pherim㌠

<< 2023年11月 >>

1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930

pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2023年
11月01日
23:58

よみめも85 流れるモモの黄色い夜

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみでも扱う場合あり(74より)。部分読みや資料目的など非通読本の引用メモは番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
  Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV




1. 木下龍也 『天才による凡人のための短歌教室』 ナナロク社

さっきまで騒いでたのにトイレでは他人みたいな会釈をされる
手がかりはくたびれ具合だけだったビニール傘のひとつに触れる
裏側に張りついているヨーグルト舐めとるときはいつもひとりだ 39

ママンあれはぼくの鳥だねママンママンぼくの落とした砂じゃないよね  東直子「青卵」
好きでしょ、蛇口。だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ  陣崎草子『春戦争』  40
実際よりだいぶ近くに見えてる気しない? ニトリの文字でかくない?  岡野大嗣『たやすみなさい」 56

詩集から顔を上げれば息継ぎのようにぼくらの生活がある 65
風の午後 『完全自殺マニュアル』の延滞者ふと返却に来る 
自販機のひかりまみれのカゲロウが喉の渇きを癒せずにいる
冬、僕はゆっくりひとつずつ燃やす君を離れて枯れた言葉を 73

やめてくれおれはドラえもんになんかなりたくなぼくドラえもんです
ショッカーの時給を知ったライダーが力を抜いて繰り出すキック
細々と暮らしたいからばあさんや大きな桃は捨ててきなさい 77

きらきらひかるな。
これは予定調和的な言葉のつながりを避けよ、という意味だ。短歌は31音しかない。そのなかにきらきらひかる、くるくるまわる、ゆらゆらゆれるのようなだれでもつながりを予測できる言葉、慣用句を置いてしまうのはもったいない。また、ひとつの言葉から連想しやすい言葉を置くのも避けたほうがよい。見慣れた言葉の連なりは、何のひっかかりもな くさらっと読み流されてしまう。では、きらきらひかるじゃなくてなんだったらいいんだろう、とたまたま短歌教室に来てくれた服部真里子さんという歌人に聞いてみたところ「ベとべとひかる」と即答されたのでこのひと天才だと思ったことがある。 74

神をいじくりたおせ。
死と同様に、科学がいくら進歩しても神についてはほとんど何もわかっていない。外側だけ、言葉だけがあって実体がない。()宇宙の始まりを考えるとどうも神のような存在がいたのではないかと思うが、この宇宙にはもういないだろうというのが最近の僕が思っていることだ。スイッチを押して去ったのだろう、と。まあそんな話はいいとして、神という字面は強いので短歌のなかに置いておけば一首を引き締めるのに効果的である。

神様は君を選んで殺さない君を選んで生かしもしない
キリストの年収額をサブアカで暴露している千手観音
あの羽は飾りなんだよ重力は天使に関与できないからね
神様にケンカ売ったらぼこぼこにされちまったぜまじありがとう 82-3

元歌:静寂の眠りの海に潜れない身体が浮いて打ち寄せられる  森本尚子
推敲:あたたかいねむりの海へ潜れずに朝の岸辺へ打ち上げられる  110



 短歌製造マシーンと化した筆者が、獲得した超人性と失われた人間性とのはざまで苦悩するモードがむだに感じられ面白い。「単にこうやれば短歌できますよ、俺やってますし」では当人も読者も面白くなかろうという心配りなのか謙遜なのか。

 下記引用は巻末のリアル対面請負短歌作成イベントでのもの。題詠を有料でやるイベント。一首あたり20~30分だったかな、さすがと感心するものあり。


欲求に素直な個体から順に死後の世界へ釣り上げられる
お題 素直になることについて。
9月1日午後5時
お題 つらいこともあったが生まれてから一万日目以降も生きていくための短歌。
飾れない絵ほどやさしく抱きしめて一万一枚目を描くよ
9月2日午後3時
とびきりな容姿のせいでたましいを見てもらえない美女も野獣も
お題 うつくしい人を目の前にしてもひるまないための短歌。
9月11日午後5時
お題 洋服を買い過ぎるのを止めてほしい。
栓のない浴槽に湯を注ぎ込みつま先だけをあたためている
9月12日午後3時
いらだちを胸のフィルムに焼き付けてきみはたびたび暗室へゆく
お題 このつまらない世界について。
9月13日午後5時





2. ミヒャエル・エンデ 『モモ』 大島かおり訳 岩波少年文庫

 『きみの言っていることは、ぼくにはちっともわからない。ぼくの心臓にはむすび目があるから、むかしのことはなにひとつ思いだせないんだ。』
 それを聞くとモモ姫はジジの胸に手を入れて、すぐに心臓のむすび目をといてあげました。たちまちジロラモ王子は、じぶんがだれで、どこのひとかを思いだしました。彼はモモ姫の手をとると、いっしょに出かけました――とおくとおくの〈あしたの国〉にむかったのです。 78



 子どもの頃に絵本版か縮約版を読み聞かせられたか、読まされたのか。ともかく知ってるつもりだけれどいざ考えてみるとあらすじ以外なにも思い出せない作品というのはたくさんあるもので、子どもでも育てるならそういうものらと出会い直す機会も度々ありそうだけれど、ひとりでにはなかなか再読しないものだよね。
 
 『モモ』はたぶん再読ですらなくて、ほぼ全編初読の印象ばかりが先立ち、しかも二人の親友であるジジとベッポは、かたや六本木あたりでブイブイ言わせてるけど自分でブレーキ利かなくなったIT起業家みたいだし、かたや円安その他で年金や老後の資金運用に失敗した高齢ワープア世代っぽくて今日感満載だった。あとマイスターホラの賢者イメージは『君たちはどう生きるか』の翁だし、時間の花はシシ神よな。


「あたしの言いたいのは、木の上を風が吹くと、さざ波がおこるでしょ、そういうようなことなの。でもあたし、きっとくだらないことばかりしゃべってるんだわ!」
「いや、そんなことはない。おまえはなかなかいいことを言うよ。だから、ひとつ、おまえにあかそうと思うのだがね。ここの〈さかさま小路〉の〈どこにもない家〉は、あらゆる人間の時間のみなもとなのだよ。」 235


 
 あと鮮烈だったのは序盤も序盤、「第一部3章 暴風雨ごっこと、ほんものの夕立」での、唐突なる冒険船ごっこの描写。
 ここ前とも後とも一切関連なくて、まるごと削除されても話の展開に齟齬は生じない一方で、この束の間の飛躍があるからこそ後半の大跳躍がすんなりと入ってくるというのもたぶんある。円形劇場の廃墟に、夕立のあいだだけ生まれる大海原と、未知の巨大海棲生物との格闘。ハカセ少年の悔いまで含め、ここ素晴らしい場面だわほんと。
 という目のつけかたはたぶん、子どもの頃にはできなかったようにもおもう。
   

「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去におこったことのように話しましたね。でもそれを将来おこることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」 397(作者のみじかいあとがき)


 円環性に開いて終わる。テッド・チャンの前継感さえ含み込む超秀逸エンタメ時間SFよなぁ。

 バンコク会社在庫の一冊。




3. 川上未映子 『黄色い家』 中央公論新社

 自分を救ってくれ、優しく包んでくれた歳上の大人が、そばにいるうち弱さとどうしようもない欠点とを抱えたひとりの人間であることを受けとめ、やがて老いゆき、かつて感覚された光、あるいは憧れが物象化されたようなアウラのようなものが剥がれ落ちゆく様をみる。切ないといえば切ない。けれどそれ以上にリアルのずっしりとした手応えがもたらす滋養、読み物からこそ摂取可能な。
 

 「うん」
 「会いにくる」
 「うん」
 「会いにくるよ」
 黄美子さんは笑った。そして、ゆっくりとドアを閉めてなかに入った。

 わたしは来た道をもどり、商店街をぬけ、駅をこえて、知らない道を歩きつづけた。道はゆるやかに曲がったり、交差していたり、行き止まりになったりしていても、少し戻ればどこかにつづいていて、わたしは歩きつづけることができた。途中で公園をみつけてベンチに腰を下ろし、涙が乾くまでそこにいた。夕暮れにむかう夏の、懐かしいにおいがずっとしていた。
 やがて小さな駅に辿りつき、わたしは最初にやってきた電車に乗った。西にむかって走る電車には、たくさんの光が細切れになって届き、床や座席やドアや乗客の服のうえにいろんな形を落としながらゆれていた。
 気がつくとわたしは眠っており、みじかい夢のようなものをみた。はっきりと顔はみえないけれど、誰かが楽しそうに笑っていて、わたしたちは走っていて、汗をかいて、すごく楽しくておなじくらい不安になって、悲しくて、それからやっぱり笑っていた。花ちゃん、花、ねえ花ちゃん、花――遠くで誰かの呼ぶ声がして顔をあげると、どれくらい眠っていたのか、窓の外に一面の夕焼けが広がっているのがみえた。それは胸にちょくせつ流れこんでくるような夕焼けで、それはもう思いだせなかったはずの、思いだすこともなかったはずの懐かしい色になり、かたちになり、声になっていった。わたしはそれを目に入れられるだけ目に入れて、息をとめ、それからもう一度目を閉じて、つかのまの眠りにおちた。 600-1

 
 
 『万引き家族』の水商売版とでもいうか、作品よりも本人の露出のほうが目に入るようになって久しい川上未映子の小説って、こんな感じになってるのかとその社会派ぶりにやや驚く。裏稼業周縁をめぐるリサーチもよく為されている感じだし、感性と関西弁&音楽畑のリズム感主体でのしてく初期の風味とはまるで異なることに驚く。計算高く、巧くなってる。まぁそれがプロというものなのでしょうけど。
 それでもそこかしこに顔を覗かせる、かつての語の圧みたいなもの、そっちのほうがやっぱり好きだけど。
 
 


4. 下坂裕美 『水流 Water Current』 自主制作

 わたしの目の前に川があった。その音がして、向こう岸の光が揺れて、そこに流れがあることがわかる。光は散り散りに光って混ざらない。川と、川べりの草地は黒で溶け合わさっている。そこにおりていく。土手をおりるわたしの足は勝手に踏み出される。いつだって、川におりるときは転がるみたいにしておりる。両手はかつて馬として駆けていたものの一部を抱きしめている。 8 (リバーサイドヘッド)


 短篇「リバーサイドヘッド」、極短篇「アンダーカレント」、井戸川射子『ここはとても速い川』書評、の3部構成。
 
 瞳に映り込む情景と、脳裡をよぎる心象風景と、非線形に流れる時間。これらをひとつの文章、ひとつの段落のうちに重ねて織り込むような丹念さがこのひとの言葉遣いなのだと、はじめはひたすらその分厚さだけをうけとっていたこの目にも読みとれるようになってきた。ようやく。
 いま書かれているのは浅野川?それとも犀川のほうなのですか。みたいなことも時々おもう。


 溶子はいつだって爪の先で世界に出会った。風、雨や季節、その温度も、最初に感じ取るのは爪だった。人の体に触れると痛かった。骨の隆起から、窪みの深くにある内臓まで、爪で皮膚をなぞれば、その頼りなさが染みるようにわかった。そんなときに溶子は思う。わたしとは、この爪のことだ。感情も記憶も感覚も、すべてその下にある。 10 (アンダーカレント)

 
 容子ってなんかあったなと豊田徹也『アンダーカレント』などひもとき、銭湯場面に出てくる髪のぼさっとした女の子がそうだったようなと思ったけど名前が見当たらず、いやほぼ同じ造形だけど豊田徹也『ゴーグル』のほうで探偵山崎のバディになる少女のほうかもと思い直して『ゴーグル』などひもとくも、キキというあだ名しか見当たらず、はてと思ったところで映画『アンダーカレント』の主演が真木よう子だったことが思いだされる。 
 というか、容子ではなく溶子だと気づく。それなら、川だ。川だよねぇ。 
 
  井戸川射子 読書メモ1 https://tokinoma.pne.jp/diary/4893 『ここはとても速い川』他3作
  井戸川射子 読書メモ2 https://tokinoma.pne.jp/diary/4927 『遠景』
  豊田徹也『アンダーカレント』https://twitter.com/pherim/status/1709477966428942610
  今泉力哉『アンダーカレント』https://twitter.com/pherim/status/1709483674440474921

  
  
 読み物として、素朴に自分の書くものは負けてるねぇ、と思わされる。下坂さんにはそれはもう頻繁に。いや勝ち負けとかではもちろんないのだけれど。けれど一文へかけてる圧がまったく違う。それは毎度感心させられるばかりだし、こういう類の敗北感は心地よいので好きなほう。なにくそ、ではなく、そっかぁ、で受け流しつつ、やる気は深まる。みたいなほう。


 粒子の濃淡で像を結ばれた像はその一瞬にだけ存在して、少し時間が流れて太陽や雲が動けば、それかこちらが立つ位置を移せば、すぐに姿を変える。だからあらゆる形は水流と似て、ほんとうは確かな形ではない。
 ()
 なぜ小説を書くかも、なぜ写真を撮るかと似ている。流れにあらわれる、波や渦、水面のはね返す光、奥にある影、その一瞬のよくわからない形を、よくわからないままに 言葉を重ねて書きつけていく。 (あとがき)

 

 金沢なぁ。
 
 
 

5. 夏目漱石 『吾輩は猫である』 岩波文庫 [再読]

 坊っちゃん以降の三部作テイストと、草枕や「私の個人主義」の批評テイストのブレンドというか、これだけ異色な印象のあった『猫』だけれども、久々に繙いてみるとまぁ全編漱石そのもので、いかにも軽躁っぽい社会諷刺が延々連なる感じが悪くないし、なにより素っ気ない終りかたがいい。
 
 なんだろうな、これこそ新聞に連載されたら良さそうなものなのに、いまググったらむしろ坑夫とか門とか明暗が新聞連載されてた当時の思潮、ぐぐっと知的ですよね令和なんかより。

 てか漱石『韓満所感』、2010年に黒川創が発掘て。知らなかったわこら読みたいね。
 
 


6. 本谷有希子 『嵐のピクニック』 講談社文庫

 13短篇収録。習作的な実験性の高いものから、文芸したい意気込み薫る力作まで。
 
 「奇妙な味」というキーワードで語り切る大江健三郎の解説がなかなか読ませて、こういうどちらかといえば「現代っ子」の感性を全面化させるような作品に大江が共感を述べる文脈って面白いなと思ったら、大江健三郎賞受賞してるのね。そういう交錯もまた面白い。
 
 あとピアノの先生との交接めぐる冒頭作は、近藤真理子短篇(よみめも前回)を強烈に想起させるなど。




7. 村上春樹 『1Q84』 BOOK3〈10月-12月〉前編 新潮文庫 [再読]

 それを聞いて女教師は満足そうに微笑んだ。小さな瞳の中で何かが陽光を受け、遠くの山肌に見える氷河のようにきらりと光った。少年時代の天吾を思い出しているのだ、と牛河は思う。二十年も前のことなのに、彼女にはきっとつい昨日の出来事のように感じられるのだろう。
 津田沼駅に向かうバスを校門の近くで待ちながら、牛河は自分の小学校の教師たちのことを考えた。彼らは牛河を記憶しているだろうか? もし記憶していたとしても、彼のことを思い出す教師たちの瞳に親切な光が浮かんだりすることはまずあり得ない。 209

 まるでその音を聞きつけたかのように、ふかえりはさっとカメラの方を向いた。そしてファインダーを通して牛河とふかえりは向かい合うかっこうになった。牛河の方からはもちろんふかえ りの顔がはっきり見える。彼は望遠レンズを覗いている。しかし同時にふかえりも、レンズの反対側から牛河の顔をじっと覗き込んでいた。彼女の目はレンズの奥にいる牛河の姿を捕らえている。滑らかな漆黒の瞳には牛河の顔がくっきりと映っている。そんな妙に直接的な接触感があった。彼は唾を飲み込んだ。いや、そんなはずはない。彼女の位置からは何も見えないはずだ。望遠レンズはカモフラージュされているし、タオルでくるんで消音したシャッター音はそこまでは届かない。それでも少女は玄関先に立ち、牛河の潜んだ方向を見ていた。その感情を欠いた視線をただ揺るぎなく牛河に注いでいた。星明かりが名もなき岩塊を照らすように。長いあいだどれほどの時間なのか牛河にはわからない――二人は互いを見つめていた。それから突然彼女は体をねじるように後ろを向き、足早に玄関の中に入っていった。見るべきものはすべて見たとでもいうように。少女の姿が見えなくなると、牛河は肺をいったん空っぽにし、少し時間をおいて新しい空気で満たした。冷ややかな空気が無数の棘となって、胸を内側から刺した。
 人々が帰宅し、昨夜と同じように玄関の明かりの下を次々に横切っていったが、牛河はもうカメラのファインダーを覗いてはいなかった。彼の手はシャッターのリモコンを握ってはいなかった。その少女の留保のない率直な視線は、彼の身体からあらゆる力をもぎ取り、持っていってしまったようだった。 なんという視線だろう。それは研ぎ澄まされた鋼の長い針のように、彼の胸 を一直線に刺し貫いていた。背中まで突き抜けそうなくらい深々と。 319-320


 


8. 阿部公彦 『病んだ言葉 癒やす言葉 生きる言葉』 青土社

漱石には胃病と神経病という二系列の病気があった。スーザン・ソンタグにも指摘されているように、病を意識することで身体感覚を確定させ、そこから現実とのつき合い方をも安定させて実存的不安を解消する、という傾向は多くの作家にみられるが、漱石の場合、自身のうちに胃と精神というふたつの病の系列が拮抗するのを意識していたということが重要に思える。そのどちらが勝るかは、そのときどきの作家の状況に応じて変わってくるのだろうが、『三四郎』から『それから』、そして『門』へと進んでくる中で明らかになるのは、ふたつの系列の病のうち、胃の病こそが漱石の現実感建設の中心となっていくということである。胃の営みこそを小説の芯の部分に据え、自身や主人公を胃の病を生きる人間として意識し描くことで、漱石は世界との関係を安定させ、 小説世界における「リアルなもの」の水準を確立しようとする。そしてその一方で、ちょうど『三四郎』において食がきわめて出来事的であったのと同じように、神経が物語的出来事性を担うようになっていく。宗助が寺にこもるなどという事件がおこりうるのも、神経がプロットの片棒を担ぐに足りるほど主題化されているからだろう。 160




9. 坂口恭平 『継続するコツ』 祥伝社

 最近、感じているのは、別に売れなくても全然継続することはできるってことです。そこが問題ではないんです。 20

 僕は絵を毎日1枚描いてます。 とにかく毎日1枚描くんです。なぜなら面白いからです。描いたら、新しい絵がまたこの世に生まれるじゃないですか。 僕には2人子供がいますが、やっぱりこれまで存在しなかった生命が誕生するのって驚 きですし、すごいことです。
 絵もまた同じなんですね。これまで存在しなかったものが生まれるんです。これ自体、相当すごいことだと僕は思うのですが、描いていると、少しずつ慣れてくるんですね。そのことの驚きに慣れてくる。あと描き方も慣れてくる。そうすると、誕生すること自体の驚きが減っていくんです。 40-1

 こんな発見、他の人は絶対に気づいていないはずだと興奮したくらいです。 興奮しましたので、不思議と鬱は一瞬で治りました。これも分かりやすいことでした。鬱って、ぶっちゃけ、ただ退屈しているだけなんですね。面白い、と思えることが何 もなくなっているだけで、面白いと思えることを見つけることができたら、一瞬で治ったんです。もちろんこれは「僕の」ってことですけど。
 でもおかげで分かったんです。もちろん「書きたいのに、書けない」っていう状態がどういうことなのかを、です。 58

が、僕がこの話をすると、大抵の人が、死にたい時に作ることなんかできない、って言うんです。分かりますよ、僕も鬱の時はいつもそう感じてますから。作りた いことなんかない、と感じてます。 でも、(僕の場合は) 勘違いだったんです。作りたいことなんかない、死にたい、このどちらも勘違いだったんです。
 今から多少屁理屈を言いますよ。死にたいと電話までして、僕に伝えたいんです。つまり、これは僕が鬱の時に、苦しい苦しいと書かずにはいられない状態と同じなんですね。 60

 今、この瞬間、お前は何が書きたいんだ、ルールなんか飛び越えて、下手でもいいから、今すぐ、悩むことなく迷うことなく、突き進んで書きたいと思うことを書いてみたらいいよ、それはとっても楽しいよ、勇気が湧くよ。 64

それでも連載となると、毎日少しずつ書いていくので、書きたい時に 一気に書けたらいいんですが、1日に300枚も書くわけにはいかないので、それだと継続できませんから、1日に定量書いていく必要があります。
 僕はまず、何か書きたいことを思いついた時は、すぐに書くんですね。そりゃ書きたいことですから、どんどん書きたいことは出てくる。書きたいと思ったその日は最高の日です。何も考えずに、どんどん書けます。 でも書いている と、体力的にきついなと思う時が来るんですね。それ以上やると、少し嫌になり ます。作りたいことはたくさんあるけど、体力的にしんどくなると、それでも嫌になります。というわけで、体力的にきついと思った瞬間にやめます。この本で初日に書いた原稿は3枚でした。1万3千字。結構な量ですよね。僕は毎日、ど んな原稿でもいいから、400字の原稿用紙1枚は書いていこうと決めてます。そういう習慣を継続しているからではありますが、30枚くらい一気に書けちゃうんですね。
 で、これを継続できるかというと、できなくはないけど、体力的にきつくなる。 そこで、毎日書く量は少し落とします。()毎日20枚書くことにしました。 70

「力入れたらダメよー」なんてことも言わないんです。「力が入っていいですね、僕なんて力も入らないから、だから、毎日描いてる。手の運動、手の運動」と、もうどこか遠く彼方から優しい天の声みたいな感じで、それなのに 毎日地に足がついていて、継続仙人って本当に半端ないんです。人を馬鹿にしないですから。
 もう参った! みたいな感じで敬服しようとすると、すぐその下から出てきて、顔を出して「この絵はいいなあ、どうやって描いたの?」なんて、子供みたいに質問してきたりするんです。 謙虚の塊、好奇心の塊。 諦めない力なんか捨て去っているのに、力の抜けた状態で、どんな状態でもやっぱり学びの姿勢が半端ない。 130

 でも、書くことの本来の喜びは違います。書くことは伝えることじゃありません。伝わることを意図してやるのではなく、頭の中の、永遠に形にならないグニャグニャしたものを瞬間的に、一時的に出し続けることによって、頭の中を共有するというか、その中で遊ぶというのか。そうすることで、音楽を一緒に聞いているような、映画を一緒に見ているような、それなのに一人でいることができ るというのか。深くつながるという瞬間と孤独の瞬間が混ざっていく、どちらで もあるような心地良い感じが出せたら、僕が感じている流れみたいなものが人に伝わっていくんです。 それが面白いんです。
 意味を伝達するために言葉を使わないってのが、僕が書くときにイメー ジしていることです。そうじゃないもの、言葉にすることができないものが伝わっていく感じ。そういうことを書くことで、具体的に形は見えないのに表現することができるんです。そのこと自体に興奮していくというのか、 そのこと自体が面白いんです。今、これが伝わっているのか分かりませんが、伝わらなくてもいいんです。 流れが振動となって、読む人が感じてくれたらそれでいい。 134-5

継続は本能を超える
 幸せを感じている時の力はとんでもないです。 恋もしてないのに、恋の力を上 回る力を出せるんですから。継続は恋にも勝ります。本能的な力に勝るってことです。継続は本能を超えるんです。これはとんでもないことです。本の出版計画なんか打ち合わせしている時間があったら、新作を書きたいんです。書き上げてからでいいんです、打ち合わせは。 145

なかなか習慣にできないとか言っている人に聞いてみますと、全員手が止まっているわけです。当たり前なんですけど。 手を動かしながら悩むってこと に決めてやっていくと、継続は継続します。悩みというものは一時的なもので、忘れると、なんで悩んでいたのかすら思い出すことはできませんが、作品を作りながら悩むと、悩みは消えても作品は残ります。当たり前のことしか言ってないですけど、そうやると作品は進んでいくんです。 それでも継続的に描き始めた絵 は2015年から2020年まで、自分が良いなと思える絵は数枚で、そんな感 じですから毎日描く前に緊張するみたいなこともありました。
 でも5年経過した時に、僕はパステル画を見つけたんです。
()
生まれて初めて、描いてみたい、と思うことが姿を現したんです。この時はむちゃくちゃ嬉しかったです。 それまで描くという行為は楽しかったんですが、何 を描くかってことにまで精神が向かってなかったんですね。それでも十分楽し かったんですが、描きたいものが見つかった時の楽しさの広がりにはびっくりしました。こうなると、絵を描くことも文章を書くことと同じくらい、死 ぬまで継続できるものになると思えるんですね。そうすると継続の気持ちもグングン上向きになります。毎日1枚必ず描くという日々を2020年5月からずっ と続けてきてます。 152-3

たいしたことはないけれど、なぜかその行為を継続することが、自分にとっての揺るぎない幸せにつながっている。この確信が人を生かします。生きていてなんだかポカポカす るなあって朗らかな気持ちは、このような瞬間に訪れるのではないでしょうか。僕には訪れてます。同時に、いつか多くの人々に伝わってほしいなあっていう軽い願望も持ってます。でも、それには時間をかけていこうと思えるのです。継続が5年を超え、10年を超えてくると、もうすでに幸せタイムには入っているので、長い目で見ることができるようになってきます。そうなってくれたら嬉しいけど、そうならなくても十分幸せだから問題なし。
 このようなポカポカな気持ちが入ってくると、もう人生、何が起きても怖くな くなります。怖くなくなるとさらに挑戦ができますし、継続はより強くなってい きます。こういう時には必ずチャンスがやってくることも、経験を積んでいくと分かるようになるでしょう。余裕のあるところにしか、楽しい気持ちは舞い込ん で来ないのであります。大事なことは、周囲に一切の期待をしない。自分にも期待をしない。期待はせずに明日また継続する、です。そうすると期 待というものが、継続していないのにただ望んでいるだけの、幸せとは結びつかないものだと分かってくるはずです。継続していると、期待はしなくなります。 でも、自分の行為の延長線上がはっきりと見えてくるんです。だから、その後に起こることが少し予測できるようになります。しかも、人間の経験を通じた予測はいつも、思ったよりも良い結果につながります。
自分の得意なことが具体的に分かってくると、作ることの速度と強度がどんどん増していきます。 158-9

僕の場合は毎月5日間ほどの鬱が来ますので、そこでぶっ倒れることによって、他の日は休まないで生活できるんですね。鬱で全部抜けていくからか、風邪 とかも引きません。 しかも、鬱が明けて現実に戻ってくると全く新しい視点で見ることができるので、休養もできるし、新しい創造性も発見できる。ということで、苦しいんだけど、なくてはならないものではあるんですが、今月は鬱になりそうな気配がありません。
 鬱が来ないと、もう休まずにどんどんやっていく生活が続くってことになります。一応、鬱予定日は予想してたので、その予定日を丸々、鬱じゃないけど鬱になったと思って休むことにしたんです。4月18日から4月24日までの1週間。体調、むっちゃ良いのに休んでみました。
 で、僕の場合、休みとはどんな感じかというと、本当に布団に横になったまま寝て過ごしたりすると、体調が悪くなってしまうんですね。それだと退屈ですか ら。 僕は天下一の暇人ではありますけど、退屈は嫌いなんですね。これは鬱の時の治療法ともつながるのですが、僕は退屈している限り鬱からも治りません。でも休む必要がある。休むっていうと、布団に横になるってことしか頭になかったんですが、最近はもう分かってきました。僕にとって休むとは、ただひたすら好きなことに夢中になるってことなんですね。食べるものは、全部食べたいものだけを食べる。一緒にいたい人としか一緒にいない。そして時間は、やりたいことだけをやって過ごすってことです。 162-3

 そうです。継続は、とにかく嘘を全部蹴散らしてくれます。嘘だろうとなんだろうといいのです。どうせ嘘は続かないんですから。10年くらい じゃまだまだでしょう。 199

どうなっても、きっと僕は作り続けます。お金がな くなっても、完全に仕事を干されたとしても、テーマがなくても、売れなくても、 売れすぎて有名になりすぎたとしても、あんまり変わりません。これは本当 に技術の話ではないんです。やり続けると、自然と技術は向上するってだけです。とにかくやりたいことをやること以外に楽しい時間はないんです。
 これは僕だけでなく、皆さんも同じなはずです。 でも、なぜか人はやれない理 由や諦める言い訳を考えているように見える。でも僕は、おそらくその真逆を やっているんです。どうにかしてやり続けるために、自分に言い訳を言い続け、誤魔化し続けているのかもしれません。自分をただ褒めるだけじゃ上手くいきません。 僕はそうでした。褒めるとは違う道を見つけないといけない。例を挙げると、書くテーマがないと悩む僕は僕に対して、書くテーマなんかなくてもいいんだと人間的に慰めるのではなく、テーマなど通り越してただ書き続けたがっているマシーンだと、もう人間を通り越して、なんか見つけていくんで す。そっちのほうが面白いじゃないですか。 諦めることに、面白いことは一つもないじゃないですか。
 面白く生きろ、としか言っていないのかもしれません。でも、なんか違うつもりです。固くなっている自分を、いつ何時でもくすぐって笑わせるというか、悪戯を仕掛けるというか。すぐ生真面目に社会と向き合って、自分と他人を比べて、自分を卑下して、社会の言うことを聞かせようとする無意識の自分たちに、親に言い返すみたいに単純に抵抗するんではなくて、まさに僕がやってきたように、うなずき、全ての発言を聞いてあげて、帰り際には全てを右から左に聞き流し、自分のやりたいことをさらに推し進めていく。このふざけた行為こそ、継続を可能にするのではないかと僕は思います。
 ()駄作で十分。書いているという行為だけでも十分心地良い。その代わり、書くことに反省などせず、落ち込むこともなく、また今日もただひたすら気の赴くままに書いてやろう。 だって、書くのが好きだもん。 と、僕は自分で自分のために言葉を発明しました。よって、書くことは止まっていません。いまだに継続してます。そしてその結果、僕は24時間を、自分がやりたいことを継続する時間に充てることを実現しました。 232-4





10.『2023年度東京藝術大学 藝祭パンフレット』 2023年度藝祭実行委員会
 https://twitter.com/pherim/status/1697526954705179002

 136ページ! 浅野忠信xピエール瀧x箭内道彦鼎談が、意外すぎる創造性に充ち大変読ませる。幼少時からとにかく絵を描きまくり、いまは全作ツイッターへ挙げている浅野忠信が妻から藝大受験を薦められ大検の資料を集めるまで行った話、ピエール瀧が実は芸大卒展の大ファンで保存修復までよく観て考えてる話など。




▽非通読本

0. 倉本さおり 「見えない監獄のつくられ方」 小説トリッパー 2022年春号

 遠野遥『教育』&九段理江『Schoolgirl』クロスレビュー。

 個人的にはフーコー『監獄の誕生』の規律権力そのものを学園小説化した遠野遥『教育』を扱うレビュー前半部も良かったのだけど、ここでは「日本語の曖昧さ」と「母娘の密着性」に焦点化した後半部『Schoolgirl』パートのみを。

 そして娘にしてみれば、日本語とは弱々しく曖昧な言語ということになる。〈言葉にくっついている意味のまわりを、永遠にぐるぐるしてる〉イメージは、主体性を欠いた空虚な母の姿にそのまま重ね合わされる。 だが、そんな母の本棚からこっそり持ち出した『女生徒』の読点まみれの文章が、ひとりでに回転し続ける娘の思考にブレーキをかけ、自分以外の他者をすなわち、かつて「誰かの娘」だった母の心の世界のありようを内側に住まわせるだけの空白をもたらすのだ。




▽コミック・絵本

α. 豊田徹也 『ゴーグル』 講談社 [再読]  

 『アンダーカレント』の探偵山崎が大活躍する表題作ほか短篇6作。《喪失感》がうっすら通底するテーマになっている。とりわけ「ゴーグル」の、喪失をどう受けとめて良いかわからずに澱み留まる状態に重点が置かれ、浮上の予感をつかむ瞬間に終わる感じは『アンダーカレント』に通じる。

  豊田徹也『アンダーカレント』https://twitter.com/pherim/status/1709477966428942610
 
 これだけ自分の描きたいことをだいじに育ててきた漫画家の作品が、売れっ子監督の手により映画化される。日本の商業映画もまだ捨てたもんじゃないって思えちゃうささやかな事件だけれど、この「だいじに育ててきた」部分を『ゴーグル』がよく明かしてますね。
 
 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]




β. 山口つばさ 『ブルーピリオド』 1-3 講談社 [1,2は再読]

 3巻でいよいよ受験態勢が本格化。浪人生クラスの魔境感が良い。現役生とは毎日の時間感覚からして違うわけで、そりゃ怖いよねきっと。あと実際の元美術予備校生たちの習作群をマンガ内へ転載するやつ、これはすごい発明ですね。講師の説得力パない感じになるし、なにより読み進む楽しみとして全く異なる軸が加わる感じ。てかたぶん、これがなかったら東大一直線?、ドラゴン桜的なやつと同じで読み進めたいとはとくに思わなかったかもしれない。楽しい。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]




(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)

γ. 九井諒子 『ダンジョン飯』 11 KADOKAWA

 迷宮の主へ予想外のキャラがなる流れ。にしても敵ボスが「欲望」の欠けた女というの配置は、並行読み中ファブルでの恐怖心の欠けた敵ボスにもどこか通じて、欠落が強味となる転倒にほんのり惹かれる。けれどさすがにそろそろ、まったく構造と人物相関図の異なる別ダンジョンの話も読みたくはなってきたかな。



 
δ. 真鍋昌平 『九条の大罪』 3-5 小学館

 3巻のメインクライアントたるお婆の号泣はなぜかぜんぜんまったくすこしものれず。4巻で描かれる発達障害売春娘の地獄はエグさの真鍋節炸裂した感。蛇足なカタルシス不在が功を奏してるとも。あと両巻とも壬生の構成的な立ち位置が曖昧で展開がよくつかめないなと感じたけれど、5巻で裁判所~警察の制度/権威サイドとの対照性が明確になってきたので、なるほどと。

 


ε. 南勝久 『ざ・ふぁぶる』 講談社

 ファブル小エピソード群に始まり、コンテンツの過半はナニワトモアレ/なにわ友あれのスピンアウト。昭和感との接続が面白く、ザ・ファブルの平成感が本編より際立つ感じ。





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
Amazon ウィッシュリスト: https://www.amazon.co.jp/gp/registry/wishlist/3J30O9O6RNE...
#よみめも一覧: https://goo.gl/VTXr8T
: