pherim

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pherimさんの日記

(Web全体に公開)

2024年
04月30日
22:50

よみめも89 半神と踊る赤ちゃんの夜

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみでも扱う場合あり(74より)。部分読みや資料目的など非通読本の引用メモは番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. 大崎清夏 『踊る自由』 左右社

線画の泉

陶器の白い泉から、線は放射状に湧いて、それは、勇気のようなものだった。小さい陶器だったけれど衝撃的な形をしていて、いくらでも勇気を受けとめたので、皆とても驚いた。この泉は底なしだと誰かが言った。皆とても怖くなった。泉は布で覆われた布の下で、勇気はいつまでも湧き続けた。少し経つと人びとは関心を失ったが、あなたは挑むことにした、あなたの限られた材料で。あなたの材料は白い紙と黒い線だった。どんなに白くても紙には縁があるから、今朝、ちいさなマグカップでコーヒーを飲みながら、線を一本、意思の力で紙に引いたあなたの黒い勇気の量と、泉のとめどない勇気の量とを、比べることなどできなかった。陶器の白い泉から、線の飛沫はきらきら散った。わたしはあなたの味方になろうと努めながらも、憧れにも似たかんじの眼差しで窓から見える泉を眺めた。ふる里にいた頃は絵日記ばかり書いていたのに、いつのまにか分業の世界に慣れて、濡れた手で窓を閉めて、わたしはあなたの線を誉める係になっていた。あなたの線は黙ってきっぱりと絵になってゆくのに、わたしの線はぺらぺらと言葉になってばかりいた。陶器の白い泉から線が湧きはじめた日、右の脇腹がかすかに痛んだ。お風呂に浸かりながら体を捻って見てみると、笑う顔のような痣ができていた。わたしはそのことを誰にも言わないことにした。次の朝、窓からふたりで泉を見た。よく喋る女が四人、陶器の周りを囲んでいた。そのとき、あなたの右隣にいるわたしが、闘志に薪をくべたのがわかった。痣が、声を立てずに笑った。あなたの肩に嘘ではない応援の言葉をかけたまま、ちいさなスープ皿をシャツの下に隠し持ち、あなたの目を盗んで、わたしは今日、泉へ勇気を浴びにいく。 26-7


ジョーカー

あなたは笑う。あなたは悲しい。
あなたは笑う。あなたは痛い。
あなたは高笑い。あなたは孤独だ。
あなたは嘲笑う。あなたは惨めだ。
かわいそう、私はあなたが。
おそろしい、私はあなたが。
何がそんなに可笑しいの。
何がそんなに刺さっているの。
わからない、私はあなたが。
何も差しだすことができない。

私はあなたに――
あなたは笑う。あなたは踊る。
あなたは笑う。あなたは殺す。
あなたは笑う。あなたは革命家。
あなたは笑う。あなたはみなしご。

私も笑った。迷ってしまって。
私も笑った。怒ってしまって。
少し経ったら真顔をつくった。
知っているふりをした。
私は遊んだ。祈るふりをして。
私は歌った。愛するふりをして。
私は微笑んだ。抱きしめるふりをして。
私はにやけた。ごまかして。

あなたは笑う。あなたは知らない。
あなたは笑う。あなたは求める。
あなたは笑う。空気が燃える。
誰かがあなたを見て笑った。
可笑しいことなんて何もない。

誰もあなたを探さなかった。
誰もあなたを邪魔しなかった。
私があなたを探さなかったのに
あなたが私を見つけるようなことがあれば
生かしてはおかないだろう
あなたは私を――。
あなたの憤りは爆笑している。
あなたの傷口は冷笑している。
私は笑う。私は脅える。
私は笑う。私は黙る。
今日は、あなたは笑っていない。
あなたは私を凝視する。

54-7


みや子の話(抜粋)

新宿は新宿でコマ劇はゴジラに踏みつぶされちゃった、あの近くに龍ちゃんの「イン・ザ・ミソスープ」に出てくるバッティング・センターがあるのよ知ってる? あたし一度だけ行ったことある。あの小説好きなのよね薄汚くて暗くて気持ちわるくてとてもきれいで。
ほんの十数年暮らしただけよ東京なんて。みんなほんとうにいなくなるのが好きだよね。海のある街に住んだってきっと海だけじゃ満足できないから高い電車賃をかけてあちこち出かけるだろうし出かければ出かけただけ思いいれのある場所が増えて生きてるあいだあとどれだけ寂しくならなきゃいけないんだけど、この場所はなんにも変わってないように見える。何年ぶりかしらねえ、あなただって随分来てなかったんでしょ。変わってしまった場所のことは寂しいのに変わらない場所って素直に好きになれない。あたしなんか必要とせずに変わらない場所になったってことがわかるからその時間に嫉妬してしまう。海には嫉妬しないのよ、あれふしぎね。海にはいつかそのうち帰るからかな。え、今夜? まだ帰らないに決まってるでしょ、あなたどうして今夜あたしと呑んでるかわかってるの、まだ肝心の話をしてないじゃないの。 69-70


まくら――枕

見知らぬ人を殺す夢で目が醒めた。太い尖った棒
が熊のような体格の男の胸板にぐすりと刺さり、
平然としていた男の顔が歪んだ。私には無理だと
思ったのかな。真暗な洞穴の入口でぼんやり苔が
光っていた。男は倒れていって、その奥に少女が
見えた。今度はもっと上手に苦しまないようにと
心臓を狙った。ゴロンとひっくり返ってやったー
と思った瞬間、少女はクルッと起きて歩きだした。


まぼろし――幻

時間ってなんだろう。昨日いた恋人が今日いない。
家じゅう探していちばん大きな布を引っぱりだし、
船に向かって振った。船が行ってしまうのを誰も
止められなくて、許せなかった、あなたは走った、
沼があったから飛びこんだ。沼の底は澄んでいた。
水からあがると白い蛇が恋人の姿で待っていた。
黙って精密に抱いて溶かしてからあなたを埋めた。
人はあなたが石になったとか蛇が食べたと言った。





2. ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』 集英社文庫

 これらはテレザが子供の頃から頭を悩ませている問いである。本当に重要な問いというものは、子供でも定式化できる問いだけである。もっとも素朴な問いだけが本当に重要なのである。問いにはそれに対する答えのない問いもある。答えのない問いというものは柵であって、その柵の向うへは進むことが不可能なのである。別ないい方をすれば、まさに答えのない問いによって人間の可能性は制限されていて、人間存在の境界が描かれているのである。 174
 
 要再読。
 
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3. 川上未映子 『きみは赤ちゃん』 文藝春秋
 
 不安が不安を呼び、しかしもちろん自分でなにかができるわけでもまったくないし、あと何日こんな状態がつづくのだろうと思うと、ぞっとした。しかし、もしこの子が生まれてくるのならいくらなんでもあと数日で生まれてくるはずだし、そう遠くない未来に、いつかこのことにも決着がつくはずなのだ。いまのわたしは起きあがれずに不安たっぷりでここでこうしているけれど、もしかしたら決着のついた自分がこの世界のどこかにいて、いまのわたしを「あ~、あのときしんどかったよね~」とかいいながら余裕で思いかえしているのかもしれない。()わたしは麻酔をしてもらってるおかげで痛みがないからただ横になっているだけだけど、これが普通分娩だったら、昼も夜も問わず、ただひたすらに3時間も陣痛に耐えつづけていたはずなのだ(もっとすごい人もいるけれど)。
入院してからほとんど睡眠がとれておらず、しかし明日はいよいよ出産、ということになるかもしれない。ならないかもしれない。でも水分はともかく、眠っていないということがものすごく不安だった。
 それを先生に話すと、睡眠導入剤を処方してくれることになって、それを飲んで少しうとうとと眠った。あいかわらず、おなかはもりもりもりもりもりをくりかえし、数値は100をずうっと維持。 夜なか、何度も目が覚める。この時点で破水&入院から4時間が経過していて、看護師さんが1時間ごとにチェックしてくれるも、子宮口に変化なし。わが子宮口に、もはやひらく意志はないようだった。でも、破水は少しずつつづいていて、陣痛もきているので、や はり問題は子宮口。明日の朝、また飲んでみる薬でなんとかひらいてほしいけど、どうなるんだろう。時間の過ぎるのがほんとうに遅かった。この部屋にも相対性はばっちり行き届き、いつもの何十倍にも感じられる一分一秒を、まるでいまいるこの病院の面というすべての面を、小さな鉛筆で塗りつぶすような気持ちでただじっとみつめるしかないのだった。
 そして翌朝。 飲める最大の量の、子宮口をひらく薬を飲むも、子宮口はびくともせず。 136-7

 

 第一子妊娠から出産、産後に至るまでの心の変化を仔細にとらえたルポ・エッセイ。ゆえあって妊娠関連本を十数冊通読したなかで、具体表現レベルで最も迫真的だったのが本著で、これは川上未映子しか書けないし、川上未映子も一度しか書けないやつ。というのは、『乳と卵』以降「女の性」に主題化した小説を多く書きつづける彼女だからこそ、これらの参照項としてリアルの体験記述が放つ煌めきがここにはあるし、また第二子出産時にもつ感興とはまったく異なるだろうことが誰の目にもわかるほど表現の解像度が高いから。
 日本社会では根強い自然分娩信仰や母乳信仰への考え方が移りゆく記述も面白い。川上はより高くつく無痛分娩を選んだものの、上記引用にもあるように帝王切開へ突入したため選択は意味をなくし、帝王切開後の凄まじい痛み描写があとに続く。


「いまはそんな心境にはなれないかもしれませんが、夜明け前に赤ちゃんにおっぱいを飲ませた日々が、いつか、人生の最も幸せなひとこまとして心に残る思い出になるかもしれません」
 それはそんなような言葉だったのだけれど、この言葉ほど、夜中のわたしを救ってくれたものはなかった。「不眠ゾンビ」は、この本のおかげでかろうじて人間でありつづけることができたといってもいいくらいなのだった。
 ()
 たしかに眠ってなくてほぼ限界だし気絶するほど眠いけど、でもこの時間、この子のこの顔をみつめているのはたったいまここにいるわたしだけで、世界中に、いまここにしかない時間なのだ。
 
 この子はきっと、すぐに大きくなってしまうだろう。こんなふうにわたしに抱かれているのも、あっというまに過去のことになってしまうだろう。誰にも伝えられないけれど、でもわたしはいま、きっと想像もできないほどかけがえのない時間のなかにいて、かけがえのないものをみつめているのだ。そして、夜中を赤ちゃんとふたりきりで過ごしたこの時間のことを、いつか懐かしく思いだす日がくるのだと思う。
 そう思うと疲労困憊から自然にたれてきた涙とはちがう、熱い涙が流れて止まらなくなった。がんばれ赤ちゃん。そしてわたし。指さきでまだやわらかい赤ちゃんのおでこを何度もなでて、『七つの子』をうたって寝かしつけると、赤ちゃんはその夜はじめて連続で4時間眠ってくれた。わたしも少しだけ、眠ることができた。 170-1


 
 イスラエルでふたりの子の子育てを終えた歳上の友人と先日あt、たまたま本書をその日もっていたので見せながらお産をめぐるお国と常識の違いという話に

 また、乳として生きる存在すなわち「即身乳」と化す描写に始まり産後の顛末を書く後半部も面白い。産後鬱のなかで夫である阿部和重を排斥していく心理の変遷などは、一流作家ならではのサスペンス味さえ孕んで読ませる。

「あの時期、助けてくれたのはさっちゃんだけだった」とか、「あべちゃんがわたしにいったいなにをしてくれただろう」とか。あべちゃんが女だったらよかったのに。女だったら、こんな気持ちにならずにすんだかもしれないのに。そんなことも真剣に思ったりした。
 疲労困憊でぐるぐるまきになった暗い部屋のなかで考えはじめると終わりがみえず、いちばん近い距離にいるあべちゃんにその暗い気持ちのすべてがむかい、そしてどうじに、 「なぜあべちゃんに、「オニが生まれたことで、他人は他人でも、みえとはほかの誰とも違う他人になれた」といってくれたあべちゃんに、わたしはやさしくできないのだろう。生きとしけるものすべてに、ここにあるすべてに、なぜわたしはもっとやさしくできないのだろう……」 とか、いきなりエコ&アーシーなあんばいにもなって、なんかものすごく悲しく、またさらに暗い気持ちになってしまって、産後クライシスの被害妄想ここに極まれりってなぐあいで、とにかく、いつも、いつまでも涙が止まらないのである。
 ネットで「出産 夫 いや」とか「母親 孤独」とかでひたすら検索しつづけて、もう、産後を生きる女性たちがみな驚くほど似たようなことを考えていることを知ったのだけれど、しかし彼女たちはそれを態度にだすこともままならない状態で、ときどきネットに書きこんだり相談したりして気晴らしをしている程度。基本的に夫のまえでは口にださず、さらには性交を強要されるというような話を読んだりして、こみあげる怒りのやり場に本気で困った。
 そういう男たちをつかまえて、彼女たちのしんどさ、つらさをどうにかして完全にわからせてやりたいような気持ちになったりもした。彼女たちを覆っているしんどさ、陰鬱さは、わたしの想像以上だったのだ。そしてそんな彼女たちのしんどさとわたしのしんどさとが混ざりあって増幅されて、どんどんみわけがつかなくなっていった。 233-4


 
 妊娠を通じた身体変容をめぐる、過去作記述への自己ツッコミも都度都度あって面白い。下記引用部のほか、出産後の乳首をかつては「ブラックベリーのように黒ずむ」と形容したが、実体験を通した結果「墨汁の墨の黒、電源を消したあとの画面の黒」(うろ覚えby pherim)と訂正したり。たしかに小説的想像力の利きだけをとれば、ブラックベリーのほうが有効にも思え、後者の黒はぐっと闇深い。

って、わたしは拙著『乳と卵』で、授乳の終わったあとのおっぱいを、「ぶらさがった二枚の靴下」と形容しましたが、当時の想像力の脆弱さを詫びるほかありません。そうですね……みたままをそのまま形容すると、「打ちひしがれたナン」って感じでしょうか。そうです、カレーをつけて食べる、薄くてひらべったい、あのナンです……それにしても、このあいだまでみなぎっていたすべてはみごとに去り、あとに残されたのは、あとに残されたのはや、もちろんおっぱいなんですけれど、おっぱいとはどうしたっても呼びたくないような、呼べないような、呼んだら最後、これが自分のおっぱいであるってことを認めるようで切ないような、とにかくそんなおっぱいがふたつあって、それが鏡のなかからわたしを「てへっ、すみません! でもこれからも、ひとつよろしくぅ☆」みたいな感じで、みつめているのである。 274

 
 子を孕むこと、自らのからだにおいて命の分岐が起こることの凄味は殊に、出産直後の一夜を描く前半締めにおいて炸裂する。長くなるが、さいごに丸ごと引用して終わる。
 
 
痛みには、個人差があった。過去現在にかかわらず、わたしとおなじくらい苦しんでいる母がおり、そしてたいして痛くない、という母親もたくさんいた。傷の痛みというのは人によるんだ、ということもはじめて知った。そして、つぎの瞬間に、地震やなにか大変なことが起 きてもいまの自分は息子を助けに走ることもできない、なにかあっても守ることができないのだということを思うと、その恐怖で涙がでた。

 その夜は長かった。
 生まれたばかりの息子がただ存在しているだけで胸の底からいとしいというかかわいいというか、なんといってよいのか見当もつかない気持ちであふれているのに、それとおなじだけ、こわいのだ。息子の存在がこわいというのではなくて、その命というか存在が、あまりにもろく、あまりに頼りなくて、なにもかもが奇跡のようなあやうさで成り立っている、そしてこれまで成り立ってきた、ということへの感嘆というか、畏怖というか、それはそんな、こわさだった。母親というものは、これまで、言葉があるときもないときも、ただただひとりで孤独に、こういうことをくりかえしてきたのだ。誰にも伝えられない痛みに耐え、自分も赤ちゃんも死 んでしまうかもしれない状態のなかで赤ちゃんを生み、そしてすべての母親に、こんなような最初の夜があったのだ。
 そう思うと悲しいのか苦しいのかよくわからない涙があふれて止まらなくなった。戦時中に出産した母親はどうだったろう。爆弾が落ちてくる空のしたで、どんな気持ちで赤ちゃんに覆いかぶさっていただろう。赤ちゃんとひきかえに死んでいかなくてはならなかった母親もいたはずだ。その母親はどんな気持ちだったろう。どんな気持ちでいま自分が生んだばかりの赤ちゃんをみつめただろう。誰にもいえず、ひとりきりでひっそりと赤ちゃんを生んだ母親は。1年近くのあいだお腹で育てた赤ちゃんをついにみることも抱くこともできなかった母親は。すべての「お母さん」というものが、いまのわたしの体と意識にやってきては去り、やってきては去るのをくりかえして、その夜は朝まで泣きやむことができなかった。
 そして翌朝。看護師さんに抱かれてやってきた息子は、昨日よりも少しだけしっかりしたようにみえて、小さな声で泣き、からだをゆっくりゆっくり動かして、生きていた。しわしわの手足をやはりゆっくりと動かして、息をしていた。どれだけみつめていても、みつめたりなかった。ほっぺにうぶ毛をうずまかせた息子は、まだなにもみえていないはずの目でこちらをじいっとみつめ、小さな口をあけ、先生に教わったままにおそるおそる近づけた乳首に吸いつくと、上手に口を動かして乳を飲んだ。ありがたいことに最初からじゅうぶんな母乳がでて、息子はそれを、時間をかけて、たくさん飲んでいるようにみえた。
 わたしがいま胸に抱いているこの子は誰だろう。どこから来た、いったいこの子はなんなのだろう。わたしとあべちゃんが作ろうと決めた彼は赤ちゃんで、わたしのおなかのなかで育ち、そしてわたしのおなかからでてきた赤ちゃんなのだけど、でも、肝心なところ、彼がいったいなんなのか、どれだけみつめても、それはわからなかった。そして、やっぱり彼は、わたしとあべちゃんが作ったわけでは、もちろんなかった。かわいい。とてもかわいい。そしてとても小さくて、あまりにもろく、目を離したらすぐに消えてなくなってしまうんじゃないかと思ってしまう。これまで出会ってきたどんな人とも物ともちがう存在のしかたで、まだ言葉も記憶ももたない息子は、わたしに、ただじいっと抱かれているのだった。
 人は、すべての存在は、いったいどこからやってきて、いったいどこにいくんだろう。なんで、こんなわからないものやことを、わたしたち、やってのけることができているんだろう。そして、生まれてこなければ、悲しいもうれしいもないのだから、だったら生まれてこなければ、なにもかもが元からないのだから、そっちのほうがいいのじゃないかと、わたしは小さな子どものころから、ずうっとそんなふうに思ってきた。人生は悲しくてつらいことのほうが多いのだもの。だったら。 生まれてこなければいいのじゃないだろうか。生まれなければ、なにもかもが、そもそも生まれようもないのだもの。そんなふうに子どものころから思ってきた。だけど、わたしはいま自分の都合と自分の決心だけで生んだ息子を抱いてみつめながら、いろいろなことはまだわからないし、これからさきもわからないだろうし、もしかしたらわたしはものすごくまちがったこと、とりかえしのつかないことをしてしまったのかもしれないけれど、でもたったひとつ、本当だといえることがあって、本当の気持ちがひとつあって、それは、わたしはきみに会えて本当にうれしい、ということだった。きみに会うことができて、本当にうれしい。自分が生まれてきたことに意味なんてないし、いらないけれど、でもわたしはきみに会うために生まれてきたんじゃないかと思うくらいに、きみに会えて本当にうれしい。このさき、なにがどうなるかなんて誰にもなんにもわからないけれど、わからないことばっかりだけど、でもたったいま、このいま。わたしはそんなふうに思って、きみを胸に抱いて、そんなふうに思ってる。 152-5

 



4. 大田ステファニー歓人 『みどりいせき』 集英社
 https://twitter.com/pherim/status/1741608720013070693

「ヴードゥーか、ディアンジェロいいよね」
 自分も一度指パッチンして、まどかさんは黙って運転し続けた。僕もぐったりだったし、だから僕は安心した。
 高速へ入ると道路照明が増え、ようやく窓に自分の顔以外が映りはじめた。昼間のやつがまだ残ってんのか、光をふちどる輪っかのぼんやりが湿気に散らされ、とってもおっきく揺れている。ちっさい頃、みずぼうそーんなって、夜中に高熱を出し、車で緊急外来へ運ばれた時にながめた景色の記憶がよみがえった。あん時はタクシーだった。フロントに花火が弾けた、と思った時にはもううしろへ流れちゃってて、でもまた新しい花火。東京に着くまでにいくつの灯体とすれ違うんだろ、暗くならないようにって一本ずつ人間がここへぶっ刺したんだ、とか考えてたら脳がむずむずした。 110


 
 みずぼうそーんなって。
 
 独特の音便が、慣れてくると病みつきになる。シーンへの没入からふいに意識を引き剥がされたり、意味よりも音景と音圧で語りが進行するかのような。どんちゃんやってずんずん進んでそのぜんぶが作品なので、っていう。


「君のキイキイうるさいから。ちょ、よそ見危ない」
 春はそう言うと、ゆるいbpmの三点ビートを赤い球から流し始める。遅れてバッキングのピアノ、リードのサックスが鳴る。僕がペダルを踏んづけるテンポはスネアとハットの音に妙に噛み合った。その裏で聞こえる錆びたチェーンの金切り音がその間を縫って入ってくるからグルーヴが生まれ、ただチャリを漕いでいるだけなのにほとんど演奏してるみたいだし、進んでいくうち気分がよくなってって、みるみる景色が春のいる方へと流れてった。 39

 春がぼくの顔をのぞき込んだ。とっても近い距離で目と目が合う。春の黒目にはぼくの顔が映ってて、我ながらマヌケな顔してる。ほんとにアナフィラキシーを疑うくらいまぶたが重く膨らんでる。ぼくのシルエットの奥にいくつもの渓谷が環状に連なっている。瞳って不思議だ。ちっさくなったらあの中で暮らせそう。
「君、目ぇ真っ赤じゃんか。あぁ、もう、まじかよ」 春のため息からほんのり口の匂いがする。「ラメちのクッキー食べたんでしょ」
 こくん、って頷いたら、慣性で頭がつんのめって首の関節が鳴った。 43-4



 春とぼくは小学生時代に野球チームでバッテリーを組んでいて、回想モードの甘酸っぱい空気と今日パートにおける薬物摂取&売買の生々しさとの往還が、文体に引っ張られ流されつづける主観を適時縦方向にシャッフルさせる感覚の心地よさ、それはなにか中毒的なヤバさにも通じていて、初めウッときた読み味が終わる頃には惜しくなり、つまりは次作がたいへん待たれる。


今ぼくの前髪を揺らした風が、この並木道の銀杏の枝も揺らしてて、春のつむじを照らす光線はひび割れたアスファルトの谷間にも降り注いでる。ぼくの顔で暮らしているダニも含めてぼく。みたいな感じでぼくも地球の肌に寄生してる。団地に干された洗濯物も、横切ってったのら猫も、そこで暮らすネコノミも、春も、雲とか風も、そのぜんぶが星のいちぶ。春はさっきうしろでぼくにひっぱられながらどんな景色を見てたんだろ。太陽が目に染みちゃって身体のバランスが崩れ、荷台からなのか、地球からなのか振り落とされそうんなる。思わず春のお腹をつかんじゃって、怒られないかひやひやしながら手を離した。春は黙って漕ぎ続けた。

 人が増えてきて、「避けんのダルい」って春に降ろされる。自転車を押していく春を追いながら、ふとセブンの店内時計を見て、思わず目がかっ開いた。 46



 時間感覚の、この操作ね。ダンスみたいだ、ってすこしおもう。 




5. 佐藤多佳子 『聖夜』 文藝春秋

 オルガンを“弾けてしまう”高校生男子の日々。離婚した両親に対する屈託や、天真爛漫に才能を発揮する同級生女子への淡い感情が物語をドライヴして読ませる。
 パイプオルガンの響きと出逢い、同級生女子と手を携える中で難解曲を手なづけていく過程が核となるのだけど、一方で軸となる牧師の父との葛藤描写がそこそこヤバい。

  
 父は少し顔を歪めるようにして話した。
「言葉を取り繕っているつもりはないんだ。君がもっと小さい時から、子供扱いして適当なことを話してきたつもりはない」
 俺はうなずいた。それはそうだと思う。
「ただ、心の底から真実を話しているつもりでも、そう思ってもらえないことがある。お母さんに、君のお母さんに、よく言われた。彼女はいつも不満だったようだ」
 父は眉をひそめた。
「なぜ怒らないのかとよく言われた。あなたは怒っているはずなのに、私を怒らない。神様が私を許すはずだから、自分も許さなければいけないと思っている。人間のくせに、神様を気取っている」
 父の声に母の声がかぶって聞こえてきた。鳥膚がたつように皮膚がぴりぴりした。
「おそらく百まで生きたとしても、こんなに厳しい言葉を投げつけられることはないと思う。神に仕えるものが神を気取るなど、これ以上はない冒瀆だ」
 母の言いたいことはよくわかる。さっき、祖母も言っていた。父は正しい―――その正しさが、欠点だらけの人間には、まがいものの神のように思えることがあるんだ。
 そう思わないと、やりきれないのかもしれない。
 父の顔には、正視できないような苦さがにじんでいた。俺は思わす、視線をそらした。
「いつも、彼女のためにと考えてきたつもりだ。それすら、重荷でしかなかったようだ」
「お父さんから、神様を引き算してみたかったんじゃないのかな、お母さんは」
 俺は言った。
 父はまじまじと俺を見つめた。
「どうして、そんなことができる? 神はいつもわれわれと共におられるのに」
 俺の身体に鋭く震えが走った。メシアンの曲じゃないか。いまいましい例の曲だ。
『神はわれらのうちに』。
「すべての人が、お父さんみたいに信仰を持っているわけじゃないよ」
 俺は突き放すように言った。
 母は、父の中の最上位のポジションを懸けて、神様と争っていたのだろうか。なんと無駄な。なんと不毛な。母は父を堕落させたかったのだろうか。母のリンゴを父は食べなかった。そして、母だけがエデンの園を追放された。誘惑されなかったアダムは、老いて孤独でひどく虚ろに見えた。
「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」
 俺は聖句を暗唱した。
「だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」
 父は何かを否定するように、ゆっくりと首を横に振った。
「アブラハムは、神に命じられて、老いて授かった我が子のイサクをいけにえとして殺そうとした」
 俺は今度は、旧約聖書のエピソードを持ち出した。
「神は、人が人を神以上に愛することを許さないじゃないか」
「神はイサクを殺させはしなかった」
 父は疲れたように言った。
「でも、そんなふうに試すなんて」 165-7



 唐突に始まるカラマーゾフ大審問官篇クラスの対決、みたいな衝撃。でもこれってきっと、日本の牧師や神父の過程ではあまりにもありふれた対立軸なんだろうなという気がしないでもない。いっぽう寺嫁の苦悩には、あまりこういう哲学原理的なのは含まれてなさそうにも思える。


 カーテンの隙間から白い光が漏れてくると、俺は起き出して、自分の制服に着替えた。ガサゴソやっていると深井が目を覚ましたので、帰ると言い、半分眠っているような彼は下までついてきて送り出してくれた。お兄さんとご両親にくれぐれもよろしくと俺が挨拶すると、奴は大きなあくびをして、ただ手を振った。
 雨はやんでいた。早朝の空気は冷たくすがすがしく、やたらとカラスが鳴いていた。白い空を黒く点々と飛んでいくカラスと、しんと静まったまったく人気のない住宅街 は、俺の知らない空っぽの世界のような気がした。違う宇宙のような。違う人生のよ うな。こんなことを俺は望んでいた気がする。いつのまにか、違う宇宙で違う人生を生きていること。次元と次元の隙間に転げ落ちてしまうこと。ファンタジーかSFのような、そんな適当な設定に、適当な気分に、妙な満足を覚える。
 しかし、寒かった。身体が細かく震えだして止まらない。風邪ひいたかな。肉体の感覚はやけに現実的で、電車を乗り継いで大井町線の駅で降りて、見慣れた教会の屋根が見えるところまでくると、力が抜けてその場に座り込みそうになってしまった。家だ。結局、家に帰っていく。他の場所じゃない。あれは、どうしようもなく、現実的に、間違いなく、俺の家だ。ありがたいのか、がっかりなのか……。
 玄関の鍵を開けると、居間から、父が、そして祖母が飛び出してきた。息子が二人帰らなくても平然と眠っている深井の両親と、こんなふうに服も着替えずに徹夜している俺の家族。なんて言おう。謝るべきだが、言葉が出てこない。
「どこに行ってたんだ?」
父の声は聞いたことがないものだった。 150-1





6. 町田康訳 『口約 古事記』 講談社

「あなたの身体はどんな感じになってますか」
「こんな感じです」
「いいね。吾はこんな感じです。この二箇所は恰度はまる感じです。これをはめて二柱が一体化して、そのパワーで国土を生みません?」
「いいね」
ということで二柱は一体化、まあ簡単に言えば交合をすることにしたが、その前になにか儀式があったほうがよいだろう、ということになり、
「じゃ、じゃあ、この天の御柱のぐるり、ぐるっと回って、それでめぐり逢ったという体にしましょう。あなたは右に回ってください。吾は左に回りますから」
と伊耶那岐命が言い、そのようにした。
そうすっとなんといっても極度に太い柱だから、互いの姿がいったん見えなくなる。それで再び、出会って、まず伊耶那美命が、
「ええ男やわ」
と伊耶那岐命を賛美し、次に伊耶那岐命が、
「ええ女やわ」
と伊耶那美命を賛美して交合した。 11-2



 池澤夏樹編の河出・日本文学全集で宇治拾遺物語を訳した町田康がその流れで、同全集で池澤夏樹当人が訳した古事記に対抗するかのように講談社から出す身振りがもう面白い。そして本書の参考文献には他訳は載っていても池澤訳は省かれてるし、なんなら長目の著者履歴からも宇治拾遺物語訳は省かれている。徹底している。
 

 さてそんなことで、八岐大蛇も滅ぼしたので、須佐之男命は此処、出雲国に自分の宮殿を建てることにして、それにふさわしいところを探して歩き、あるところにやってきたら、どういう訳か、非常にこの、なんというか、気持ちが爽やかになり、思わず、
「あー、なんか。なんか、すがすがしい……」
 と言い、そこに立派な宮殿を打ち立てた。という訳で、この土地は後に、須賀、と呼ばれるようになった。凄いことである。 80


 凄いことである。すご。町田康御大がそう言うと、それはもうほんとうに、文豪が凡庸な表現にせざるを得ないほどに凄い、という風に見せかけおどけることの可笑しさ込みで面白いでしょ、というポーカーフェイス・ギャグに耐えながら読み進んでくださいね、という設えを感じてそういう意味で、凄い。




7. レミ・エス 『タンゴへの招待』 尾河直哉訳 白水社

 タンゴに紐づく著名人といえば、日本語圏ではまずもってピアソラの名が第一人者として言及される空気が醸成済みだけれども、アルゼンチン本国では全然ちがう。ピアソラはたしかに唯一無二の革新者だけれども、第一人者へ位置づけるには新しすぎて、そこからタンゴの歴史が短い日本との差異が生じる。

 で、ならばカルロス・ガルデルの全体における位置づけが知りたくて本書にあたったのだけど、文句なしに疑問へ答えてくれる好著であった。ピアソラもきちんと後半でそれなりに語られている。二人以外の名が現状はなかなか入ってこないのだけど、関心の深まりと覚える曲数の増進によって、本書に記された他の名も次第に刷り込まれていくのだろう。楽しみだ。
 
 にしても中南米において音楽やダンスが抵抗のスタイルとして広まることはタンゴも例に洩れずなのだけど、アルゼンチン固有の文脈としてある時期に限り軍事独裁政権がタンゴの擁護者になっていたというのは面白い。大統領夫人エビータ擁するペロンがそのひとだけれども、それでこそ突き抜けた倒錯世界の王という本物感さえあって良い。とはいえそんな茶々を言っていられるのもまぁ、地球の反対側の住民だからかもしれない。




8. 又吉栄喜 『豚の報い』 文春文庫
 
 場末のスナック、豚の闖入による魂(まぶい)落とし、南洋の光、御嶽参り。会ったこともないのに懐かしい熱気と人間臭さ湧きたつ女たち。立ち会ったこともないのに心が粛然と鎮まる儀礼描写。
 沖縄そのものを読む心地。



 
9. 大野明子 『「出生前診断」を迷うあなたへ 子どもを選ばないことを選ぶ』 講談社+α文庫

 ダウン症児を生むリスクを回避する。「リスク」と発話する時点ですでに紛れ込んでいる偏見、差別意識、優生思想。
  
 とはいえこの、生殖行為が極度に個人化された現代日本社会では、「ダウン症児は天使だ」みたいな全面肯定論に現実的な居場所はたぶんない。インフォームド・コンセントの定着により、医師による出生前診断の選択提示が不安に満ちた妊婦に対しては「圧力」として働いてしまうくだりなど、なるほどそういうことが起こるのだなと驚いたし、本書を奨めてくれた2児の母たる友人からの「1人目と2人目で出産リスクに対する態度が変わった」というコメントなど本書と併せ考えるに、そういう状況への想像力欠如というのは我ながら、なんだかとんでもないなという気がとてもする。

 あとダウン症は染色体異常によるから、すべてがグラデーションな精神疾患の類とは異なる社会対応が可能なはずで、ダウン症のディスアドバンテージが不利に働かず、創造性とか集中力とかアドバンテージを活かす枠組みは相対的に“は”容易なのではとも思ったり。『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』のバディ役の彼とか、めっちゃかっこいいダウン症男だったよなぁ。「弱者への配慮」とか吹っ飛ばすやつ。
 
  『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』https://twitter.com/pherim/status/1224529111910998017

 2003年刊『子どもを選ばないことを選ぶ』は界隈で言わずと知れた名著とされているらしく、十年後の文庫化では序章に加え、より進展しゆく晩婚化に適応した補遺が付されている。

 偏見は誰にでもあり、こころの底に根深くしみつき、消しがたいものでしょう。障害のある子を育てていく過程は、親にとっても専門家にとっても、障害とはなにか、遺伝とはなにか、受容とはなにかなどを自らに問いつつ、自らの偏見と闘いながら歩く道であろうと思います。それは障害のある人たちだけでなく、健常者をも、おとなに成長させる道であると思います。 130

 偏見は誰にでもある、というより、偏見しかない。というのが精確だよなという落とし所が、2020年代に入ってようやく市民権を得つつもありますね。
  
  Tiktokker多指症姐御の進化形
  https://twitter.com/pherim/status/1765351942560383374


 小泉義之『生殖の哲学』(よみめも前回)にもあったけど、どう考えても今後の日本なんて、「異常」をあらかじめ排除しない社会を目指すほうが得策なんだよね。なかなかそうはならないだろうけど。(むしろ逆行しそうですけど)
 そもそも平均値的な知性をもつ日本人中年とかだと、自閉症との区別もつかずに「差別でなく区別」とか言いだしそうなのが現状ですしね先は長う。




10. 村上春樹 『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』 新潮社  [再読]

 長くなったので、第1部と併せたうえ若干のカテゴリー分けを施し別立てにしました。↓

 「よみめも番外編 村上春樹 『騎士団長殺し』 第1部+第2部」
  https://tokinoma.pne.jp/diary/5294





▽非通読本

0. 土肥伊都子 「男女両性具有に関する研究 : アンドロジニー・スケールと性別化得点」 関西学院大学社会学部紀要57号

  https://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/kiyou/57/57-ch08.pd...

  ※「妊身」参考文献として使用。
   
   「妊身」 https://tokinoma.pne.jp/diary/5283




▽コミック・絵本

α. 萩尾望都 『半神』 小学館文庫 〔『プチフラワー』誌初出1984年〕

 結合双生児の姉妹を描くわずか16頁の超絶名短篇。天使のように可愛い妹ユーシーは姉ユージーの生命機能に依存しており、栄養を吸われ醜く痩せたユージーはユーシーを烈しく憎む。聡明な姉が幼くして遺伝学に興味をもち、受胎以前の卵胞期へ遡って自己言及するくだりは興味深い。やがて分離手術を経て妹は没し、生き残った姉は健康と美を手に入れるが、鏡に映った妹と瓜二つの己を見て慟哭する。
 
  拙短篇「妊身」: https://tokinoma.pne.jp/diary/5283
  ※5/19発刊『群島語1号』所収(文学フリマ東京出品)


 本作を基とする野田秀樹脚本『半神』に十代半ばの担当・小映は全暗記するほどのめり込み、拙短篇「妊身」もその影響下にあると執筆後に指摘を受け気がついた。なお小学館文庫版には、女が妊娠期に大地へ根を張る「ハーバル・ビューティ」、結婚を控えた男女とその姉弟が受粉時の巨大植物に幽閉され覚醒する「真夏の夜の惑星」等も収録されている。

 


β. 大島弓子 『雑草物語』 角川書店

 なんとなんと。始めて十年を超えている当よみめもで、大島弓子を扱ったことがまだなかった。つまりワンディケイド読んでないことに気づいてなかった。まぁそれを言ったら直上の萩尾望都だってそうだったといま知ったのだけど、それくらい大家の表現世界は血肉化され身に纏ってるのか無意識化されてるのか、というほどにはそれ以前だって読んでなかった気もするけれど。
 
 存在も知らなかった遠縁すぎる親戚から2500億の資産を継いだ清貧娘と、自活ボーイフレンドの、贅沢生活に染まりきれない屈託話が本編なんだけど、大島弓子の「初めたばかりのカメラ」による花の写真が異様に小さくレイアウトされていたり、冒頭にはなぜか大島弓子の短編小説が掲載されてたり、しかも花写真はカラーだったりというこのマッタリ適当感って、いかにも昭和末期のバブリーよなって巻末みたら意外にも1999年刊。こういう記憶内時代感って妙に古びがちですよね。
 
 なんせ大島弓子ですからね、ふたりの心の距離や、各々の内面描写がうまいうまい。そこはもうなんていうか、十年に一度も読んでないとかダメでしょうと反省する次第。この稀なる機会をご恵投いただき感謝の次第。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]




γ. むんこ 『なごむさんとひろみちゃん』 竹書房

 安アパートの隣人同士な十代女子とアラサー男(たぶん)の淡い恋物語なんだけど、まぁくっつかなくて心くすぐる。しかも山谷を抑えた話の運びがそれなのに瑞々しくて、これは狙って出せる巧さじゃない気がするし、あるようでないものを読ませてもらえた感。
 あえていうなら、『よつばと!』の控えめ十代女子版ラブコメな趣きちょっとある。薄い一冊で主人公は中2から高校生になっちゃって、つづきが読みたい気もするけど、もっとゆっくり進むやつを読みたい気もする。そんなとこでこっちが悶々としてどうするって話ですけど。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]



 
(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)

δ. 藤本タツキ 『さよなら絵梨』 集英社 [再読]
 https://twitter.com/pherim/status/1513443819655598084
 
 作り手も傷つかないとフェアじゃない、ってキメてくる。
 さよなら絵梨、コマ送り調の醸す時間性。淡々と超えゆく凄味。最高では。

 紙版で読むのは初めて。やっぱ紙のほうが、読後感に圧を感じてまうの。

 


ε. 板垣巴留 『BEASTARS』 1 秋田書店

 アニメ版を1期2期わりと一気見的に観通してしまった勢いで読む。なるほど絵柄も含め、バキ感にも通じる格闘漫画要素がより強い印象あるね。順番が逆だとアニメ版を観通す感じにはならなかったかもしれない。とはいえマンガ版をこれから読みつなぐかは未知数。

  アニメ版ツイ:https://twitter.com/pherim/status/1746860980909568204





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
Amazon ウィッシュリスト: https://www.amazon.co.jp/gp/registry/wishlist/3J30O9O6RNE...
#よみめも一覧: https://goo.gl/VTXr8T

コメント

2024年
05月01日
17:38

妊娠中は共感できる本を探そうとして見つかる前にやめてしまったのですが、『きみは赤ちゃん』は出産まで経験した今読んでみたいと思いました。
そういえば私も無痛で出産した友人が何人かいて、産院の選択肢にしてたのだったり。旦那のご親戚に産科の医療関係の方がいて無痛推さない派だったこと、計画どおり無痛で産んだケースも変更になったケースも聞いたこと等でけっきょく総合病院にしました。そこで同室になった帝王切開の妊婦さんは麻酔切れたあとむちゃくちゃやばそうだった。。。

個人的に当時いちばん共感する内容が多かったのは、
はるな檸檬「れもん、うむもん!」

知識として面白かったのが
最相葉月「胎児のはなし」

でした。自分でもまた読み返そうと思います。

2024年
05月01日
18:05

2: pherim

まじかー。どっちも索敵圏外でした、はじめに相談しておけばよかったです。まぁ当分妊娠はいいや(って四十独身男のことばじゃないけど)って感じですけど、その二冊は読んでおこうかなぁ。積読リスト入れても一生読まねえだろってくらい伸び続けちゃうんですけどね。

2024年
05月01日
21:44

>積読
「れもん〜」は筆致のライトな漫画ですし、「胎児の〜」は何となくpherimさんのラインナップからするとコレジャナイ感な気がするので、またいつか妊娠気分になったらで遅くないと思います(´∀`*)
こちらこそ面白そうな本を紹介くださりありがとうございました。

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