pherim㌠

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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2025年
01月24日
08:17

よみめも98 下駄で歩いたニューヨーク

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
  Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV




1. 中平卓馬・森山大道・高梨豊・多木浩二・岡田隆彦 『PROVOKE 2』 プロヴォーク社, 1969

eros:

たとえば――
愛への不信はいまでは愛のしぐさ同様に身についてしまったものである。日常的な意識では、どちらかといえば不信に傾いているといっても、双方ともたいした意味をもってこない。しかし日常的な意識をこえて、この不信を無限にまでおいつめてみても、そこになお湿った夜のような絆がのこっているのを感じると、それは意識よりも、もっと根源的なものと思わざるをえない。
それは――
きわめて未開なものだと誰かがいっていた。どんな技術文明のさなかにあっても 残された未知の部分であり、それは、世界の暗い底を流れていて、われわれ自身を意識よりももっと深いところから織りだしてくるものである。それを、われわれは漠然とEROSとよんでみた。いいかえれば、それは単なる性ではなく <生> の全体であろう。
さまざまなアプローチがあろう。
ひそかに夜をかたちづくる物たちの気配のなかに、ふいにイメージとしてうかびあがり、われわれの魂にすみつくものかもしれない。実像がもはや消えうせたときには虚像を重ねるソフィスティケーションが、直接のEROSの衝動にささえられたものかもしれない。個人的にとじられたかかわりが、人間にのこされた自然を、たとえ陰惨のベールをとおしてでもよびさましうるのかもしれない。が、同時に、世界はまさにEROSの荒野である。アンニュイなどという馬鹿々々しいものはわれわれには関係がない。われわれが求めているのは文明の抑圧のさなかに追いつめられた肉と魂の論理なのである。
 解放はまだこないのだ。





2. 林芙美子 『下駄で歩いた巴里』 岩波文庫

「ひとり旅の記」

夜はなるべく早く安静にして寝る事にしています。寝つく前は本を読む事です。仏蘭西語を少しやってあとは出鱈目に読書をしています。今は何も読むものがなくなってしまって、岡倉さんの茶の本なんぞを読んでいますが、大変面白い。――(略)私は元気になって、一ヶ月の倫敦生活に訣別する事にしました。さて離れるとなると倫敦はまたなつかしい都です。

 倫敦では博物館を見ました。イースト・エンドも歩きました。ユダヤ人の町を見たり、ピカデリー広場の地下鉄に出ている女も知ったし、オクスフォード大学都市も、テームス河の魚市場も、マルクスの墓も、芝居も、等々、私はこまめによく歩いて行きました。言葉が解らないので、紙と鉛筆を持って、よく歩く事です。184と云う赤自動車は帰りの私をホウランド・ロードの街角まで運んでくれます。倫敦の乗合自動車は一区四銭あまり、つまりワンベニイです。倫敦の博物館は素的ですよ。全く、大きい声では云えないのですが、よくもあんなに世界各国から大泥棒が出来たものだと思いました。日本の古代の青銅器なんかも沢山ありました。壁という壁、空間のないほどの豊富さです。私を感歎させたものに陶器の部屋がありました。昼から倫敦大英博物館に行く。陶器の部屋は好きだった。特に東洋のものはいい。藍色ひといろの清楚な色調は、やがて盛られる美味しい食物を聯想させてくれる。西洋の陶器の味はどうだろう。これは全く舌からはずれた遠い眼の観賞に任せるべきだろう。一枚の皿にも、デコデコに色を塗るか、凹凸をつけるか、始終何かおしゃべりしていなければ気の済まぬ西洋皿。私は部屋隅にあった古い支那製の壺にそっと頬をつけてみたりしました。それは冷くて素直に円い。肩の辺には、小鳥が二羽藍色で描いてありました。全く静かすぎる。私は何故か日本の母親の事を思い出しました。この壺に、二、三枝の黄がかった梅の花でも投げこんだらどんなに人たちはその美しさに驚くでしょうか。
 ()
 上海まで戦争が拡がって行ったようですがいったいどうなるのでしょう? 外国へ来ていますと、毎日の新聞で、日本の評判の悪いのが気になります。

 ねえ、誰だって国を愛しているのですよ。国を愛さない者がどこにあるでしょうか?
 ねえ、国だの金だの人民だのを玩具のようにしている××××たちを、そんなのからどうにかならないものでしょうか。――世界大戦の跡、いったいどこに平和が来たのでしょう。各国の人民たちが妙に疲れきっています、外国を歩いていると、今でもプンプンと血腥いベルダンの匂いがします。足のない男、片手のない男、片眼のない男、そんなベルダンの遺物が何をしているかと云うと、大抵は、サンドウィッチマンか、乞食か、ヴィオロンをひく芸人ですよ。かつては人気の焦点になった××さんの末路が、欧州各国にはうようよとはけ口を求めているのですよ。

 巴里の職業紹介所もそうでしたけれど、倫敦の職業紹介所は、これは寿司詰の盛況で、 毎朝何となく失業者が行列で順番を待っています。
く世界が飢えている感じ。日本でも昔は平和博覧会なんてあったのですがね。 誰たちの為に飢えて、いったいあの長い行列をつくるのでしょうか。日本は温いと云う事ですね、倫敦は今年は雪の日が多いのですよ。 151-3


「皆知ってるよ」

巴里ぐらい接吻の多い街はないだろう。私は倫敦にも行ったけれど、倫敦はその点は実にチツジョがある。巴里の公園は一人でブラブラしていると、こっちが上せあがってしまうほどだ。睦言があっちもこっちも、映画活動へ行っても、眼の前にそんな組に来られてしまうと、何を見て帰ったのだか、銀幕なんかそっち のけで、二人の唇を突きあわした黒い影ばかりが頭にこびりついて来る。果としてしまっている。何の事はない接吻を見に行ったようなものだ。――私の友人にフランス女の可愛いアミがある。これが巴里ではたった一人私に接吻してくれる人なのだけれど、勿論頬べたへの友情に外ならない。 ―実に軽い音を立てて呆とさせてしまう術は手に入ったものだ。毒々しい紅がついてはやりきれないと思って遠慮したのだけれど、コンパクトを開いて見ても別に紅い跡は残っていない。 東洋の男が首ったけになるのも無理のない事だろう。
 ああ接吻の憂き情、ゆきたけもあわざる心さしよせ、うまし実を吸う。――私は小さい頃、こんな詩のようなものをつくった事があったけれど、巴里のようにこう接吻が乱売されていては、食傷してひっくり返って気絶してしまいそうだ。
 日本では、街の中で接吻でもしようものなら、ちょっと来いと云われるけれど、こっちはお巡りさんも最敬礼をして通って行く。お巡りさんと云えば、ブラブラ巡廻しながら八百屋の女中と接吻しているのだから、巴里もなかなか長閑ではある。(昭和七年三月) 138-9


「春の日記」

 四月二十六日
 朝、ルーブルに行く。コローの絵を暫く眺める。遠くから見ると淡々と描いてあって、そばへ寄ると七宝のように積みかさねたテクニック。これは王様にささげるような絵だと思った。
 ヴァンドンゲンの絵はあまり好かない。サロン画家の感じ。日本の藤田に似ている。夕方、サン・ミッシェルぎわのカフェーにS氏を待ち、夕食を近所のグリルで食べる。鶏だの野菜だの沢山食べた。かえり街を歩く。
 セーヌの夜の景色美し。それより、モンパルナス裏の芝居小舎へ行き、埃っぽい芝居を観て帰える。
 今日は愉しかった。 177

 五月八日
 ドイツの女学生シュミット・ハンナとリラであう約束なので、朝十一時に出掛けるけれど、来なかった。花を買って家へ持ってゆくが留守。 やけになって、ぽこぽこ歩いてかえる道、O氏に出あう。ハンナ女史、わたしの留守に来たる由。
 終日、瞼重く鬱々たり。夜は何もたべず。
 いろいろな仕事をしたいのだけれど出来ない。もう一度田舎へゆきたい。夜、O氏フランス人の女の人を二人つれて来る。日本字のかける人だった。派手な羽織を一枚あげる。
 人間は、捨身になって仕事に溺れるべきだ。

 五月九日
 今日は近所のお祭。お祭は何という名なのか知らないけれど、辻々に玉ころがし、的当て、軽業師など出ていて大変賑やか。S氏、夕飯を御馳走したいといわれる。二人でダゲエルの町を買物して歩く。夜更けに、窓の下でしばらくアコーデオンが鳴っていた。

 五月十日
 終日無為。二法出して、紫の菫を買って来てたのしむ。

 五月十一日
 朝から小雨。しみじみしたりパリーの五月雨、身に心に沁むかな。
 正金銀行に行ってお金をとって来る。かえりに日本までの切符を買う。三十磅なり。三等切符、これで日本の神戸の港まで行けるのなり。マデレーヌにて茶を飲み、赤い箱のポールモール買って吸う。あかい箱かわゆし。夜十一時。クウ・ボックにて送別会をしてもらう。帰り、夜更け二時。
 夜更けて、久しぶりに町の音をきく――明日はいよいよ出発、夜あけ五時までねむられず。 183-5


「文学・旅・その他」

私はこの頃、ひまさえあると一人 で旅をしている。日常、家族の者が米みそにことかかねばそれでよいと任じているし、何万円と云う家を建てる意志もないので、生きている間働いたり遊んだり気ままに出来れば事足れりと思っている。たまたま私のようなものにも家を建てて行末の事を考えておいた方がよいと云ってくれる人があるけれども、私は家を建てることや蓄財は大きらいだ。家を建てる気持、家を建てたあとの気持これがわずらわしいし、私のように、走りまわって、やっと柱が一、二本しか買えぬようなやりくり資金でびよびよした文化住宅を建てるのはおかしい事だと思っている。家を建ててほっとしている人はめったにあるまい。一、二年もすれば鼻について来るし、殻を背負っている気持にやりきれなくなってしまうだろう。私は家を建てるつもりで、その金を旅へ散じてしまった。
 いまでは、自分がひととおりその日暮しにも困らなくなったから、こんなことも云えるのだけれども、何時も考えることは、何を以てか字を識らんことを好むで、好きな道が、私をこんな風にしてしまったのだと考えている。私はいま小説を書いて生きている。自分のような凡才浅学なものの小説が生活の資となることを、私は未だに信じられないけれども、その不安は私にとって何とも云えない愉しさなのだ。軀の丈夫さや、根のよさは人に負けない。昔は、人の家の空家に寝たこともあったし、土の上に寝てもよく眠むれたので、いまだに薄着屋で、めったに風邪もひいたことがなく、二、三日徹夜をし ても平気なのである。仕事を始めると、食事が全然駄目になるし、ただ、軀だのみせっせと紙に向かっているのだけれども、この心境は物を書いたひとでなければ判って貰えないだろう。何か愉しいのだ。小説を書いていると、恋びとが待ってくれているように愉しくなる。娘の頃から書を読むことが好きであったが、こんな愉しさがあったからこそ、自殺もせずに無事に来たのだと思う。 284-6

私はいったい楽天家でしめっぽい事がきらいだが、そのくせ、孤独を全我としている。私の文学はあこがれ飢えることによって、ここまで来たような気がする。いまでも、私の目標は常に飢え、常にあこがれることだ。人と共に色々なことをやってみることはあまり好きではない。三十五歳位になったら山里へひっこんで呆んやり空を見て愉しみたいと思っている。その間、うんと馬力をかけて働かねばならぬと考えている。野心は満々たるもので、自分ながらえげつないほどだ。どこへどう持ってゆくあてもない仕事を二通りにかかっている。新聞小説と日記だけれども、日記はもう五年位つづけている。新聞小説は一日一枚主義で、四枚書ける日もあれば三枚の日もある。私は昔の作家のように気分がむくまで休んでいられない。休んでいると馬鹿になってしまう。馬鹿の上に馬鹿になってはつかいみちがない。
 どんなに辛くとも、一日のうち一度は机の前にタンザする主義を取って、馴れる気持を養っている。凡才は努力より他に道がない。テニスの選手でムディ夫人と云うのが、二年間軀の休息をはかっていて、完全に体がよくなるとまたテニス競技に出て、非常に 結果がよかったそうだけれども、小説を書く者には、この長い休息法はあてはまらないと考える。寸時を利用し、太息ついてせいぜい二、三日旅をする位で、作家は常に眺め
常に考えていなければ、いざ競技となった時に呆んやりしてしまうのだ。 286-7


「私の東京地図」

茅町を出て不忍池の方へ まわって、私たちは池の中の弁天様の方へ歩いて行った。蓮もすっかり凍みてすがれてしまい、青い貸ボートが灯に腹をむけて沢山干してある。橋を渡って弁天様へお参りをして、池のそばの茶店で私たちはしるこを食べた。こうした茶店の姿はうれしいことには昔ながらのおもかげを残している。赤い毛せんを敷いた縁台が出ていて、白いカヴァのかかった座蒲団には薄陽が射していた。私は塩せんべいを買って、池の家鴨やがちょうに投げてやった。人に馴れているものと見えて長い首をふって何時までもせんべいをさいそくしている。冷い水の中にいてよく寒くないものだと思った。夜は、この水禽たちはどこへ寝るのか、四囲には鳥の寝る小舎のようなものもみつからないのだ。
 陶淵明のなかに、

  人生有道に帰す
  衣食は固より其の端なり
  孰かこれ都べて営まずして
  而も以て自ら安きことを求めん。

と云う一句がある。
 歳月は実におびただしい急流で私の人生に今日の日まで押し流れて来た。私は茅町時代の苦しかった娘のころをおもい出して、いま再び、昔のままのこうした茶店で豊かに茶を喫しようとは、おもいもよらなかった事を涙ぐましく考えているのだ。生きてさえいれば、とにかくこんな人生も私にはあったのだと思う。営々として、何かにしがみつくようにして生きていた十幾年の自分の歳月の中に、私は、色々な思い出を思い出して
不忍池のあたりは少しも変っていなかった。 308-9





3. ハン・ガン 『菜食主義者』 きむふな訳 CUON
 한강 《채식주의자》 창비, 2007


 彼女は腕と脚がしびれたのか、肘で床を支えながら体を起こした。
「寒くない?」
 彼は汗を拭きながら立ち上がり、自分のジャンパーを彼女の肩にかけてやった。
「疲れてない?」
 彼女が彼を見て笑った。かすかだが力があり、いかなるものをも拒否しない、いかなるものにも驚かないというような笑みだった。
 彼はそのときになってやっと、彼女がシーツの上にうつ伏せになったとき、彼に衝撃を与えた正体が何だったのかに気づいた。すべての欲望が排除された肉体、それが若い女性の美しい肉体だという矛盾、その矛盾からにじみ出る奇異なはかなさ、単なるはかなさではない、力のあるはかなさ。広い窓から砂のように砕けて降りそそぐ太陽の光と、目には見えないが、やはり砂のように絶えず崩れ落ちる肉体の美しさ……短い言葉では言い表せないそれらの感情が同時に押し寄せてきて、この一年間、執拗に彼を悩ませた性欲さえ和らげたのだ。 134-5



 ハン・ガン作を読むのは三冊目になるけれど、タイトルに相反してめっちゃ官能表現が他作より多いし読ませる。官能的だけど、欲情的ではないんよね、そこに植物成分を感覚する。


 これはエロ映画などではないので、セックスする振りだけをとらえてはならない。本当に挿入するようにして、その一つになった性器を撮らなければならない。しかし、誰に? 誰がそんなことを受け入れるだろう。そして、義妹がそれをどう受け止めるだろう。
 彼は自分がある境界に来ていることを悟った。しかし止められなかった。いや、止めたくなかった。
 熱い湯気が立ちこもったサウナで彼は目をつむった。適度に乾燥していて暖かい、時間をさかのぼって戻ってきた夏の夜のようなその場所で、彼は四肢をだらりとしたまま横たわっていた。すべてのエネルギーを消耗した状態で、その果たせなかったイメージだけが温かい輝きのように、疲れた彼の体を包み込んだ。 150-1



 引用メモに残すケースの倍くらいあるドッグイヤー部を見返して、なるほどそうなるよなと思う。きむふなという訳者がどういう背景なのか一切書かれてないけれど、当の「菜食主義者」である主人公だけれど常に客体で語られる女性の会話文体が「~だわ」「~なのよ」であることがどうしても生理的に受けつけられず、そのたびに引っかかって読みにくい。けれどそこ以外は極めて端正な訳文と感じるので、世代差なのかなって思う。斎藤真理子さんがこの会話語尾の使い手じゃなくて本当に良かった。無意識だったけど、まぁ引用メモに残したいとは思わないわな。


 これのせいで出血がありましたね。きれいに取り除いたから、数日は出血がもっと多くなりますが、その後は止まります。卵巣には異常がないから心配しなくていいですよ。
 瞬間、彼女は思いがけない苦痛を覚えた。生きなければならない時間が再び期限なしに残ったのに、それが少しもうれしくなかったのだ。ここ一ヵ月間、心配してきた大きな病気の可能性は、むしろささいな悩みにすぎなかったことに彼女は気づいた。帰り道に再びワンシムニ駅のホームに立った彼女の足がふらふらしたのは、たった今手術したところの痛みのせいだけではなかった。轟音とともに列車がプラットホームに滑り込むと、彼女は手探りで鉄製の椅子の後ろに体を隠した。彼女の中の誰かが、あの硬い車体のほうに自分を投げつけそうな恐怖を感じたからだ。
 その後、彼女が送った四ヵ月あまりの時間をどう説明すればいいだろう。不正出血はその後も二週間ほど続いたが、傷が良くなるにつれて止まった。しかし彼女は相変わらず、自分の体に傷口が開かれていると感じた。まるで体より大きく開けられた傷なので、そのまっ暗な穴の中に全身が吸い込まれていくかのようだった。
 春が過ぎて夏が来るのを彼女は黙々と眺めた。化粧品を買っていく女性たちの服装が徐々に華やかで短く軽やかになった。 259-260



 轟音とともに列車がプラットホームに滑り込むと、彼女は手探りで鉄製の椅子の後ろに体を隠した。彼女の中の誰かが、あの硬い車体のほうに自分を投げつけそうな恐怖を感じたからだ。
 ここ想像で書いてないかも、ハン・ガンさん。




4. 保坂和志 『季節の記憶』 講談社

 言語っていうのはこういう力の流れで、それが渦になっている場所が人間なんだと思う


 1996年作『季節の記憶』に登場する会話文中の一節で、保坂和志といえばこの一文というくらい楔として打ち込まれたから忘れようがないのだけれど、当時読んだ本は手元にあるのに、まだ今やるようなドッグイヤーシステム(読んでる人間の人格類型やページ内の指示内容を“折り方”で分類する私的方法)が確立する前だったらしく、探すのにやや手間取った該当箇所では下記のような会話が為されている。


 自然は自然の連鎖の中にあって人間はそれとは本質的に無関係に存在しているのに、都合のいいところだけ自然と関係をつけようとしているというようなことを考えていたが、松井さんは「こう」と箸を持った右手を無意味に動かして、「言語っていうのはこういう力の流れで、それが渦になっている場所が人間なんだと思うんだな」
 と言った。
 それは“種としての人間”のことかそれとも“個人としての人間”のことかと僕が訊くと、松井さんは「一人一人」と言って、鍋の中のはるさめを箸のさきでくるくると巻いて見せて、こういう風に言語の力の流れが渦になっている場所があってそれが一人一人の人間で、生物学的な環境への適応力とか遺伝とか本能とか、他の動物ではダイレクトに機能しているものがすべて、このはるさめのような言語の力の流れにいったん還元されているのが人間なんだと言った。
 こういう風に考えてみれば個人個人なんてものはほとんど違わない。前に言った平安時代にも弥生時代にも二十三世紀にも自分のような人間はいるというのもこれと同じことなんだということを松井さんは言ったのだけれど、この“はるさめのような言語の力の流れ”という視覚に訴えようとするイメージは完全に松井さん一人のもので、僕には唐突すぎてわからなかった。僕はこのあいだ美紗ちゃんが言った「あたしたち兄妹には造形的な才能がない」という台詞を思い出した。 229-230



 正直ここ四半世紀の保坂作品を意識的に通読するのはこれからと言ったほうが精確に感じられるくらい前世紀の保坂像が強烈すぎて、だからきょう20年ぶりくらいに『季節の記憶』を開いて驚いたのは、現保坂文体に比べ圧倒的に構造がシンプルというか、読みやすい。いわゆる“物語”へ寄せる努力というか、主要登場人物が各々に役割を与えられ、思弁的な松井さんや直感的な美沙ちゃんや、息子のクィちゃんまでもが語り手の内面世界の《一方の極》を各々投影、各々充当する他人像としてキャラ立ちしており、その総体によりひとつの箱庭が意思されるという構造が看て取れる。

 でもそこで描き出されているのは、今のこの眼には驚くべきことに、説明のための仮構された世界でしかなく、薄っぺらい。それは《俺の中の保坂和志》が真っ先に否定しそうな構築性で、だから保坂和志本人が破壊したのだと手前勝手に納得される。とはいえ、わかりやすいのだ。すくなくとも青年小映は、この手法によってこそ刷り込まれたのだし、この会話文だからこそ読み進めたのだと言える。
 それとは別に、「造形的な才能がない」のあとに続いて、固有名として忍者マンガの『伊賀の影丸』やダリの『素粒子の聖母』を例示しつつ「松井さんのイメージ」を主人公目線で説明しようと試みるあたり、若き保坂さんの旺盛なサービス精神も感じられ心がポカポカしてよろしい。


「じゃあ松井さん、魂を認めるわけ?」
「言葉の定義の問題だよ。
 魂なんかないよ。精神とか心だって、たんに個体という物理的な囲い込みの産物なんだとしか思ってないんだから。まして魂なんかどこにもないよ」
「また出た」
 と、美紗ちゃんが言った。
 松井さんのこの、「精神はたんに個体という囲い込みの産物」だという考えは今はじめて聞いた考えではないが、美紗ちゃんにはどうもぴんと来ていない。じゃあ僕の方はわかっているのかと言えば、精神とか魂というもの自体に熱が入らないから、わかっていないこともないとしてもわかり方がどうもいい加減なのだが、ところで松井さんはつづけた。 129-130



 たとえば十代後半の小映くんが書店で『小説の自由』や『未明の闘争』を手にとったとして、買ったろうか。怪しい。『プレーンソング』は衝撃だった。どこまで読んでも何も起こらないけれど読み進めてしまうことをマジカルに感覚し、母親にさえ薦めたのを覚えている。でも今読むと、「また出た」の技巧性や、「ぴんと来ない美紗ちゃん」の配置による主人公造形の明瞭化など意図と狙いが浮き上がって見えてしまい、「驚く」。


「――つまり、俺のような人間はいつの時代にもいるんだ」
 というのが、松井さんのリアリティだった。
「一つ一つの個体に囲い込まれたものが、言語の体系に乗っかったのが人間なんだから、縄文なら縄文、平安なら平安なりの俺がいたんだよ。
 だから、二十三世紀にも俺みたいな人間がいて、二十三世紀なりの俺が 『二十世紀なんかに生きてたら人生の密度が薄かっただろうな』って考えてんだよ」
 と言った。
「それを言われちゃうと、あたしにはやっぱり、魂の生まれかわりとの違いがわからない――」
 と、美紗ちゃんが笑って僕を見ると、松井さんは、
「だからそれが、自分をどこまで特別だと思うかの違いになるんだよ」
 息子はまた昼間と同じように座布団から撥ね飛ばされて両手両足をばたばたさせていて、松井さんが「なんだァ?」と指をさすから僕は「仰向けの亀なんだ」と言った。松井さんもしばらくあきれて笑いながら息子を見ていて、それから、
「親子を考えるとわかりやすいじゃないか」
「親子っていう関係は、子どもの側から見ると親が取り替え可能とは思いにくいけど、親の側から見ると全然違うもんだろ?
 はじめはどんな子だか全然はっきりしていないものがだんだんはっきりしてきて、それにつれて『これが俺の子』だと思うようになるんだけど、性格もからだつきも全然違う子どもが生まれてたとしてもやっぱり『これが俺の子』だと思うようにできてるんだよ。
『かけがえがない』とか『取り替えがきかない』っていう気持ちはつき合ってる過程で生まれ育つものなんだよ」
 松井さんのこの話は僕にも美紗ちゃんにも珍しくよくわかって、僕が、
「それはそうだ」
 と言うのに合わせて、美紗ちゃんも「うん」と頷いた。そして僕の息子の圭太は、まだ仰向けの亀のままで両手両足をばたばたさせているのだった。 134-5


 ちなみに東浩紀『存在論的、郵便的』は1998年で、大江健三郎『取り替え子』は2000年。
 Kさんが東浩紀との共振に触れていたけれど、世紀末の時代の空気とも不可分の日本語文脈を共有するがゆえの共時性、のような水準であればきっと多面的に起こり得たし、発見し得るのでしょうね。(この箇所は本項初出がDiscord上の交信であることによる)
 母には村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』も薦めたというか貸したけれど、保坂和志も含めその後「若いころ読んだ大江健三郎のほうがわかりやすい」と言われたことにも衝撃を受けたものである。




5. 村上春樹 『遠い太鼓』 講談社文庫 [再読]

 しかたないので、僕は門のわきの石の上に腰をおろし、目を閉じて耳を澄ませてみる。しんとした静寂の中にも、少しは世界の物音を聞き取ることができる。小さな物音の集積である。まず例の羊たちの首についた鉄の。それから牛の鳴き声これはどうも修道院の中で飼われているらしい。遠くの方でモベッドのクラクションも聞こえる。どこかの教会が鐘を打ち鳴らしている。東方教会はときどきとても不思議な時刻にとても奇妙な鳴らしかたで鐘を鳴らす。犬が何かに吠えかかっている。誰かが猟銃を撃った。一時半のフェリーが入港の汽笛を鳴らす。そして僕は自分が異国にいることにあらためて気づき、自分が異質な人々の営みに取り囲まれていることを知る。 僕は外国を訪れたとき、音によって最も鋭くその異国性を認識することがよくある。視覚や味覚や嗅覚や皮膚感覚や、そういう他の感覚がたどりつけない何かがそこにはあるような気がする。何処かに座って僕自身の体を静かに鎮めて、耳の中にまわりの音を吸い込ませる。すると彼らの あるいは僕自身の異国性が柔らかな泡のようにふうっと浮かびあがってくるのだ。 87-8


 自身が頻繁に海外へ出かけだした頃に読み、軽い筆致ながら言い知れない重い衝撃を受けたのを、ぼんやり覚えている。無意識ながらに、旅行時におけるある種の規範のようなものを育んでくれた読書体験だったかも、とさえ今は思える。ギリシャに住み、テオ・アンゲロプロスの字幕を担当していたという池澤夏樹に高校生時にハマり、そのあとに『遠い太鼓』が来て、なかなか一緒に旅行してくれない女の子を何年も待ってようやく行ったのがティーラ島やクレタ島だった。たしかに住んだら快適に静かな時間を過ごせそうな落ち着きはあった。


 運転手が何処かの小さな村で知り合いにワインを一本もらったところから騒動は始まる。運転手はその村でバスを止めて車掌と一緒に誰かの家に入り、十分ばかり出てこなかった。我々はそのあいだバスの中で運転手と車掌が戻ってくるのをじっと待っていた。運転手は一升瓶くらいの大きさの瓶をさげて戻ってきた。すごく不吉な予感がしたのだが、案の定それは地造りのワインであった。次の村で運転手はまたバスを止めた。今度は車掌が下りてチーズを作っている家に入り、バレーボールくらいの大きさのある丸いチーズを買ってきた。そのようにしてバスの酒盛りは始まった。
 一番前に座っていたギリシャ人のおばさんが「あんた、あんたが飲んでるのワインだろう」と 運転手に向かってとがめるように言った。「水だよ、水」と運転手は笑って誤魔化していたが、そのうちに「ばあさんも飲みなよ」といってグラスにワインを入れ、チーズを切っておばさんに差し出した。そしていつの間にか我々乗客を含めたバスの中の全員が前に集まってワインを飲み、チーズを食べているということになってしまった。車掌はほろ酔い加減で、鹿の皮でも剥げ そうな鋭いナイフを使ってチーズを切ってみんなに配るのだが、バスが揺れるとナイフの刃先が一番前の席に座った英国人の老夫婦の鼻先を行ったり来たりするので、彼らは肩を寄せあい、こわばった笑顔に浮かべつつ冷汗を流している。運転手はもう路面なんか殆ど見てもいない。 297



 この崖っぷちバス宴会のくだりや、田舎町の場末の映画館で奥様の好きなブルース・リーを観たエピソードなどまことに楽しい。かと思えば、あとがきにおける日本社会風刺など、SNS社会の今日のことかと思っちゃうけど、だからこのあきらかに累乗的な「加速度感」はしかし、それ以上の慣性により馴致されているということなのか。不気味なものがある。


 ただひとつ僕にはっきりと言えることは、この三年のあいだに日本の社会における消費のスピードが信じられないくらいドラスティックに加速されたということだ。久し振りに日本に戻ってきてまず最初に感じたのがそれだった。僕はその凄まじい加速度を目にして本当に、何の誇張もなくただ唖然としてしまったのだ。思わず立ちすくんでしまったのだ。それは僕には巨大な収奪機械を想起させた。生命あるもの・ないもの、名前を持つもの・持たぬもの、かたちのあるものないものそういうすべての物事や事象をかたはしから飲み込み、無差別に咀嚼し、排泄物として吐き出していく巨大な吸収装置だ。それを支えているのはビッグブラザーとしてのマス・メディアだ。まわりを見回して目につくものは、咀嚼され終えたものの悲惨な残骸であり、今まさに明されようとするものの嬌声であった。そう、それが僕の国なのだ。好むと好まざるとにかかわらず。 559-560


 文章/小説をめぐる3パート。


 僕は最初のうちは日記をつけるのと同じように、何があっても一定のペースを維持して、こういうスケッチを週に一本は書き続けようと計画していたのだが、なかなかそううまくはいかなかった。長編小説を書いている時期には、小説以外の文章を書く余裕がなかったからである。そういうわけで、ところどころに何ヵ月もの完全な空白が生じている。具体的に言うと、そこで小説を書いていたミコノスとシシリーに関してはほとんど何も書かなかった。簡単な日誌だけはつけていたので、あとから記憶をたどって書くことはできたのだが、厳密にはリアルタイムの記述ではないし、また量も少ない。そういう意味あいにおいても、本書を旅行記と呼ぶことはむずかしいだろうと思う。
 ここに収められた文章は、原則的にはただのスケッチの集積だ。あるいはそのひとつひとつの断片にはたいして意味はないかもしれない。しかし、読者のみなさんに理解していただきたいのだが、僕にとってはその継続そのものの中に、これらの文章を途切れ途切れではあるにせよ書きつづけるという行為そのものの中に、意味があった。流離うヨーロッパの僕は、これらの日本語の文章を仲介として、流離わない日本の僕と心を通じあわせていたのだ。
 そのようにして、僕は自分を維持しつづけるために文章を書きつづける常駐的旅行者であった。 23-4

 毎日小説を書き続けるのは辛かった。ときどき自分の骨を削り、筋肉を食いつぶしているような気さえした(それほど大層な小説ではないじゃないかとおっしゃるかもしれない。でも書く方にしてみればそれが実感なのだ)。それでも書かないでいるのはもっと辛かった。文章を書くことは難しい。でも、文章の方は書かれることを求めている。そういうときにいちばん大事なものは集中力である。その世界に自分を放り込むための集中力、そしてその集中力をできるだけ長く持続させる力である。そうすれば、ある時点でその辛さはふっと克服できる。それから自分を信じること。自分にはこれをきちんと完成させる力があるんだと信じること。
 毎日毎日、頭が慢性的にぼんやりとしていた。ふと気がつくとときどき頭に血がのぼったようになっていて、意識がふらふらした。脳味噌がスチームをかけられたみたいにふやけていた。それは小説を書くことに頭が集中していたせいもあった。あまり集中しすぎると、頭が酸欠みたいな感じになることがある。でもそれだけではない。パレルモの冬はいささか温かすぎた。 209-210

 文章を書くというのはとてもいいことだ。少なくとも僕にとってはとてもいいことだ。最初にあった自分の考え方から何かを「削除」し、そこに何かを「挿入」し、「複写」し、「移動」し、「更新して保存する」ことができる。そういうことを何度も続けていくと、自分という人間の思考やあるいは存在そのものがいかに一時的なものであり、過渡的なものであるかということがよくわかる。そしてこのようにして出来上がった書物でさえやはり過渡的で一時的なものなのだ。不完全という意味ではない。もちろん不完全かもしれないけれど、僕が過渡的で一時的であるというのはそういうことを意味しているわけではない。
 僕には今でもときどき遠い太鼓の音が聞こえる。 静かな午後に耳を澄ませると、その響きを耳の奥に感じることがある。無性にまた旅に出たくなることもある。でも僕はふとこういう風にも思う。今ここにいる過渡的で一時的な僕そのものが、僕の営みそのものが、要するに旅という行為なのではないか、と。
 そして僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。

 本書の題名は冒頭に書いたようにトルコの古謡から取った。 563-4





6. 阿部和重 『ピストルズ』下 講談社文庫

 風景が浮かんでくるの、すごいなとおもう。イマジナリーな田舎町じゃなく、雑然として窮屈でガチャガチャして健全な感性とか麻痺させないと一日でもいられないような現代日本のどこにでもある湿ったコンクリートの臭いというか。が、たちのぼってくる。
 
 若木山から本物の霊石を掘りだせたならば、若木大権現の由緒がただちに立証されるとともに、菖蒲一族史の裏打ちにもなるこれが祖父のもくろみだったにちがいないと父は見ていたのです。そうすれば、嘘がまことに反転して虚構が史実になり変わり、伝統をめぐる物語の穴埋めがついに完了するはずだったというのです。
 しかしこれは父の、いつもながらの恨みがましい悪推量でもありますゆえ、いくらか割り引いて参考にしなくてはなりませんけれどもご神体発掘の事業が家伝継承者の任務ではなく、祖父自身の発案だったとする見立てにかぎりましては信憑性が高いような気がいたします。
 だいぶん前にも触れました通り、痘瘡守護神としての若木神社は長きにわたり大変に栄え、全国津々浦々より大勢の人々が参詣に立ちよっていたのだと言われています。
 それが江戸後期より、種が国中に普及しはじめたのを境に、若木神社はその役目をいったんは終えることとなりました。
 明治期に入ってからの、種法の施行による天然痘予防対策の確立は、よろこばしい幕引きのきっかけと申しあげられます。
 けれども同時代における、廃仏毀釈の荒波に見まわれた中での別当寺本堂のよそのお寺への売却と移転、さらには 325


 いや上巻のメモでも書いた通り、同じ舞台でも『シンセミア』『グランド・フィナーレ』とはガラリと転調した《民俗ファンタジー少女成長譚》の趣きが大変香ばしく読み進めていると、両作の登場人物と設定がガンガン入り込み阿部和重ユニバースの渦に巻き込まれ、気づけばシャマランひとりMCU張りの同一平面展開が成立しておりたいへん愉快なりけり。で、

 「嘘がまことに反転して虚構が史実になり変わり、伝統をめぐる物語の穴埋めがついに完了する」

 を、孫がね。とはいえ孫っすからね。って感じでさ。閉じ方も良いし、ってまだ先もあるわけで。ほんと大したものです作家の想像力たるや。




7. 森鷗外 『阿部一族 他二編』 岩波文庫

 細川忠利家臣団で殉死を許されなかったが腹を切った阿部家当主をめぐるタイトル作と、赤松家滅亡から細川三代へ仕えた「興津弥五右衛門の遺書」、家康配下から逐電した「佐橋甚五郎」の三作。まぁ明治のわずか一個前の時代の死生観が隔絶しててヤバい感じが通底していて、斎藤茂吉の解説はうち「興津」を乃木希典の殉死を受けた作品と読んでいて、かつ「興津」が鷗外の歴史小説第一作で、次が「阿部一族」というのは面白い。つまり歴史小説を書く動機自体が、日本人の死生観の由来描写を主な要素としたことになる。そういうことはありそうだし、文章が「候」体なのもそうであれば頷ける。さらには連続する文末表現「候」へ「そろ」とルビ打たれてるのがほのかにかわゆい。たまに読むのも悪くない。




8. 林恭平 『姉参り・イン・ニューヨーク』 自主制作

 22歳で病逝した歌劇志望の実姉が、18歳時に敢行したブロードウェイ観劇の足跡を、弟である30代半ばのゲイ青年がたどる。コロナ禍後で格安航空券が未復調のまま円安進行する中でタイミングを迷う。初NY渡航へ向けた戸惑いが、姉への見つめ直しにもなる2024年1月から7月までの日記と、7月末から8月初旬の旅行記本番を主な構成とする。

 著者とはすでに2年近く、言語表現をめぐる学びと実践を共にしてきた仲間の間柄であり、この冊子作成の話も以前から聞かされていたけれど、読んで驚いたのは当のお姉さまの米国渡航が2004年であったことだ。実はぼく自身が、本場ブロードウェイ初体験の衝撃を受けたのも同じ2004年なのでした。当時は藝大の学部生で、財団や文化基金や文化庁から助成を貰っては海外渡航をくり返していたのだけど(学部生身分で助成プレゼンする奴は当時レアで競争相手がおらず、藝大は唯一の国立芸術専科大学だからガチ敵なしだった)、NYでは舞台関連の人たちと一緒だったから幾度かブロードウェイも観た。ゆえにお姉さんと同じ劇場で同じ作品を観ている可能性もゼロではなく、同じ回のすぐ近くの観客席にいたかもしれない。落とし物を拾って渡したり渡されたりさえしたのかも。あ、日本人ですか、どうも。お一人ですか、ほぅ、なんて挨拶したかも。覚えてないけど。

 タイトルからして慰霊のニュアンスも想像もされる体裁だけれど書き口は軽快で、人物も食べ物も描写が即物的で明るく読みやすい。そも20年の間隙ゆえに湿度100%はないとしても、この軽さに引っ張られページをめくりつづける読み味は心地よい。これまで読んだ林作品はショートエッセイが主で本作が最長の部類になるけれど、だから一切ダレや飽きはなく読み通せた。
 前半、半年にわたる旅行準備パートでは、軸の一つとなる同人誌作成でお互いに中心面子だったこともあり、当日の情景が思い浮かぶ記述も多く、そんなことを考えていたんだねぇと驚きも少々。もちろんこれはこれで一個の流れもつ表現物ゆえの操作が潜むことも前提で読んだけれど、同時並行で他の批評冊子企画も進めているあたり、自身が『第三批評』の名を着想したのは2024年1月だからこれまたダブって感慨深い。とはいえ林さんが取り組んだのは別の批評誌で、断られる予感しかしない流れゆえ勧誘を諦めた呑み機会が6月にあったりもした。(その日のことは作中に登場せず)

 旅行に関してぼくは恐らく林さんよりお姉さんに感覚が近く、十代には一人で海外へ出かけ始めていたこともあり、旅行手続き面で確実に安全牌を揃えていく林さんの用意周到ぶりは新鮮だった。お姉さんはきっと真逆で、たぶん宿の予約すら採らずに行ったんじゃないかな。十代のバイタリティならそのほうがより良い宿に安くありつけるから、など思いながら読み進むと、合間合間に理系開発研究職の職場での苦労とか、ゲイとして日本社会を暮らすことの今日性吐露などが紛れ込み、逐一が興味深い。
 2024年2月頃には冊子作成の過程で一度、林さんとタイマンでセクシュアリティをめぐり数時間話し込む機会があった。種々の蒙を啓かれる大変貴重な体験となったそんな記憶も呼び起こされた。

 過去に読んだ林作品のなかで本作に文章量が並ぶものに、上記同人誌収録の小説作品がある。こちらは自伝的要素が強く、しかも終盤で新しい命の誕生を寿ぐ方角へ向かう点、意図的かはともかく『姉参り in NY』とは鮮やかな対照性を描いている。しかし小説作に比べこちらのほうが単体の読み物としてのまとまりと安定感に優れ、書き手の得意領域がスパークしてる感は色濃い。本作に具わるうねりの一貫性、実現されている抑揚の好塩梅などを応用できれば、小説もずっと良くなる予感がする。

 2004年の拙NY滞在は、邦楽科の女友達が主演となり、作曲科卒の子がジュリアード音楽院の修了制作として曲をつけるブロンクスでのスタジオ公演を手伝う名目で、なぜか懇意にしてくれた欧州系文化財団から旅費が下りた渡航であった。ウィリアムズバーグ橋を見上げる古い元倉庫ビル上階での準備の合間に、今では各流派の師範になっている日舞や狂言の舞手たちとブロードウェイに足を運んで感嘆し、オフ・ブロードウェイに驚愕し、オフ・オフ・ブロードウェイに湧き立ったあと夜更けまでマンハッタンの中華や韓国料理店で粘って二十代の若さを炸裂させる珠玉の日々だった。その旅上だけの淡い恋愛も味わった。時間を読み誤り、みなで地下鉄駅を上がってドタドタと駆け込んだ観客席で、うちら全員と膝をこすり合わせて迷惑をかけたかもしれない18歳女性の帰りを日本で待っていた少年、いまや30代へと立派に成長した弟くんと20年後に渋谷で膝つき合わせ、いま一緒に文章を練るなどしているのだからこの宇宙は、あいかわらず神秘に満ちている。




9. 坂口恭平 『生きのびるための事務』 マガジンハウス

 作家になりたいなんて口走るのではなく、毎朝5時に起きて9時まで書き続けたいと言えばいいんです。
 「何を書くか」に悩まずただ書くを実践するってことね、それならできる。それができていたら100点満点を自分にあげましょう。

 《事務》はわからないものを明らかにするのではなく、わからないまま仕事を延々と継続するためにあるのです。
 全ての自由な人間は「冒険」を恐れず楽しみます。そして「冒険」があるところに《事務》があるはずです。



 「未来の現実をノートに書く」それ自体はありがちにも感じられる発想が、「10年後の1日を円グラフに書く」へ帰結する楽しくも坂口恭平らしい即物性。


 無意識でも枯れると思ったら枯れてしまいます。だから無意識をコントロールする必要があります。
 無意識ってコントロールできるの?できません。だから意識を総動員して無意識へ働きかける必要があります。

 つまり全ての行動を言葉や数字へ置き換えるってことです。
 《事務》とは「行動を言葉や数字へ置き換えること」とも言えます。





10. 仲俣暁生 『もなかと羊羹』 自主制作

 「軽出版」という本書のテーマそれ自体が、仲俣発とされている。すでに珍しくもない個人の出版社よりは身軽で、しかし同人誌サークルよりは持続性へ振った活動というニュアンスの。
 文学フリマやZineフェスを歩くと、セルフ出版系というか個人制作そのものをテーマ化した自主制作冊子はジャンル化していると言えるほどよく見かけるし、つまりは相対的にかなり売れているようでもあるけれど、本書がそれら多くと一線を画すのは、著者が雑誌黄金期を知るど真ん中のひとである点だ。ゆえに下世代、文フリなどでメイン層とおぼしき30代前後とは肌感覚の水準でいろいろ違う視点から為される記述が興味深い。

 それで本書には、仲俣初読となった2002年刊『ポスト・ムラカミの日本文学』のことも書かれていて、あまり売れなかったとあって驚く。佐藤可士和デザインで、今みてもあり得ないレベルで圧倒的にカッコ良い。だいたいからして、佐藤可士和がブックデザインを担当する時代感よよ。そしてのち別の判型&デザインで仲俣自身により『ポスト・ムラカミの日本文学』は復刊されているのだけど、こちらはどうにも平凡で要はダサい。そしてダサくないと売れないという判断が働いているとしても、やむを得ないと自身も頷いてしまう空気がたしかにある。カッコ良いものを書いたがらない読者というのも、なんだか妙なものだけど。




▽コミック・絵本

α. 鶴田謙二 『鶴田謙二作品集』 壱 自主制作

 学生サークル時からの初期作集。快賊船シリーズなど、のち描き直されるテーマの萌芽がそこかしこに見られ面白い。絵柄もかなり変わっていて、味わいのある描線で下手ではないけど、正直いって定型的な顔パターンの種類が少なすぎて、人物の見分けができず話の理解に難が生じる。

 庵野秀明の序文が、いかにも古い仲という感じで、そういえばこの絵柄、この顔はオネアミスの翼に通じてないか、あれもしや関わってたのかとググるもそこは違うらしい。時代感、から出てくる顔つき、描線、というニュアンスで似たものを感覚するということかな。

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β. 東村アキコ 『かくかくしかじか』 3 集英社

 個人的にも馴染みあるカットにあふれる金沢美大パートは思いのほか足早に過ぎ去り、九州実家舞い戻り編へ。ちょっと限界まで時系列錯綜させてる気もして、だから後続巻で金沢パートも細切れにはよみがえりそうではある。
 プロの漫画家になった後輩とかも一緒に時系列超越するものだからなかなか目まぐるしくもあるのだけど、だんだん今に近づいて漫画家要素が濃くなるのはいい。あと作者の作品についてはいつも辛口の美大受験生仲間から、熱血先生描写に関してガラケーメールでふいに届く「泣いてもーたがな」はズルい。溜めが一気にダム放出される感。

 ともあれどなたか、金沢美大舞台のはちクロみたいの、描いてください。シネモンドとかホットスポットになるんだろうな。

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(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)

γ. 野田サトル 『ゴールデンカムイ』 10-15 集英社

 アリシパさんの父親がどんどん神格化されてく感、しかし無反応な本人というギャップ。リアルで肉剥いで鍋の連なりみるとゴーデンカムイ思いだすひと多いだろうなってくらいくり返される、野生の料理漫画の観もあるよね。

 「稲妻強盗と蝮のお銀」、実在の強盗夫妻らしく、「ボニー&クライドより数十年前に」って作者解説されてたりして、艷事含めなかなかアツいカットの多い良エピソード。
 
 網走監獄編、ざ・冒険漫画していて魅せる。ここぞってタイミングでの雷型駆逐艦、網走川遡行痺れるわ。
 樺太編。樺太アイヌと北海道アイヌの違いとか、いいぞ良すぎるもっとやれ。この展開は予想してなかったなー。




δ. 芥見下々 『呪術廻戦』 13-16 集英社

 渋谷事変佳境。そこまでの数話をかけた戦闘で一方の主役だったキャラが逝った瞬間/直後の描写が地味にキマってるなと。定型的にして鮮烈、歌舞伎でいう見得みたいな。とみると、必殺技をくり出す瞬間でなく、死の瞬間である点に何かしら表現性の際が刻まれているのでは。

 渋谷事変後。禪院家騒動とか天元の造形とか色々面白いし、乙骨がすっかり精神安定した好青年になっちゃってるのとか虎杖が脹相の弟と認めてみせるのとか、成長物語っぽくて甘酸っぱい。




ε. 今井大輔 『恋と地獄』 1 双葉社

 クズ男に捨てられた女、不倫された女の痛快復讐譚。という怨念系の筋立て自体はTwitterのマンガが読めるタグでもありがちなやつだけど、これ作者が男(たぶん)だからなのかな、描き手と語り手がきっちり乖離していて表現の精度が高くコンセプチュアルにスタイリッシュ。カタカナ並べりゃいいってもんじゃないにしても、全体のムードがそんな感じなんだよね。

 ただせっかく絵も巧いのに、物語へ従属し切ってる感じが惜しい。ドラマ化でも欲望してるならそれでもいいけど、漫画としてはやっぱ惜しい。





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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