pherim㌠

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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2024年
12月05日
18:28

よみめも96 第三時間の孤独事典

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
  Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV




1. ヘンリー・D・ソロー 『孤独は贅沢』 増田沙奈訳 星野響構成 興陽館
  Henry David Thoreau “Lonliness is a luxury”


 キリンを追いまわしに、いそいそと南アフリカへ出かける人がいる。でも彼らが本当に追い求めているのは、そんなものではないはずだ。いったいいつまでそんなことを続ければ気がすむのだろう? シギを撃っていればじゅうぶん気晴らしになるのに。でもぼくが思うに、なにより高尚なゲームとは、自分自身を撃つことなのだ。その目を内に向けよ。そうすれば、これまで気づかなかった千もの世界が見えてくる。それをひとつずつ渡り歩けば、やがては内なる宇宙を統治できる。 49

 時間を味方につけたら自由になれる。
 自分の好きなことに没頭すればいい。 62

 ぼくは自分の作っている暖炉が、少しずつ、きっちり四角形に積みあがっていくのを見てうれしくなった。時間をかければかけるほど、長持ちするように思えた。煙突は、ある意味家から独立し、地面から屋根を突き抜け天へと伸びている。家が焼け落ちたあとも、煙突だけはちゃんと残っていることもたまにある。それだけ重要で、独立性の高いものなのだ。 89

 火にも顔がある。
 その顔と向き合えば、
 こびりついた心の汚れが、
 取り払われていく。 90

自分も森を散歩するのが好きだ、なんて言っていたけれど、ウソなのはまるわかりだった。彼らは落ちつきがなく、生活費を稼ぐことしか頭にないようだった。牧師は牧師で、まるで神は自分のものだと言わんばかりにしゃべりまくり、ほかの人の意見にはひとつも耳を貸さなかった。医者も然り、弁護士も然り、お節介なおかみさんたちも然り。なんと彼女たちは、ぼくが留守の間に戸棚やベッドをこっそりのぞいていたのだ!(そうでなければ、ぼくがどんなシーツを使っているかわかるはずがない)そして若者たちはすっかり老い、だれかが歩いた道をたどるのがなにより安全だと思いこんでいた。 101

 ぼくたちは、自分の仕事の価値を誇張して考えがちだ。ぼくたちは一日じゅうまわりに気を遣い、夜になればよくわからないまま祈りを捧げ、よくわからないものに誓いを立てる。そんなふうにして、望まない生活が価値あるものだと思いこみ、それを変えようとは思いもしない。こんなふうにしか生きられない、とぼくたちは思いこんでいる。でも、本当にそうだろうか?見渡してみれば、いま自分のいる場所からはいくらでも、コンパスのように自由に線が引けるはずだ。 155

 もしぼくたちが、枕木を切り倒すのも、レールを敷くのも、昼夜を問わず工事をするのもやめれば、だれが鉄道を作ってくれるだろう? 鉄道がなければ、頃あいよく天国にたどりつくこともできない。でも、みんなが家で自分の仕事に打ち込めば、そもそも鉄道など必要だろうか? ぼくたちが鉄道に乗っているのではない。鉄道が、ぼくたちに乗っかっているのだ。列車の走る枕木が、 どんなものか見てみたことはあるだろうか? 実はその一つひとつは人間で、アイルランド人だったりアメリカ人だったりするのだ。 157

 なにもいらない。
 太陽や風はぼくたちであり、
 ぼくたちもまた自然なのだから。 188

 本物の豊かさや美しさはいつも手つかずのままだ。
 孤独な時間の中で、
 はじめてぼくたちはそれに気づく。 194

 ついに道を踏みはずすまで、自分の内なる声に従ってみた人はだれもいない。そんなことをすれば、たぶん体はボロボロになる。でもたとえそうでも、決して無意味とは言えないはずだ。なぜなら、それはより高みを目指して生きた結果だからだ。もし、朝と夜がくるたびに喜びに包まれ、毎日が草花のように香りたち、星のように輝き、もっとしなやかになって宇宙の心理に近づけたと感じられれば、それは成功と言えるだろう。そのとき、自然はぼくたちを祝福し、ぼくたちも自分自身を祝福できる。この世でいちばん大切で価値があるものは、ぼくたちにはいちばん理解が難しい。だから、その存在さえすぐ疑ってしまう。そして理解してもすぐ忘れてしまう。でも、その高みこそが真実なのだ。おそらく、魂を揺さぶられるような真実は、人から人へ伝えられるものではない。ぼくの毎日の真の実りは、朝焼けや夕焼けの色あいのように、触れることも言葉にもできない。それはいわば、つかみ取った星くずや、虹のかけらなのだ。 201

 ぼくがウォールデン湖を観察して導き出した法則は、人にもあてはまる。それは平均の法則だ。湖の深さをはかっていて気づいたこの法則は、太陽までの距離やぼくたちの心臓の位置を探りあてられるだけでなく、その人が毎日どんなふうに行動し、どんなことに心を動かされているかがわかれば、人としての深みや大きさをはじき出せてしまう。計算に必要なのは、心の岸辺の様子だけだ。それさえわかれば、ぼくたちの人としての深さは、その限界点さえも包み隠さず、すべて明るみに出る。 217


 
 湖の底の人。




2. エドワード・W・サイード 『オリエンタリズム 上』 今沢紀子訳 平凡社
 Edward Wadie Said, إدوارد سعيد “Orientalism” Vintage Books, US 1978


実は私が本当に言いたいことは、オリエンタリズムが、政治的であることによって知的な、知的であることによって政治的な現代の文化の重要な次元のひとつを表現するばかりか、実はその次元そのものであって、オリエントによりはむしろ「我々の」世界のほうにより深い関係を有するものだということなのである。
 オリエンタリズムは、文化的・政治的事実である以上、古文書館の虚ろな空間のなかに閉じ込められているわけではない。それどころか、オリエントをめぐる思考や発言、いや行動さえもが、明晰で知的理解が可能な一定の軌道を(おそらくは軌道の内側をたどっていると考えられるのである。ここでもまたテクスチュアリティー〔テクスト性〕の諸事実として、ニュアンスと精緻さとを与える作用が、あからさまな上部構造の圧迫と細密なテクスト構築の狭間でかなりの程度まで行われている。思うに、テクストがコンテクストのうちに在るということ、インターテクスチュアリティー〔テクスト連関〕とでも呼ぶべきものが存在するということ、かつてヴァルター・ベンヤミンが「「創造」の原理……の名における生産的人格の酷史」と名付けたものその働きにより、詩人が自分自身の精神にもとづいて、自分自身の純粋な精神から作品を生み出すと信じられているもの――は、習慣と先例と修辞様式との圧迫によって制限されるということ、これらの考え方は、大多数の人文科学者によって完全に認められている。それにもかかわらず人文科学者たちは、政治的・制度的・イデオロギー的な強制が同じように個々の著作家のうえに作用していることを認めたがらない。()人文科学者は、きわめて反動的な君主制がバルザックに与えていた同様の圧迫については、バルザックの文学的「天才」の品位を落とすものであり、したがって研究対象としてまともに取りあげるほどのことはないと、なんとはなしに感じるものなのである。 41-2

 キッシンジャーがこの論文のなかで用いた方法は、言語学者が二項対立と呼ぶものにもとづいている。すなわち、彼は、外交政策に二つの様式(預言者的ならびに政治的)、二つの技の型、二つの時代等々があるのだということを示す。そして、議論の運びが歴史的説明の末尾にさしかかって、いよいよ現代世界を扱う段になると、彼は例の二項対立に従って、世界を先進国と開発途上国とに二分するのである。先進国すなわち西洋は、「現実世界が観察者にとってあくまでも外在的なものであり、知識とはデータの記録および分類それらは正確であればあるほどよいから成り立っているという考え方にしっかりと依拠している」。この点についてキッシンジャーが提示する証拠は、ニュートン学説による思想革命であって、途上国世界ではそのようなものは現在に至るまでついに起こらなかったとするのである。 113

 キッシンジャーは、ニュートン学説前的現実認識とニュートン学説後的現実認識とに世界を分断した際に、自分が引き出してきた知識の素姓・血統あるいは知らなかったのかもしれない。しかし、キッシンジャーが行う区別は、東洋人と西洋人とを分離するオリエンタリストの正統的な区別と同一のものである。また、キッシンジャーの区別は、オリエンタリズムの場合と同様に、一見中立性を装った語り口にもかかわらず没価値的価値判断排除的なものではないのである。彼の記述には、至るところに「預言者的」、「正確」、「内的」、「経験的現実」、「秩序」といった語がちりばめられているが、それらは、魅力的で、親しみやすく、望ましい価値か、あるいは、脅迫的で、奇妙で、秩序紊乱的な欠点か、そのいずれかの特性を表わしている。のちに見ていく伝統的オリエンタリストとこのキッシンジャーとを比較してみると、両者ともに、文化相互間の相違というものを、まず第一に文化と文化とを引き離す戦線を創出するものとして、第二に(優越した知識と融通無碍の力とによる) 「他者」の統御、封じ込め、さもなければ統治へと西洋をいざなうものとして、抱えている。どれほどの効力をあげつつ、またどれほどの犠牲を払って、このように闘争的な区分が維持されてきたのかについては、我々がここで改めて思いおこすまでもないであろう。 115-6

レヴィ=ストロースが言わんとしているのは、人間の精神が秩序を必要とするものだということであり、秩序とは、あらゆるものを弁別・観察し、意識にのぼるすべての物体を安全で再発見可能な場所に据えつけることによって、つまり、環境を形成する対象と主体とが織りなす機構のなかで事物のおのおのにその果たすべき役割を与えることによって、はじめて打ち立てられるものなのだということである。この種の初歩的分類にもそれなりの論理はある。しかし、緑色のシダがある社会では恩恵のシンボルとなり、ある社会では災いをもたらすものと考えられることからもわかるように、この論理を支配する法則は予測可能な合理性を備えてもいなければ、普遍的なものというわけでもない。事物が区別されるやり方には、つねにある程度の純粋な恣意性が働いているのである。 128-9


例えば前五世紀のアテナイ人なら、自分を積極的にアテナイ人と感じるのと同じ程度に、自分が非野蛮人であるという感じ方をしたことだろう。地理的境界線が社会的・民族的・文化的境界線にともなって引かれるものであることは予想されるとおりである。けれども、自分がよそ者ではないとする感じ方は、往々にして、自分の領域を超えた「向こう側」の土地に関するはなはだ厳格ならざる観念にもとづいたものなのである。人は、自分の属する空間の外側にあるよそよそしい空間を、ありとあらゆる種類の空想や連想やつくり話で充満させるもののようである。
 フランスの哲学者ガストン・バシュラールはかつて、彼が空間の詩学と呼ぶものについて分析を行ってみせたことがある。彼によれば、家の内部というものは、現実ないし想像力の領域における親密さや秘密性や安全性の感覚を獲得するものであり、それはそうした感覚がぴったりだと思わせるに至ったさまざまの経験のおかげなのだという。家――隅っことか廊下、地下室、部屋など――の客観的空間は、そこに詩的に賦与される性質に比べれば、さして重要なものではない。そして、そこで詩的に賦与される性質とは、通常我々が名付けたり感じたりできる想像上の価値、あるいは比喩的な価値を帯びた性質のことであり、それゆえに家がお化け屋敷になったり、家庭的であったり、監獄のようだったり、魔法にかかったように見えたりするのである。つまり、空間は一種の詩的プロセスによって感情的な意味あい、あるいは合理的な意味あいをすらもつようになり、その結果として、空っぽで名付けようもないひろがりが我々にとって意味あるものに変ずるのである。 130-1



 “住めば都”という感覚の根に詩性を聴きとる『オリエンタリズム』の知性に惚れる。この家すなわち郷里の空間的最小単位へ見いだす愛着の由来をめぐる洞察は、直後に時間的洞察(↓)へと連なり、また数ページ後の「オリエントはヨーロッパにおいて、ほとんどその最初期から、経験的に知られる以上の何ものかであった」(133)にも直に連なる。これは岡倉天心『東洋の理想』の序文を記すなかで、古代ギリシアをアジアの一地方とみなしたヒンドゥー教徒のアイルランド人著述家 Margaret E. Noble とも通底する。この雄大さ。


同様のプロセスは、我々が時間を問題にするさいにも生ずる。「大昔」とか「そもそもの始まり」あるいは「終末」といった時期から我々が連想すること、いやそれらについてもっている知識でさえ、その大部分は 詩的なもの、つくりあげられたものである。エジプト中王国を研究する歴史家にとってなら、「大昔」は非常に明確な意味あいをもつものであろう。だが、そうした意味あいですら、自分の属する時間とは非常に異なるかけ離れた時間のなかに潜んでいると感じられる、あの想像力によって生みだされた半虚構的な特質を完全に消し去ってしまうことはできない。 131


アンクティルが訳したアヴェスターはヴォルテールの目的にもかなっていたのだ。というのは、アンクティルの数々の発見の結果、「これまで神の啓示による聖典とみなされていた [聖書の] テクストそのものが批判にさらされるようになった」からである。アンクティルの遠征の最終的な成果を、シュワブは次のように的確に描写している。

 一七五九年、アンクティルはスーラトでアヴェスターの翻訳を完了し、一七八六年にはパリでウパニシャッドの翻訳を完成させた。彼は偉大なる人間精神を生んだ〔地球の東西〕 両半球をつなぐ通路を切り拓き、地中海のほとりの旧来の人文主義を修正し拡張したのだった。彼の同胞が「人はいかにしてペルシア人たりうるか」という問いを投げかけてから五十年たたぬうちに、彼はペルシア人の遺跡をギリシア人の遺跡に対比させる術を教えてやった。アンクティル以前には、この地球という天体の遠い過去について知りたければ、もっぱらラテン語の、ギリシア語の、ユダヤ人の、そしてアラブの偉大な作家たちの著作を縫いてみるしかなかった。聖書は天から降ってきた隕石のように、ぽつんと孤立して置かれた岩塊だと考えられていた。書物の世界は掌に収まるほど小さいが、いまだ知られざる土地がいかに広大無辺であるか、つゆほどでも考えたことのある者はほとんどいなかった。バベルの塔以後増殖した数々の言語に対する認識は、彼のアヴェスターの翻訳とともにはじまり、中央アジア探検によって目の眩むような高みにまで到達した。この時まで、我々の学問諸派は、ルネッサンスのもたらしたギリシア=ラテンのちっぽけな遺産 [その多くはイスラムを介してヨーロッパに伝えられた]に固執していた。だがアンクティルは、遠い昔から無数の文明が興亡し、文学は無限に存在してきたのだというヴィジョンをそこに導入した。 182-3

ルイ・マシニョン〔フランスのイスラム学者 1883-1963〕は現代フランスのオリエンタリストのうちでも、おそらくもっとも高名でもっとも大きな影響力をもつ存在であるが、彼にとってイスラムとは、キリストにおける神の托身=受肉(インカーネイション)に対する否認の体系にほかならず、イスラムの最大の英雄はムハンマドでもアヴェロエスでもなく、あえてイスラムを体現しようと試みたために正統派のイスラム教徒たちによって礫刑に処された、イスラムの聖者アル=ハッラージュ〔858-922〕なのであった。ベッカーとマシニョンが彼らの研究から明示的に排除したものはオリエントの奇嬌性であり、彼らはそれを西洋的表現を用いて懸命に矯正しようとしたために、かえってそれを承認するという思いがけない結果を招いてしまった。ムハンマドは投げ棄てられたが、アル=ハッラージュのほうは、自分をキリスト的な神の化身だと考えたために高い地位に祭り上げられたのである。 245-6


同時にそのテクストのなかで、シャトーブリアンの自我は、この任務の遂行に足るだけ十分根本的に再構成されなければならない。レインと違って、シャトーブリアンはオリエントを消費しようとする。彼は単にオリエントをわがものとするだけではなく、オリエントを表象し、オリエントになり代わって語る。それも歴史的にではなく超歴史的に、人間と土地、神と人間が一体化しているかのような完全に癒された世界の超時的次元において、それを表象し、それを物語るのである。したがって、彼のヴィジョンの中心であり、彼の巡礼の究極の目的地であるイェルサレムにおいて、彼は、オリエント、すなわち、ユダヤ人の、キリスト教徒の、イスラム教徒の、ギリシア人の、ペルシア人の、ローマ人の、そして最後にフランス人のオリエントとの一種の総体的調和についに到達することを許されるのである。彼はユダヤ人の窮状に心を動かされはする。しかし、彼の考えでは、ユダヤ人もまた彼の一般的ヴィジョンを説明するうえで役立つものであり、さらに都合の良いことに、ユダヤ人は、彼のキリスト教徒としての復讐心に無くてはならぬ激しさを与えてくれるものなのである。神は新しい民を選び給うた。だがそれは、ユダヤ人ではないのだ、と彼は述べている。 398



 シャトーブリアンをめぐる記述は、本書全体を通しても最もグロテスクに感じられた箇所かもしれない。その逐一をここに引用はしないけれど、その称揚が無自覚の蔑視を伴う「賢げ」な人間はそこらじゅうにおり、サイードの身近にもいてまぁ日々虫唾が走っていたんだろう。というのがなんだか籠もって感じられる熱の入りよう。
 下巻へつづく。




3. pherim=土岐小映ほか 『第三批評 創刊号 《アジアのまなざし》』 Third Critique, inc.
 [内容紹介] https://note.com/critic3rd/n/ned7f146bea17

 『第三批評 創刊号』Booth販売始めました。→ https://booth.pm/ja/items/6349906

 自身の携わる冊子をどう書くかをめぐっては、毎度迷う。そも自ら編集を手がけ、掲載稿の多くは校正まで施しているためメモる必要など今更ないし、といって通読した本は基本メモをネット公開するルーティンからこれだけ外すよりは、紹介の意味でも書いておきたい。とはいえ、仲間内で作ってるもののうち、誰が良くて誰が良くないというのは内輪でやれば良いことだし実際やるので、外向けはまた別のニュアンスを帯びてくる。

・戸田俊之介の韓国詩論、吉田瑠夏の町屋良平論、原田敏文のNewJeansファッション論は、本誌論考の射程域を押し広げた点で特筆に値する。

・執筆者12人のうち、当初の第三批評集団設立の基盤となったことばの学校批評クラスの外部から3人を招いた。彼らの寄稿、河本直紀のアピチャッポン論、近藤真理子「言語の磁場」、秋山拓のNewJeansセカイ系論は、呼びかけた自身の意図と期待を超えたパフォーマンスにより本誌の言葉と思考へ厚みを与えてくれた。
 
 これら各々を極点として張り巡らされた論的空間の全体が、常森裕介編集長の出処不明の驀進力に牽引され、都度都度進化をみせる今津祥デザインによりパッケージングされゆく過程は、終えてみればあっという間で関心はもう“次”にある。なお、本誌には下記4論考のほか、小コラム等を寄稿した。

・特集“記憶するアジア”巻頭論考
・トニー・レオンを軸とする戦間期上海香港映画表象論
・トニー・レオン出演 NewJeans MV “Cool With You”論
・町屋良平『私の小説』論




 ちなみに、土岐小映という名で今回初めて書いた。小映名で書いた前回文フリ東京刊行の『群島語1号』、および前々回『群島語0号』につづき、自分の書いたものが文章量でいえば一番多い。毎回その意図はなく、結果としてなぜかそうなる。おそらくだけれど、他のほとんどのメンバーにとって寄稿するという行為は心理的に“特別なもの”であり、相対的に多かれ少なかれ“意気込むもの”であるため、現実の編集作業および入稿直前のドタバタの中で、おのがタスクをさらに拡げるという方向へ傾きがたいのだろう。今回も、入稿期限が近づいて寄稿をやめたケースは複数あったし、間際で発生した項目で筆を採ったのは編集長と自分だけだった。

 筆名をネット上の名とも仕事原稿の名とも変えゆくこのスタンスは、仕事で世話になっている編集者や在外の友人含め、あらゆる方面から評判がよろしくない。とはいえ、「ときさえ」(と読む)という四音自体は、思いついてからたぶん25年がすでにたっている。四半世紀あたためてきた構想、ついに。というあれである。ツイ垢の名も変えた。あたうかぎりは良い方角へ、いろいろ変わりゆけばいい。




4. ハン・ガン 『ギリシャ語の時間』 斎藤美奈子訳 晶文社

自転車に乗った少年のこめかみのあたりには汗の玉が流れ落ちているでしょう。なみなみならぬ貫録を感じさせる老婆のタバコは細くて繊細な種類のもので、セーターいっぱいについた小さなキラキラする飾りは、バラかあじさいの形をしているようです。
 そんなふうに想像をめぐらせながら人々を見るのに飽きたら、裏山の散策路をゆっくり上ることもあります。淡い緑の木々がひとかたまりになって揺れ、花たちは信じがたいほど美しい色合いに滲んでいます。山の麓にある小さなお寺の本堂に腰かけて、私は休みます。重いめがねをはずし、境界線が完全に崩れてぼんやりとかすむ世界を見渡します。よく見えなくなった人は、まず、音がよく聞こえるようになると思われているようですが、それは事実ではありません。まず第一に感じられるのは、時間です。時間はあたかも巨大な物質がのろのろと進む苛酷な流れのようであり、それが時々刻々と身体を通過していく感覚に、私は徐々に圧倒されます。
 日が暮れると急激に視力が落ちるので、遅くなりすぎないうちに私は立ち上がります。家に帰って服を着替え、顔をまた洗います。あなたが好んで太陽を見ていたあの街では正午にあたるころ、こちらの時刻では夜の七時から、カルチャースクールの受講生相手に教えているからです。 42


誤りは大胆に投げうって、か細い平均台の上を一歩一歩進んでゆくとき、自問自答をくり返す賢しらな文章の網の目の中で、青い青い水のような沈黙がゆらめくのが見えます。それでも私は自問自答を続けています。両の目を沈黙の中に、刻々と水のように満ちてくるまっ青な静寂の中に残したままで。私はあなたにとってなぜあんなにも愚かな恋人だったのか。あなたへの愛は愚かではなかったのに、私が愚かだったために愛までも愚かしくなってしまったのか。私はさして愚かではなかったが、愛が愚かさという属性を備えていて、それが私の愚かさを揺り起こし、ついにすべてをぶち壊してしまったのかと。

τὴν ἀμαθίαν καταλυέται ή άληθεία.

「真実が愚かさを破壊する」という中動態のギリシャ語の文章です。ほんとうに、そうなのでしょうか。真実が愚かさを打ち砕くとき、真実もまた愚かさによって変化するのでしょうか。同様に、豊かさが真実を破壊するとき愚かさにも亀裂が走り、一緒に壊れてしまうのでしょうか。私の愚かさが愛を破壊したとき、私の愚かさもまた、もろともに破壊されたのだといえば、あなたは詭弁だと言うでしょうか。声――あなたの声。この二十年近く忘れたことのない声。私がまだあの声を愛していると言ったらあなたはまた私の顔を、頑強な拳で張り倒すでしょうか。 48-9


彼は腰を半分くらいかがめ、スマートフォンにぐっと顔を近づけている。めがねとスマートフォンが今にもぶつかりそうだ。そんな姿勢でいると実際より ももっと体が小柄に見える。バイト生が高い声で早口に言う。
 ほら、これは、南極のペンギンの群れが住んでるところに設置したウェブカメラの実況映像ですよ。すっごく暑いときにこれ見るとほんとに涼しそうなんですよ。うん、ここも今、夜なのね……見えます? ペンギンももう寝ていますね……あ、これですか? この濃い紫色に見えるところ? それ海ですよ。白く点々と見えてるのが氷でしょう。全部、氷河ね。わあ、今、雪が降ってますよ。見えます? これですよ、このキラキラしてるの……見えません?

                       *

 古い、色あせたカルチャースクールの建物の玄関を出て彼女は、大柄な大学院生が暗い壁にぴったりくっついて誰かと電話で話しているのを見る。火のついていないタバコを指の間にはさみ、歯をくいしばり、低い声で、彼女が通り過ぎるのにも気づかないまま彼は小声で話している。 110-1


 君と夜遅くまで交わした論争を思い出す。論争がすっかり終わり、ふと、すっぽり空いたように感じられる壁や暗い色のカーテンに目を向けたとき、まるでそのときまで僕らを待っていてくれたように思えたあの清潔な沈黙のことも。あのころの君は、粉砕不可能な敵だったな。僕が投げかけたあらゆる質問を君は明快に解きあかしてみせ、君に問いかけられると僕はいつも道に迷ってしまった。違うよ、と君はよく言った。悪いけど君が今言ったことは間違っている、とね。長い論争が終わるころ、つけたすように言ったよね、とにかく君は文学をやるのがいいよって。君はそんな、気難しい友であり、とても厳しい同い年の師だった。
 その師の忠告がおそらく正しいのは想像がついていたんだ。でも僕は従うことができなかっ た。文学を読むなんて耐えられなかった。感覚とイメージが、感情と思索とがぶざまに手を組んで揺れている、そんな世界を決して信じたくなかった。
 でも、僕は間違いなくその世界に魅了されていた。例えばアリストテレスを講義していたボルシャット先生が潜在態について説明するとき、「将来、私の頭は白くなるでしょう。しかしそれは今、現実としては存在しませんね。今、雪は降っていませんが、冬になれば少なくとも一度は雪が降るでしょう」と言ったのに僕が感動したのは、その重層的なイメージの美しさゆえのことだった。講義室に座っている若い僕たちの髪が、背の高いボルシャット先生の髪が、突然霜のように白くなり、雪が降りしきる――その瞬間の幻想を忘れることが出来ない。 137-8


女は髪をぎゅっとひっつめにしている。耳の下まで伸び た後れ毛が、深い呼吸に合わせて揺れる。突然、それをちゃんと見たいと男は思う。照明が充分ではないので、懐中電灯を彼女の顔に当てないかぎり表情は見えない。
 また手話を使うべきだろうかと彼が思ったとき、女の息が遠ざかる。黒い半袖のブラウスと黒のパンツが、白っぽい顔とうなじと腕が遠ざかる。かかとの低い靴の音がトッ、トッ、とカンマやピリオドを打つように石造りの階段に響く。三階の廊下まで休まずに続くその音に耳を傾けながら、男はじっと立っている。はてしなく遠ざかっていくその音が感情のどんな部分を刺激するのか、これと似たような入り組んだ気持ちをいつ味わったのだったかを、じっと考える。

 後について上っていこうと男が歩を進めた瞬間、ピイピイという声が聞こえる。男はふっと立ち止まる。 154


 私が笑わなくても、怒ってるわけじゃないから誤解しなさんな。

 彼女がごく小さく体を動かしても、天井に映った彼女の影ははるかに大きく動く。彼女の顔と手がほんのわずかに震えるだけでも、影は踊るようにそわそわとゆらめく。
 
 思春期のころ、私にとっていちばん難しかったのが微笑むことでした。快活で自信に満ちた態度を演じなければならないということでした。いつでも笑ってあいさつできるように準備しておくことは、私には骨が折れました。ときには、笑ってあいさつするのが一種の労働みたいな気もしましてね。みんなの形式的な微笑が一瞬もがまんできない日もありました。そういうときは、武道の得意な不良東洋人と思われることを覚悟で、帽子を深くかぶってポケットに両手を突っ込んで、自分にできるいちばん無愛想な表情で歩いたりしたものですよ。 179


 ……あなたを理解できると思うときがあるんです。
 これ以上何も言いたくないときがあります。

 彼女は彼の顔を見つめようと努める。焦点を結ばない彼の目に、はっきりと目を合わせようとして努力する。

 暗い緑色の黒板にチョークで文章を書くとき、私は恐怖を感じます。
 さっき私が書いた文字なのに、十センチ以上離れたら見えません。
 暗記した通りに声を出して読むとき、恐怖を感じます。
 舌と歯とのどで平然と発音しているすべての韻文に、恐怖を感じます。
 私の声が広がっていく空間の沈黙に恐怖を感じます。
 一度広がり出したら取り戻せない単語たち、私より多くのことを知っている単語たちに、恐怖を感じます。

                       *
                       
 今聞こえてくる言葉が誰のものなのか、知ることはできないと彼女は思う。ひどい疲労の中で、すさまじく暗い、静かな部屋の中で、何もかも幻だと彼女は感じる。どんな言葉も彼女には聞こえない。どんな他者の内部も彼女はうかがい見ない。
霧の中を歩いていくようなときがあるんです。

 この都会の冬にときどきやってくる、明け方に湖から市街地に押し寄せた霧が夕方まで晴れない日のような。壁に描かれたフレスコ画が霧に隠れてあとかたもなく見えない灰色の建物の間を、じめじめした石壁に体をぴったりつけてゆっくり歩いてゆく夜のような。誰も自転車に乗っていない、人気がない、重い足音だけが聞こえていた夜、これ以上どんなに歩いてもあの冷え冷えとした家にたどりつけないと感じた夜のような。 199-200





5. 蓮實重彦 『ジョン・フォード論』 文藝春秋

 固有名の奔流というか、観ていない作品名の瀑布のため、いくら読み進めたところで雲をつかむような話という実感も一面へ保ちつつ、しかし具体性ある映画話がこれほどに面白いとはと感心させられる面との両面で『ショットとは何か』と変わらない読後感を得る。
 
 あと本の作りが異様にイケてる。索引とか年表の充実は元より、中表紙や裏表紙の写真選択がカッコいい。このカッコよさゆえという所以もないではない俗っぽさからアート映画とは見做されない、という意味で評価の遅れてきたジョン・フォードだからこそ若き日の蓮實が目をつけ、そして老成した今日大著へ帰結した文脈そのものとも合致した、これはこれでひとつのよく研ぎ澄まされたコンセプチュアル・アートワークになっている。




6. 阿部和重 『グランド・フィナーレ』 講談社

 『シンセミア』に始まる神町サーガ最終章、みたいな文句をネットで見かけて、そうなのか、としばらく思い込んでしまった期間があるため、三部作から『オーガ(ニ)ズム』がいまだに漏れ出てしまう。『オーガ(ニ)ズム』が未読ということもあり、また『グランド・フィナーレ』というタイトルがこの刷り込み消去を逐次阻む。
 
 撮る撮られる、みたいな連環。娘へのロリコン視線から始まる短篇集なのだけど、後続の話がだんだんキレイキレイになってくあたりに阿部和重特有の韜晦めいた機知を感じる。ちいちゃんをめぐる序盤での父親による長尺格闘の前提が効いているからなのか、とくに艶やかな描写があるわけでないのにラス2のヒロインSさんがひたすら温かく、優しいエロスを感覚する。




7. アラモ・オリヴェイラ 『チョコレートはもういらない』 浜岡究訳 ランダムハウス講談社
  Álamo Oliveira “Já Não Gosto de Chocolates” Edições Salamandra, Lisboa, 1999


教会前の敷地で友達とお喋りすること、水汲み場で甕が水で満たされるまで待つために悠長に座っている人をみること、そしてトウモロコシか小麦を積んだ牛車のきしむ音で目を覚ますことなど、楽しみはいずれもかなわなかった。もはやサトウキビを栽培している者はいなかった。
 マリーは死を遠ざけようと、思いを過去へふりむけた。日々を彩った小さな事柄を通り抜け、また人生が彼女に与えてきた悲しみや驚きのところにも立ち止まった。再び微笑んだり、泣いたり、自分が同化を強いられたすべての事柄に身震いし続けた。結局、アメリカを決して理解するには至らず、この国に来てしまった自分はつまらないことをしたと感じられた。アメリカでは、すべてが目まぐるしく生じた。この国で強いられたのは、悔いの残る奇妙な人生だった。そのことでマリーは肩を落し、感覚が麻痺していた。マリーはアメリカが好きなのかどうか、理解する前に死んでしまうだろう。理解できないものを誰も愛しはしないし、また矛盾があるならば愛されることもない。だからこそ、アメリカでは、ある街で人を殺して別の街で人の命を救っても、北部で苦難に対する妙薬を見つけて 南部で巨大爆弾を製造しても、ワシントンで国家予算を増やしながらシカゴで貧困層を増 やしても、すべての矛盾に説明はついたのだった。アメリカは大砲と人間によって統治されているかのように、マリーには思えた。このアメリカが彼女を惑わし、結局広大なサン・ジョアキン・ヴァレーの中に失われたあの小さな町トゥレアリーで、人生を送ることになったのだった。
 過去へと思いをめぐらせる時間がもはや少なくなったと予感したマリーは、ひどく無口になった。彼女の予感は的はずれではなかった。ジョー・シルヴィアは家の雰囲気を明るくしようと小さな孫達を連れてきて、孫達がいたずらをしたり遊んだりすることで、新鮮な空気が彼女に吹き込むようにしてやった。マリーがジョーに言った。
「うるさいし、あのエネルギーは私には息苦しいわ。あの子たちの家にいさせてやって。人生の最悪の場面と死を知るには、あの子たちには早すぎるわ」 191-2



 大西洋上のアソーレス群島アソーレスからアメリカ・カリフォルニアへと移民した夫婦とその子供たちを描く。題名のチョコレートは戦後の日本同様まぶしいアメリカ文化の象徴として登場する。故郷テルセイラ島は、時にアメリカでの日常のつらさとは無縁のユートピアとして想起され、また生きるには過酷な苦難の地としてアメリカでの暮らしを肯定するための主材ともされる。章ごとに主人公が代わり散漫な印象を前半はもつが、終盤へ近づくに従いそれも収束していく。味わいと余韻の深い一作。


「ブタ小屋に住むためにテルセイラ島から来たと思わないで。わたしはこんな小屋で育ったんじゃないのよ!」
 ミルの両親の小さな家には、小さな門と不ぞろいな三つの窓があって、壁土も石灰もしっかり塗っていなかったために、雨で壁が崩れていたのを皆は思い出した。台所と居間、両親の小さな寝室があったが、ミルと妹は裁縫をするところで寝て、男の子たちは台所の天上裏の丸太組みにマットを敷いて寝た。裏庭があり、菜園のほかにブタの囲い地と鶏の通る道の間に便所があった。こうしたささやかな豊かさの中でミルは育ったのだった。野心を抱きながらも、時にはテクニックとして一時的に要求をひっこめたりする、若い女の子特有の性格は、ミルのもう一つの顔だった。アメリカが彼女を目覚めさせた。ひどい労働条件と給料の町の工場で、台に座って麻布に刺繍しつづけ、目を腫れあがらせる必要はなかった。アソーレスでは夜明けとともに起きて仕事に取りかかった。足を組んで指と指の間に針をはさみながら、腕と手は機械のように動き、背中の痛みで呼吸ができなくなったときだけ、その驚くべき仕事のリズムは中断した。テルセイラ島では、これは女性の仕事だった。女の手は華やかな刺繍を生み出したが、稼ぎにならなかった。一メートルのサラサを買ってエプロンを作って十分に稼ぐには、何日も刺繍にかかりっきりにならなければいけなかった。ミルはアメリカでの仕事のつらさを経験することはないだろう。主婦の道を選ぶはずだ。やがて、皆はミルの奇妙な高慢な態度を受け入れることに決めた。いろいろ言い訳はあったにせよ、小さな家は修繕され、新しい家具も買ってやった。
「可哀想な娘だこと! ひょっとして、アメリカは宮殿や車を持った金持ちばっかりだと想像していたのかしら!」
 マリーはジョー・シルヴィアにこう言った。 124-5



 ところでネット検索すると出版社は「武田ランダムハウスジャパン」となっていて、けれど現物の記載は「ランダムハウス講談社」で、ランダムハウスと講談社の提携で発生した会社が提携解消後に社長名をとった会社名に変更、のうえ2年後に9億の債務抱えて倒産してた。そも重版かかる見込みもなく文庫化なんてことにもならないこういう希少作というか辺境作品、どうなるんだろうね。現物紙の本版しか残り得ないとすれば惜しまれる。そういうケース、日本語訳本にはたくさんあるんだろうけど。

 あと原題で検索してみると、本作の日本語訳がいかにレアだったかもわかる。本来なら、訳されてもスペイン語や英語くらいしかないサイズの作品なんだよね。こういうケースもまた、たくさんあるんでしょうけど。




8. 今村夏子 『とんこつQ&A』 講談社

 表題作は、天然ネアカ系天才肌の書く『コンビニ人間』の趣き。ADHDとかアスペとかが人口に膾炙する寸前にデビューしたことは、このひとのけっこうな強味なのかもしれない。
 なんかそういうレッテル付けありきで進行する語りをギリで回避する滋味があって、それがまったく技巧的には感じられない天才肌の滲出もこのひとならでは。
 
 なんだろうな、だから圧倒的に好きというか、良いと思う。思うのだけど、だから今村夏子ばっかり読みたい、みたいな衝動には駆られないのも不思議なとこ。んむ、不思議感だけはまた一段階深みを増した。




9. 『クリエイターの為の国家事典』 亥辰舎

 世界のマイナーおもしろ国家群へフィーチャーした(同人発っぽい体裁の)冊子。アイスランド級の領域国家から領土を持たないマルタ騎士団まで60カ国ほどが個別に扱われる。内容は玉石混淆もいいところで、扱う国家とほぼ無関係なエピソードのみが占めるページもある。首都人口47人の風習が法的には犯罪だったため、旧宗主国(英国)や近隣の大国(といってもNZ)による介入で大変奇妙な法治処理が為されたピトケアン諸島とか、海戦力がそれなりに列強からも警戒されたトンガ王国など興味深く読む。




10. 喜多川泰 『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』 ディスカヴァー・トゥエンティワン

 いわゆる文学とか小説好きの人々からの評価は皆無で、そも存在すらほぼ知られていないながら、明白に小説形式をとる著書が百万部売れており、海外翻訳も堅調な“作家”として、この著者の名前をある場所で初めて耳にし興味をもつ。ところが地元図書館は予約が3桁待ちで、要は超絶流行作家なのだった。
 
 で、読んでみるとこれは小説形式のビジネス書めいた若者向け自己啓発本で、なるほどこりゃ小説だけど文学じゃないというか、認識されない。リーダビリティしかない文面からは、芸術表現に接する喜びのようなものは皆無なのだが、しかしこれもまた文章表現である以上、角度を変えた文章芸術とはいい得るし、言う余地は残されるべきだろう。
 
 『あなたの能力は、今日のあなたの行動によって、開花されるのを待っています』

 という標語みたいのが目に飛び込んでくるあたりも、自己啓発っぽくてなるほど感しかない読書体験。2冊目を読むことは多分ない。




▽コミック・絵本

α. 大友克洋 『童夢』 講談社

 新装版の大友克洋全集The Complete Works 8にて読む。十代の頃に読んだ気になっていたけど、全編ほぼ初読の心地。実際友人宅かどこかで他人の物を読んだような気もするし、いくつかの場面はうっすら記憶にあるような気もするけれど、物語的にも表現的にも驚くほど新鮮な体験として楽しめた。これは旦那衆のご支援がなければなかったろうし、さらには全集が出なければなかった体験だろう。

 AKIRAでも知られる大友特有のコンクリ壁破壊や瓦礫浮遊など超能力戦闘描写がいかんなく炸裂するのだけど、舞台が蕨の屏風マンションというのがまた時代隔世感あって良い。なにしろ新築どころか工事中の現場へ大友は侵入していた旨が、この全集版ではコラムで語られ、いまやそこは老朽化して中華マンションとして即ち移民社会化のモデルケースみたいな存在へと変貌を遂げている。これはこれでAKIRAにおける東京五輪並みに今日性ある天才作家ゆえの符号とも言え。

 で、のちの老人子ども3人衆へ発展する超能力老人vs子どもの戦闘が、人知れず行われ現象として人はどんどん「自殺」を遂げ、という現代都市伝説みたいな仕立てもまたいい。そして刑事だけが真相へたどり着きかけるという筋の昭和感。なんだろうな、令和の今日だとこうはならないことはわかるのだけど、なぜそうなのかが今いち見えない。香港ほどではないにせよ、警察イメージが希薄化してるのは確かだよな。良くも悪くもなくただ薄くなっている。主人公にも目撃者にも昔ほどはなり難い、程度には。

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β. 鶴田謙二 『デンキ 科學処やなぎや』 復刊ドットコム

 冒険エレキテ島が、島でなく昔ながらの木製リアカー屋台へ凝縮された観。語り手は屋台を目撃する無名の人々で、リアカーの住人である博士と三味線弾き助手にまつわるエピソードが昔話のように語り継がれる。でこの三味線弾き助手の全身イラストが毎度絶妙に艶やかなのだけど、他作のようには全裸にならず雨に濡れたり和服だったりするのが逆にそそるという搦め手。
 
 版元が復刊ドットコムっていうの、確認できなかったけど元は同人誌だったのかもな。その復刻版もすでに絶版になっていたので、ご恵投いただき誠にありがたく。↓

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(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)

γ. 羽海野チカ 『3月のライオン』 15-7 白泉社

 「病いの苦しみをバネに…」って 治るんならいらんわ そんなバネ!!
 バネ無きゃ勝てんならそれまでの才能って事ですわ!!
 バネなんぞ無くともありとあらゆる方法を探し
 全力&別ルートでのし上がってみせますわ!!
 オレの執念なめんな!!

 
 っていう、16巻末の二階堂吐露好き。
 で、「桐山、全身全霊で別ルート探しだしたんだな」っていう締め。

 現役高校生棋士として脚光を浴びたのもつかのま、主人公らに座を追われ苦渋の時を過ごす野火止あづさの人物造形良い。逡巡やら愚痴やら悪口やら怒涛の内面語りに集中して体がフリーズしている状態が、師匠筋からみれば彼の「ゾーン」へ入っている徴候になってるっていう。鉄ヲタ属性もなぜか説得力ある。

 17巻、盤上にトーチカが現れる描写いいな。内面模様に具体性&説得性を与えた描写の凄味がさらなる飛躍を遂げてきた感あって迫力しか。しかもその膂力を半分は食べ物や猫に使われるのでもうたまらんもっとやって。



δ. 芥見下々 『呪術廻戦』 7-12 集英社

 なんで送りバントしたの?
 恵、本気の出し方知らないでしょ。
 「死んで勝つ」と「死んでも勝つ」はぜんぜん違うよ恵。 by 五条


 未成年虎杖がパチンコの景品袋抱えて戻って来る描写につくケチと密かに忍ばせた工夫をめぐる8巻コラム良い。虎杖の意図が明確に伝わらない読者にも、なんとなく雰囲気で伝わりそうなのは、「その描写」以外の部分でも無意識に作画や台詞へ影響しているからかもしれない。

 渋谷事変描写は、先にアニメでかなりヤラれてるため、原作では五条がまだまだ離陸してない感じがして意外といえば意外。ここはアニメでの差異化ポイントの要所(の少なくとも一つ)だったんだなとも。

 粟坂二良(61)
 ・一人っ子
 ・病気がちな母に贅沢をしてほしくて大金を稼ぐため呪詛師になった
 ・みたいな嘘を平気でつく





ε. 山口つばさ 『ブルーピリオド』 10 講談社

 世田介くんはこの人の作品…好き?
 ……好きっていうか…わかる
 「わかる」?
 たまにチャンネルが合うように作者がどういうつもりで描いてるかわかるときあるだろ、それ
 だから好きっていうより“近い”気がする。来てよかった
 
 僕はさぁ、美大生が私小説みたいな作品を「自己表現」とか言っちゃうの嫌いなのよ
 でもさ、君のこの絵からはそういう嫌さは感じないな
 つーかむしろ日記レベルになってねーよ
 絵づくりの綺麗さに逃げてるだろ
 そういう意味では中途半端つか君、見た目の割にもしかしてすっげービビリ?






 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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