、不幸な奴らだ。 47
と考えていると、ひと際おおきな、牛柄の猫が坂を上がってきた。歩き方がおかしかった。急に走り出したかと思ったら急に立ち止まりクルクル回転したり、ウギャ、と叫んで後ろ脚で立ち上がって前脚で虚空をつかむなどしているうえ、目つきも奇妙、マタタビを決めているのが明白であった。
目が合ったらやばい。と思ったときはもう遅かった。
「なにやっとんじゃ、人間とらあ。秋のパン祭り、なんでないんじゃあ、こらあ」
訳のわからぬことを口走りながら飛びかかってきて、鋭い爪で肩をざっくりいかれ、それからくわえてはぶん投げ、くわえてはぶん投げされてボロボロにされた。 71
2. トマス・アクィナス 『神学大全 Ⅰ』 山田晶訳 中公クラシックス
永遠は恒存する存在の尺度であるのに対し、時間は運動の尺度である 361
痺れる。
運動と時間とは、その全体が現実存在するのではなくて、次々と現実存在してゆく。それゆえ運動と時間とは、現実態に混合した可能態を有している。しかるに大きさは、その全体が現実的に存在する。それゆえ量に適合し質料の側にある無限は、大きさの全体性には反するが、時間や運動の全体性には反しない。可能態において在るということは、質料に適合するからである。 280
いつ買ったかも定かでない積ん読古典を消化するシリーズその∞。だけどカントにしろフーコーにしろ、いざ読み出すとアカンレベルで面白いのよね。トマスもそうでしたというブルータスよお前も感。上記引用、運動と時間について。下記引用、場所と存在について。
ところで神もまたすべての場所を満たしている。しかし物体のような仕方で満たすのではない。すなわち物体は、他の物体が自分とともに同じ場所を占めることを許さないという仕方で「場所を満たす」といわれるのであるが、神はこれに対し、或る場所に存在することによって他のものがそこに存在することを斥けることなく、かえって反対に、すべての場所を満たしているところの「場所に置かれているもの」のすべてに、存在を与えることによってすべての場所を満たすのである。 300
だいたいこんな形式なんだけど、考察は以下のような定型で進んでいく。
「真理が在る」ということは自明である。真理が在ることを否定する者も、真理が在ることを認めることになる。じっさい、もし真理がないとすれば、「真理がない」ことは真だからである。しかるにもし何か真なることが在るとすれば、真理はなければならない。ところで『ヨハネ伝』第一四章〔六節〕に、「わたしは道であり、真理であり、生命である」といわれているように、神は真理そのものである。ゆえに「神在り」は自明である。 77
ふむふむ……
しかし反対に、哲学者が『形而上学』第四巻および『分析論後書』第一巻において、論証の第一原理について述べているところからあきらかなように、自明なことがらに関しては何人もその 反対を考えることができない。しかるに「神在り」ということに関しては、『詩篇』第五二篇 [一節〕に、「愚なる者は心のうちで神なしといった」とあるように、その反対も考えることができる。ゆえに「神在り」は自明ではない。 77
なるほどなるほど……
三 についてはいわなければならない。一般に真理が在るということは自明である。しかし第一真理が存在するということ、これはわれわれにとって自明ではない。 80
まじかぁ。
って。こういう感じで聖書や先達のアリストテレスら哲学巨人やアウグスティヌスら神学巨人をバンバン引っ張り、ヒエロニムスとかアンブロシウスみたいに極私的マッピング不全のキャラも続々登場するのがありがたい。下記は時間に関連して、地獄について。
二についてはいわなければならない。地獄の火が永遠であるといわれるのは、それに果てしがないからにほかならない。しかし『ヨブ記』第二四章〔一九節]に、「彼らは雪の水から激しい熱に移りゆくであろう」とあるのによれば、彼らの受ける罰のうちには転変が存する。それゆえ地獄のうちに在るのは真の永遠ではなく、むしろ時間である。その意味で『詩篇』第八〇篇 [一六節]には、「彼らの時は世々に及ぶであろう」といわれているのである。
ゾクゾクしちゃう。“白”について。
三 についてはいわなければならない。神の存在が何物にも受け取られず自存するものであるということから、神の存在は無限であるといわれるように、また同じ理由によって、神の存在は他のすべてのものと区別され、他のいかなるものも神の存在ではないとされる。同様に、もしも 「自存する白」なるものが存在するとしたならば、その白は、他者において在るものではないということのゆえに、基体において在るいかなる白とも異なるものとなったであろう。 267
おいおいカッコよすぎる驚きの白さ。
(12) 「本質の全体性」 totalitas essentiae とは、それなしにはそのものの本質が成り立たないような本質構成要素の全体である。或る物の本質の全体性は、その物の属する「種」species の定義の内容の全体をなす。「白き物体」においては、その表面のいずれの部分においても「白」がその種の完全な定義によって見いだされるから、「本質の全体性」に関していうならば、「白」は表面の到る所において「全体的に」存在する。 305
(12)ってあるようにここは補注 by 山田晶先生。晶安定。続巻たのしみう。
一つの天使は別の天使の原因ではないのである。ゆえに永劫はただ一つではない。 375-6
なるほど?
3. 町田康 『男の愛 たびだちの詩』
「なにい? おもしろいことをやってるから行かねぇかあ? 戯談言っちゃいけねぇ。 こっちは堅気の商売人なんだよ。昼間っから博奕場なことに出入りできるわきゃねぇだろう。行こう」
「がくっ。って口で言っちゃったじゃねぇか。行くのかい?」
「ああ、行こう。 走って行こう」
なーんて好きな道なものだから次郎長、店もなにも放っぽらかしてそそくさ出て行く。 その後ろ影を見送って、袂で目頭を押さえる慈母もなければ、叱言を言う厳父もない、次郎長はやりたい放題なのである。 128
町田康って最近はこんなことになってたのか、と面白く色々読む。
はじめに読んだ『くっすん大黒』の衝撃が大きくて、以後2,3冊は読んだはずだけど20年前の印象のままでいたら、どこを切っても町田康な金太郎飴の読み味は相変わらずだけど、当然ながら巧くなってる。ただ巧くなると雑味が減るのは避けがたく、雑味こそが独特の良さを醸すのも表現の奥深さであって、デビュー作からの衝撃って往々にしてその核は雑味のほうにあるのですよね。などおもう。
4. 宇都宮美術館 『石の街うつのみや 大谷石をめぐる近代建築と地域文化』 宇都宮美術館
大谷石からみる日本近代建築史。を遥かに凌駕する、大谷石採掘場からみる人類史、的筆致の雄大さに慄える一冊。なるほどこの前段があっての前回よみめも『二つの教会をめぐる石の物語』の濃さなのだなといたく納得。日本神話にも直結しながら旧帝国ホテルを始めとするライトの人類学的意匠へ連ねる胆力の、とりわけ採石場を軸とする宇都宮近代史の詳述はガチ読ませる。大量の写真がまた良くて、この集積と編纂はちょっと並みの展覧会カタログの域ではなく、地方公立美術館のグレードを維持する所属学芸員の労苦が偲ばれる。というか前回につづき、概ね橋本優子さんなんですけどね。どこまでが誰の手によるのか、成果物からは明瞭でないあたりいかにも日本の美術館なのだけど。
宇都宮餃子ツイ https://twitter.com/pherim/status/1632590383929753600
硬度が低く火には強い大谷石の特性が、関東大震災後の鉄骨化する建築モードに合致して東京の復興を支えたというのは目鱗。宇都宮行脚時に教会の外壁に触ったボコボコ石のゴツゴツした手触りとか、自由学園明日館へ一時期通った身体感覚なども呼び起こされる読書体験。
拙稿「石のみる風景(仮題)」: URL近日追記
5. 町田康 伊藤比呂美 『ふたつの波紋』 文藝春秋
町田 みんなが「落語を聞け」というのは、たぶんそういう意味じゃないですよ。
伊藤 たぶん、「耳から聞け」ということを言いたいんでしょうね。
町田 それは大事だと思います。さっきの河内音頭の話と一緒で、本当は一塊であるはずの表現を、変に解体して分析せず、そのまま受け止めた方が、結果的に伊藤さんの目指している表現に近づくと思うんですけどね。例えば、ミュージシャンって「ここはこういうコードで、こういう節回しですね」みたいに分析して、ついついパターン化したくなってしまう。でも、それをやっても、ただ解剖しているだけ。バラバラになったものをもう一回縫い合わせたって、それは剥製にしかなりません。生きて動いているものをバラバラにして分析したって、まったく意味がありません。じゃあ、そういう時に何をすべきかといったら、河内音頭だったら、目の前の風景を見たり、その土地の歴史を学ぶ方がよっぽど意味がある。あるいは、生身の、そこで歌い踊る人たちの気性とかを肌で感じた方がよっぽど有益ですよ。 39
町田 でも、言葉と植物って、根本的にその性質がかなり違うと思うんですけど。
伊藤 えー、そっくりでしょう。言葉は植物のように、植物は言葉のように、私たちのまわりに繁茂する。
町田 つまり、伊藤さんには同じように見えているわけですね。「草があるな」というのと、
「言葉があるな」というのが同じように感じられる、と。
(略)
伊藤 っていうか、町田さんは 植物には意味がないと思ってる?
町田 いや、あるにせよないにせよ、そんなん人間には分からないじゃないですか。
伊藤 そうか、その辺の感覚が根本的に違うんだな。植物にも何か、あるんですよ。たぶん私、植物への対し方というのが、ちょっと過剰なのかもしれない。私は植物とは違う生き方をしているけど、ちゃんと分かる、みたいな感じ。同じ生を生きてる。彼らの言葉や気持ちが分かるとか、そういうことではない。もっと感覚的なもの。つまり、「意味」というものに依拠していないんですね。 80-1
町田 それなら高田馬場であってほしいですよね。中也が京都から東京に出てきて初めて住んだのが戸塚源兵衛、つまり高田馬場近辺でしたから。何て作品を読んでいた時だったんですか。
伊藤 「秋」です。「昨日まで燃えてゐた野が今日茫然として、曇った空の下につづく。」という出だしの詩。
町田 その「分かった」という感覚について、もうちょっと教えてください。
伊藤 散文の言葉ではない、詩という、別な言葉の動きが体得できたという感じですね。それまで理解できなかった行から行への飛躍が、いきなり体の中にスッと入ってきて、自分にそういう詩の読解能力が備わったような感じ。 非常に感覚的なものなので、説明が難しいのですが。それが「秋」という詩だったわけで、私が中也を理解するためのキーが、季節だったんだと思うんです。 83
町田 でも、それは誰が見たいんですか? その内臓を。
伊藤 えー、内臓っていつも見たいでしょう。これが面白いのは、朗読って不思議な作用があって、そうやって言葉が生まれた瞬間のことを思い出しながらやっていると、ある時、その言葉が生まれた瞬間に得た「やった!」という感覚を上回る衝撃を感じることがあるんです。それが面白くてやっているところもあります。朗読している間に、自分の知らない声がおりてきて、自分を突き動かすということがね。
町田 それって、音楽を、ライブをやっている時に感じるのと同じようなものなのでは?あくまでそれは音楽的な喜びで、文学とはまた全然違うものだと思うんですけど。
伊藤 そうかもしれない。だから若い頃は私は音楽の人たちがうらやましかったですよ。でもおとなになったら、音楽使わなくても、声と言葉でもできるんだとわかった。私たち詩人には、 業というか、捨てられないものがあって、「意味を伝えたい」という強い欲望があります。 人にその言葉を、その意味を伝えたい。どこまでもその欲望がついて回る。
町田 なるほど。「盲人独笑」の最後のところで「かきならす。おとをだに聞かば。このさとに。わがすむことを。きみや知るらむ。」とありますけど、おっしゃっているのはまさにそういうことなのかもしれませんね。 117
ステージ上の町蔵と、書かれる康。その距離を伊藤比呂美は持たない説。
6. 窪美澄 『夜に星を放つ』 文藝春秋
窪美澄を最後に読んだのいつだっけと検索すると、よみめもでの言及は2019年の今村夏子『こちらあみ子』再読時のみで、つまり十年以上前なんだとわかって思い出したのは、今村夏子と同時に受賞した(各々山本周五郎賞&三島由紀夫賞)折の授賞式での窪美澄による今村夏子評で、それについてはすでに書いた(よみめも49)から省くけど、要するに最後に読んだのは『ふがいない僕は空を見た』で、2011年のことらしい。
「よみめも49 余白をめぐる巨人族の戦い」
https://tokinoma.pne.jp/diary/3215
それで『ふがいない~』の話はまったく覚えていないのだけれど、バリバリ天才&天然肌を感じる今村夏子に対する、技巧に長けた秀才型センスを強く感じたのをよく覚えている。その“感じ”に比べると、書き続けたプロ12年分の年季はさすがに凄いなと思わざるをえない。みずみずしさが半端ないし、短編集ゆえ入れ換わりゆく人物のキャラも際立っていて、表現領域の画域全面拡大とでも言おうか。
一番心動かされたのは「真珠星スピカ」の終幕で、一番『ふがいない~』調の巧さで引っ張っている感の強い「湿りの海」が冗長に感じられたのだけど、付帯情報調べで閲覧したアマゾンのトップレビューが各々正反対の評価をしていて、まぁ正直表面しか読めてない感も鮮やかな残念評が支持されるものだなといういつも通りの。
7. 町田康 『令和の雑駁なマルスの歌』 U-NEXT
令和ですよね。芥川賞作家がU-NEXTから電子出版するムーヴ。すこし前回よみめもの佐藤正午『岩波文庫的 月の満ち欠け』も思い出される泡立ち感覚。
小品だけれど話も面白い。調子の良い奴に職場の信用も恋人も奪われた青年のヘンテコ復讐譚 with BL風味で、街を流れる歌というのがいかにも新興宗教なんだけど、発刊はたぶん2020年。コロナ禍だけど統一教会云々の前っていう坑道のカナリア感も良い。
8. 『日本語の歴史展』 東洋文庫ミュージアム
一時帰国した山森みかaka. biniyaminit=レビ先生との会食ついでの展示鑑賞、そして鑑賞後の図録冊子購入。レビ先生はお土産など買ってらした。(ここのミュージアムショップは外国人受けいい品揃ってると思う。マイナーなのが尚良し)
《日本語の歴史展》訪問ツイ: https://twitter.com/pherim/status/1545922185084432384
ツイートは例により途絶中。やっぱインパクトあったのは、キリスト教写本ちっくなムードかましてるのにきちんと読んだら日本語方言だったりするやつ。(冒頭右図) てかもう9ヶ月前なのか。センセもその後すでに2回来日してる。びっくりさんである。
9. 町田康 『記憶の盆をどり』 Amazon Audible
危うい美人が自宅を訪れ、なんのかんのあって記憶を失いながらもホテルの一室でいたすことになりそうなお話。頭取となにかあるらしく出かけてしまう妻の地味さが地味に利く。
紙書籍では9話収録短編集の表題作でもあり、Audibleは以前なら短編集なら短編集一冊を丸ごと音声化したはずだけど、月極めサブスクになりこうして個別の売り方も変わるのな。酒をやめたことを後悔するというメタな自虐がやや突飛。でも全体が突飛だから目立たない。
10. 印南敦史 『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』 KADOKAWA/中経出版
コロナ禍中に地元図書館が20冊まで借りられるように変わっていて、推薦棚等で見かけた目的外の本も借りてしまうor借りることができるようになった。以前《よみメモ》三条項の3つ目に掲げていた「くだらないと切り捨ててきた本こそ重要」みたいなやつが復活した感あるのだけど、表紙が江口寿史風だったのも目にとまって借りてみたら、ほんとうに江口寿史だった。まぁアシスタントかもだけど。
この著者のものは『それはきっと必要ない 年間500本書評を書く人の「捨てる」技術』も同時に借りて、そちらはパラパラめくる程度で必要のない本とわかったけど、こちらは全ページめくり斜め読んだのでメモに残す。内容はすこし考えれば自明のもので占められるけど、ゆえ考え慣れないひとには実用的なのかもしれない。ライフハッカー(?)編集長との巻末対談は面白く読んだ。Webで仕事してるひとが「本」の有用性を説く過渡期感覚とか。
ライフハックって言葉自体に、オシャとかイタめし級の痛さを覚える己の感性の由来に想いを馳せるなど。
▽コミック・絵本
α. トマトスープ 『天幕のジャードゥーガル』 1 秋田書店
ペルシャの奴隷市で奉公人として買われた娘が、フレグ(チンギス息子=フビライ父)の後宮へ仕えるまで描く1巻。これは続きがとても気になる。乙嫁語りとは力点の全く異なる西&中央アジア物良作キター!という感。
画もコミカルで、森薫の眼福感はない代わりに、西アジアの抽象模様がデフォルメされたコミックデザイン画を観るような楽しさがある。後続期待。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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β. ヒグチユウコ 『ふたりのねこ』 祥伝社
「ねえあんた、雲がうでからでてる。いったい、どうしたっていうの?」
こねことぬいぐるみのニャンコの出逢い。ふたりの暮らし。そして唐突に訪れる別れ。
これ小さいとき読んだら絶対ガツンとくる。なんだかわからないけど心にのこる。それで小学生とか中学生になってふと目に触れて、また読み返す。それでああ、そういうことだったんだとかおもう。
すげーなって思うはほんと。なんでこういう研ぎ澄まされた、ガチストレートに刺し込んでくるだけのために準備されたような作品が出来上がるのだろうって。いや個人の才能って意味でもだけど、それよりもう少し広い意味で、すげえなって思うよね。
※以下はネットカフェにて一気読み作群。
γ. 原泰久 『キングダム』 39-41 集英社
秦王・嬴政の戴冠式での呂不韋との「天下」をめぐる討論それ自体は悪くない。商人出の呂不韋が唱える「利」に対する政の「光」とかなかなか読ませるのだけど、おそらく性愛がびっくりするほど描かれない漫画ゆえに、言葉も蛮勇も総じて“子どもの遊び”にみえてしまう。戦争が遊戯/ゲームへ堕すこの感じが、たとえば『天地を喰らう』や『蒼天航路』では相対的に薄く思えたのはなぜかといえば、やはりどぎついほど性愛を描いたからだという気はする。掲載誌の違いか時代なのかわからないけれど。
で40巻になると、この漫画の醍醐味である野戦描写が戻ってくる。それで改めて気づかされるのは、プロットにしろ描写にしろ、構造がパズル的であるということ。だから市街戦や陣形変化など描写スケールの解像度が上がれば上がるほど記号的になってゆき、下がれば下がるほどリアリティはむしろ増してみえる。少し省略して書けばそれはたぶん、顕微鏡で見ようが望遠鏡で見ようが自然はつねにカオスだからだ。
など書いたあとの41巻、密林「黒羊」会戦。もう完全にゲーム盤上で両軍両端にスタンバイ用意ドン!で笑う。ブルーロックよりも正味のサッカー漫画読んでる感。
δ. 魚豊 『チ。 -地球の運動について-』 7,8 小学館
3巻までの圧倒的な面白さが、4~6巻で中だるみへ至ってもなお傑作の域に収まるのに対して、終盤7,8巻の駄作ぶりはかなり不可解。各人物が頭でっかちなストーリーラインへ完全に仕えているくせに各々の実存をキリッと描いてる感がひたすら幼いし、C教とかいてキリスト教と明言しない姿勢も序盤では周到さと思われたけど、終盤では単に腰が引けた結果かと疑いを呼んでしまう。惜しいなぁ。1巻とか、神感しかなかったのに。
ε. 四葉夕卜 小川亮 『パリピ孔明』 1 講談社
めちゃ有名な作品なため期待値が高すぎたのか、後半テキメンに飽きた。三国志の故事をパリピ/クラブ周りに割り当てるだけで、孔明当人の人物造形に知性の奥行きをまったく感じないのが弱い。これの何が人気を呼んだのか、逆に続きがやや気になる。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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