pherim㌠

<< 2025年5月 >>

123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2025年
05月26日
23:52

よみめも102 はにかみメルヘン side-B

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
  Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV




1. 石牟礼道子 『はにかみの国』 石風社

川祭り  

ひぐれにあかいせせらぎで
どしゃ蟹の鋏よりも怒ったゆびのふしがいう
つもりにつもるばかりの親のかたきは
へっついの灰かき集めてなすくりなすくり
磨けどおしまいになるということのない鍋の煤

むじょうにつめたく優しい冬の水よ
おととい生れの赤子のおむつがうつらうつら
米のとぎ汁にゆられてきても
なあに 三寸流れりゃ清の水
高菜漬の胡椒もさっぱりふり濯ぐ

おはまさんの後家おどりがはじまる夜なか
板の間が鳴り 地がひびき
遠い水脈が殖える
しらあえと どぶろくたっぷり供えたか
川の神様はひゅんひゅん鳴いて
ほら今 彼岸の上げ潮に
はいってゆきおらす

宇宙世紀 はじまる
にっぽん ひご みなまた
ここはわたしの〈とんとん村〉



 石牟礼道子の詩がいいんだ、という話を大船での物書き同人呑みにて聞かされて読む。んむ。

  『椿の海の記』(よみめも43 落ちよるときの夢)
   https://tokinoma.pne.jp/diary/2889
  『苦海浄土 わが水俣病』(よみめも67 唐草戦記)
   https://tokinoma.pne.jp/diary/4324


 個人史としては、まず詩を書き出し、のち散文へと移行したらしい。移行の理由が、「詩よりも伝わる」だったというのは興味深い。伝聞情報なので未詳ながら、そのあたり何を感じ考えていたのかとても気になる。

 知名度としては『苦海浄土』のひとだけれど、個人的には『椿の海の記』が飛びっきりに良く、一行一行に引きずられ最後まで連れていかれるその膂力たるや空前絶後の衝撃を受けたものだけれど、石牟礼詩にはその兆しが感覚される。先が読めないけれど、読んでしまうと鮮やかにその瞬間ごと宇宙が確定されゆく感じというか。


未明

母たちの生霊がたちこめる納屋の
たきぎと斧の祈祷所を出て
神がかりにもなれない
父や夫たちのため
にわとり草の
日なたくさい味噌汁を炊こう

まひるの底に
石の愛が
すっぽり抜け落ちる

深海よりも濃い魂はどこよと探しているうち
えいに刺されてしまったから
しばらく死んでいたんだけれど
もとの浮き世に苦もなく生きかえり
もやもたたない波うちぎわだと思ったら
みおぼえのある村だった

木立の闇が青くひかる
青年小屋で酔っぱらった螢たちが飛び交う
たにしの小川もねむれない
いつかじぶんが飛んでゆくために
わたしは窓など閉めないでいて

未明の樹々の影を
そこからむしりとってきて
ふるえない髪を
じゃりじゃり
こすりつけていると
樹の香のかおりの中で
夜があけてくる



 森崎和江も再刊され最近注目されてるっぽいけれど、この流れは時間をかけて追いかけたいな。高浜寛まで含めた環有明宇宙として。

   拙稿「水俣に命ながれる 『MINAMATA―ミナマタ―』」
  http://www.kirishin.com/2021/09/23/50829/



 柳川再訪したいなぁ。しばらく先になってしまいそうだけど。韓半島とも琉球列島とも水底で響き合う風土の分厚さ、滋味深さ。
 以下は抜粋。他人の目に触れる場へ出すことにはいつも若干の躊躇もあるのだけれど、あくまでトリガーメモとして。個別の詩作に対し褒められた行為でないのは承知のうえ。


さいわいそのとき
物語りの夕日が
迦陵頻伽の
雅楽のようにやって来て
しろい馬のたてがみを染めた

銀杏舞い散る彼方のにぎわい

ながい残照の裳を借りて
わたしは崖のうえからひじをつき
沈んでしまったお日さまを見送った

(「少年」77)


たがいのあくびのたびに変幻しあい
這いずるためだけに肥大した
蛭の中にわたしは這入りこむ

(「死民たちの春」92)


暮らし向きなどかまってなんかいられない 八千万億那由陀劫とおっしゃったお釈迦さま いやいやそんな尊い方でなくとも何億光年とやらをはじき出したヒトもいて その上われらの賢治は書き残しておいて下さいました
「かがやく宇宙の微塵になって散らばろう」
魂天文学の完成です
かの海底の目のない魚を一匹連れ 半分めくらのわたしがゆく
五月 エントロピレーヌ神殿へ

(「エントロピレーヌ神殿へ」115)



 エントロピレーヌ神殿。




2. 佐々木敦 『「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代』 筑摩書房
  https://x.com/pherim/status/1905565835651154122
 

“Thatness And Thereness” 1986

Slow-motion repeat of breaking glass
Fear creeping up from behind
A slide into corruption
A train of thought stops all along the way
From start to goal
Easy to understand
Thatness, thereness
A grid of time in view

Deep blue metal
Undulating rise and fall
We're hiding ourselves
Don't want to see ourselves
But still desire persists for self-injury
Through exposure to reality
Thatness, thereness
A deep blue rush in time

Slow-motion repeat of breaking glass
Fear creeping up from behind
A slide into corruption
A train of thought stops all along the way
From start to goal
Easy to understand
Thatness, thereness
A grid of time in view



 子どもの頃から聴いていた坂本龍一の曲のなかでも、ひときわダルくぬるい泥の中でまどろむムードをまとっていたこの曲が、歌詞が意味孕む意義さえ不要に感じられるほどすべてが溶けだす曲想ゆえに、まさか機動隊の突入を描くなんて想いもよらず、曲を聴きだしてから三十年越しにしこたま驚く。





  Deep blue metal
  Undulating rise and fall
  We're hiding ourselves
  Don't want to see ourselves


 濃紺の金属ヘルメットが群となって踊り入る騒乱の下、その視点はスローモーションとなり音をなくし、内向して魂の叫びを聴く。ひび割れたリアルへ浸透する青き秩序、時の流れを枠づける青き恐怖がガラスを割る、崩落する、ちりぢりになって遡行する、わたしは考えるのをやめる。


 坂本龍一も例外ではなかった。のちに彼は「音楽活動」と「社会運動」は別々の営み/試みだとする態度を意識的に取るようになるが、二つは根元の部分では一体だったのだと私は思う。むしろだからこそ、両者は表向きは切り分けられなければならなかったのだ。音楽を運動の道具にはしない、運動を音楽の燃料にはしない、或る時期以降の彼が身に纏うようになった、そのような態度は、坂本龍一という存在の(他人の目には矛盾にも映りかねない)二重性を表している。それはまた、彼の「無名性」への志向ともかかわっているだろう。それだけではない。このことはおそらく「坂本龍一にとって音楽とは何だったのか?」という、より本質的な問いとも深く関係している。 53


 音楽と社会運動、藝大修了とフーコー。


 当時、坂本龍一は大学院に進んでいたが、雇われミュージシャンとしてあちこちの「現場」に出向く忙しい日々を送っていた。「分散・境界・砂」という曲名からして学部生時代とは一変しており、作風も大きく変化している。このタイトルは、ミシェル・フーコーへのオマージュである。「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。(…)賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと」という名高い掉尾の言葉を持つ『言葉と物』(渡辺一民、佐々木明訳) の日本語訳は一九七四年に出版されていた。「分散・境界・砂」は、ピアノの内部奏法を多用し、ピアニスト自身によるテクストの朗読が交錯する前衛的な作品である。楽譜に書かれてあると思しきテクストの一部を以下、引用してみる。

  作品が虚構の時間だとすれば、時間を表す言葉のさまざまなずれ
  時代背景は明確に提示されていながらも、数量化する時間の符牒が比較的少ないのでああいったい時間は どうなってるんだろう?
   (…)
  私がここでこうしてピアノを弾いてるということは、どう成立しているのだろう?
   (…)
  作者とは誰?
62-3


 坂本龍一のもたらすカタルシスには、肉体的浄化というより肉体的困惑とでも表すべき色あいが強い。それは体の中のこりを抜くのではなく、どちらかというとそれをへんな角度にユリゲラー風にねじ曲げてしまうのだ。そういう意味あいでは、坂本龍一の作りだす左きき音楽は、方向性としてアグレッシヴであると僕は思う。変な言い方だけど、僕は彼の音楽を妖術あわせ鏡といったかんじに捉えている。存在を賭したまやかし――というと言葉が少しきつすぎるかもしれない。でも僕はそういう種類のねじまげられた肉体的反応にとても強くひかれるのである。

 このとき村上春樹は、長編小説としては第三作『羊をめぐる冒険』(一九八二年)までしか発表しておらず、最初の短編集「中国行きのスロウ・ボート』(一九八三年)が出てまもなかった頃だが、さすがに切れ味鋭い、ユニークな村上春樹論である。 233-4



 教授観察 by 村上春樹、160万枚売れたエナジー・フロー。


「五分ぐらいで作ったのにすごく売れてしまった」と、自慢する風でもなく、こともなげに、ほんとうに不思議そうに語っていた。実は「戦メリ」の時もそうだったのだと話してくれた。『Sweet Revenge』 と 『Smoochy』で、あれほど 「(J) ポップ」にフォーカスしようとしても受け入れられなかったのに、YMO以来、ソロとしては初のオリコン一位をもたらしたのは、純然たるピアノ曲だったのである。「ぼくがポップにと思 って作るポップスっていうのは、全然ポップじゃない」(同前)のだと、いよいよ彼は認めざるを得なかった。
 このことを坂本龍一はたびたび語っている。多くの人を感動させる美しいメロディは、特に苦労することなく書けてしまうのだと。だから、それが高く評価されることに戸惑いや違和感を抱くことがあると。「ほとんど、気がついたら目の前にあるという感じ。その曲が好きなのかどうかさえ、自分ではよくわかりません」(同前)。それこそが、彼が「天才」であることの証明なのだといえば、それはそうに違いない。だが、ここには坂本龍一という音楽家を、いや、坂本龍一という人間を理解するための鍵がある。 367






 坂本龍一がYMO時代にあたる1985年にソロで出した曲“Steppin' into Asia”のタイ語ラップをめぐり、佐々木敦さんをお招きした第三批評スペースですこし話した。

  第三批評スペース with 佐々木敦(録音)後半部:
  https://x.com/critic3rd/status/1912468483599933861


 母が本棚に保存していたカセットテープ版アルバムを聴き馴染んだことに端を発する、坂本龍一から細野晴臣への接続は、やがて思春期以降のアンビエントやワールドミュージックという、クラスメイトとは一切共有し得ない音楽受容の嗜好へと発展した。矢野顕子がサビを歌う“Steppin' into Asia”は、出逢ったその初めから歌としてではなく曲、曲としてよりも音として耳に馴染んだために、まぎれ込む異国語ラップもなにかテンポのよい楽しげな音の連なりとして心に刷り込まれていた。
 それから三十有余年、怒涛のバンコク暮らしも唐突に終わったコロナ禍中のあるタイミングで、あの楽しげな音の連なりが、唐突に意味を纏って響きだしたのである。

 本書p.261に、“Steppin' into Asia”の詳細な制作背景が登場する。それによれば当時学生だった浅野智子というシンガーが、NHK-FMの番組「坂本龍一のサウンドストリート」へ坂本『音楽図鑑』収録曲“Tibetan Dance”のヒンディー語版を送ったことが縁での抜擢となったらしく、「浅野智子はタイ語に堪能なわけではなかったようで」と記述がある。

 実際、日常生活下のごく基礎的なレベルにしろタイ語で用を足す数年間を経た耳には、その音はカタカナ英語ならぬカタカナタイ語で、一般のタイ人には理解不能な水準の、大人になってからタイ語を学んだ経験のある日本人だけがかろうじて「タイ語のつもりだ」と推量できるものとわかる。ある程度タイ語ができるようになると、ラオ語やクメール語の会話も多くの語彙が共通するため部分的に意味が飛び込んでくるようになるのだけれど、実用タイ語からの距離としてはその感じに近い。声調が終始滅茶苦茶なので、タイ人には不思議などこかの外国語にしか聴こえない。

 それで過去ツイを発掘していたら、タイ移住が決まりバンコクへ下見へ出かけていた2013年冬頃に、なんとFFのかたと“Steppin' into Asia”のタイ語ラップをめぐって交信していた(交信ツリー→ https://x.com/pherim/status/298924101312057347 )。この交信は記憶の中でもっと後年のことだったので、移住前なのはすこし驚く。インターネット前夜の十代、好きな曲に抱いた謎が、何年もあとになって不意に解けるということはよく起きた。何でもググれば出てくる時代を経た、AIに相談すれば専門的な研究論文まで一気にアクセスしてしまう今日の感性からすれば、おそらく意味不明の忍耐を強いられる事態だろう。
 ところが案外、これがいいんだよね。さすがに四半世紀超えスパンとなると、ほかに例が思い浮かばないけれど。

 あたりまえに“いる”“ある”存在だったから、教授の生涯も曲の制作背景も考えたことがなかった。

 
あらゆる音が数で(も)あるのならば、自然音、環境音だって同じなのだから。すべての音を平等に扱うこと。これはジョン・ケージ的な思想だと言えるだろう。人間がある種の音の連なりと重なりを「音楽」として認知するのは、ヒトの聴覚的な特性――人間の可聴域はおおよそ 20 Hz(ヘルツ。周波数の単位。一秒間に繰り返す波の数)から20000 Hz の範囲であり、その外側の音は聴取できない――と、もっぱら記憶や習慣によるものであり、私たちは常に「聞く=HEAR」と「聴く=LISTEN」を意識的無意識的に転換させながら生きている。音楽としては聴いていない音も、私たちは聞いている。ケージが「4分33秒」で示したのはこのことだった。 HEARはしていたが LISTENしていなかった音を聴くように仕向けること。それは誰にでも簡単に出来る。ただ世界の響きに耳を澄ましてみればいい。そして実に興味深いのは、HEARとLISTENの境界が、デジタル・テクノロジーによって融解したということである。調べから響きへ、ではなく、調べとは響きなのであり、響きを調べとして聴くことだって可能なのだ。
 坂本龍一も、この境地に立ち至った。いや、このことに彼はずっと前から、そもそもの始めから気づいていたのだろうが、長い間、響きよりも調べの魅力のほうが勝っていたのだった。だがこの頃から、彼は明確に変化する。それは世界に対する態度の変化でもあった。 406





3. 青木淳悟 『四十日と四十夜のメルヘン』 新潮社

 中編「四十日と四十夜のメルヘン」および「クレーターのほとりで」収録。「四十日と四十夜のメルヘン」はのちに『匿名芸術家』収録版を再読して妙な違和感をもったけど、新潮新人賞受賞後の単行本化にあたって初めに読んだこちら表題作版のほうが大きく書き直されていて、『匿名芸術家』のほうが雑誌掲載版ということらしい。で、新人賞の審査委員でただひとり「これはピンチョンなんだ」と青木を推した保坂和志によれば単行本化によって「青木淳悟になった」のだそうで。 
 初めにこちらを読んだときは、やや気負ったバージョンの小島信夫小説のような心象を受けたのだけど、『匿名芸術家』版ではもっと技巧的というかガチャガチャした印象もあったので、事後的にさらなる手が加わって熟れたということなんだろう。
 
 「クレーターのほとりで」はすでに青木淳悟作品を幾つか読んだあとゆえか、順当に青木淳悟のSF挑戦版のように読めた。並行世界の人類進化描く壮大さの一方で、そうした構想で魅せるのでなくやっぱり核は読み味へ収束するという観も含めて。実際、そこに乗れないと青木作品は何をやっているのかよくわからない、だから一文一文への随伴が要求される、いわばとても“遅い小説”とは言えるのかも。など長風呂しながら読み了えておもう。




4. 阿部和重 『ブラック・チェンバー・ミュージック』 毎日新聞出版

 金正日&正恩父子の尋常でない映画好きを起点とする阿部和重ワールドon国際クライムノワール活劇、かと思ったら後半で韓流ドラマを想わせもするラブコメ風味も醸される、滔々たる神町サーガとはテンポと位相の異なる面白小説来々了。阿部式ドタバタ展開は健在で、というかなんとも阿部和重がそこにいる感がパない。の阿部和重とは著者でなく〈阿部和重〉のことであり、主人公・横口健二ってキャラ的にとてもオーガ(二)ズムの主人公・阿部和重とバッチだぶって感じられ。のように読めたのだけれど、ほかの読者にはどう感じられたのだろう。

 金父子のハリウッド愛の底には、全ソ国立映画大学の流れがあって、エイゼンシュテインからタルコフスキーやパラジャーノフまでユーラシア映画史の東半分と直に接続してるんだけど、そこらへんは小説どころか、劇作映画でも素材に採られることが不思議と滅多にない。この圏域ではドキュメンタリーが半端な創作ドラマを凌いじゃうからだけど、阿部和重ワールドでは北東アジアの一部としてふつうに並存している観があり、でもこの「ふつう」感覚を日本語表現でやってのけるのは地味に激レアで、鴨緑江以北の朝鮮族を描く普通話映画に近い越境性もやや感じる。
 この意味では、満映と北朝鮮映画との接続、みたいなアクロバット展開も妄想しちゃうな。


  『さらばわが愛、北朝鮮』https://x.com/pherim/status/1269838576851709952
  『わたしは金正男を殺していない』https://x.com/pherim/status/1313313239799799808
  『THE MOLE (ザ・モール)』https://x.com/pherim/status/1448846202393358341

  『小白船』https://x.com/pherim/status/1831884284095086633
  『悪の偶像』https://x.com/pherim/status/1276076794127372288
  『マダム・ベー』https://x.com/pherim/status/871155530911277056



 粗暴だけれど気はいいヤクザの沢田とか、スピンオフ小説絶対ほしい。絶対欲しいって日本語ヘンよなって思うけど、ほんとズルいくらいキャラ立ちしており、ハードボイルド定番の主人公感バリバリなんだよね。あとトランプ大統領、だしてほしいなぁ。てかきっと出るよないずれ、造形がもうおいしすぎて。オバマみたいにトランプの内面描写やってくれたら抱腹絶倒まちがいない。みたいな予感と趣きすでにあるし、黄金のトサカを活かしてよみがえったブルース・リーとパプア・ニューギニア密林奥地の特設リングとかで戦ってほしい。




5. 小川哲 『嘘と正典』 

 かつてなく軽い小川哲小説。てか初めて読む短編集。という意味で面白かった。『ゲームの王国』の余韻感じさせるトリック物「魔術師」とか、『地図と拳』の延長味もあるソビエト物表題作とか。謎に印象深かったのは、様々なる意匠と流行の果てに人々が行き着いたのはスタイルとしての「虚無」だったという掌編「最後の不良」。収録6作中で最も短い20ページあまりの話だけれど、ミニマルに諸々削ぎ落とされたこの作品自体が「虚無」スタイルを体現するメタ構造、も意識されてそうな。小川哲だし。

 地歴などお勉強ネタを散りばめた知的遊戯が持ち味の一つではあるのだし、ユダヤ神話へ分け入る「時の扉」とか、競馬へ取材した「ひとすじの光」など、いかにも長編にするほどは展開しなさげな小ネタ由来の小品をこうしてまとめてアウトプットするのは時折あって然るべきな気がとてもする。てか鳥山明とか冨樫義博とかもそうするべき(だった)んよね作品世界の創造力がもったいなさすぎなので。クラシック音楽と宇宙の接続で引っ張るのかと思ったら、後半で音楽を貨幣とするフィリピンの少数民族ルテア族とか登場する「ムジカ・ムンダーナ」とか、イカすー。ググったら架空の部族で、いけずー。




6. 入沢康夫 『詩の構造についての覚え書』 ちくま学芸文庫

問37 詩作品の題の置き場所は、絶対に本文の前でなければならないか。

 右のような過激なものとはちがい、ずっとおとなしいアイデアになるが(そして、これはすでに実現していることかもしれないが)、

問38 題自体がいくつかの意味の層を持ち、その層に完全に平行して本文の意味も多層化するといった作品を思いえがいてみること。

 作品の題の問題は、さらに連作の題、詩集の題と考えを拡げていくと、いっそう複雑なありようを示すはずである。それから、題といえば、たいていの場合に、そのすぐそばに置かれる「署名」「作者名」のことも、その役割、その本質について一度はあらためて考える必要があるだろう。それはまた、いずれ。 186-7



 先月ちくま学芸文庫として再刊され、良い評判を複数目にして、かつ詩作課題を同人でちょうど企画していたこともあり、購入。正直、入沢康夫という存在自体これまで視野に入っておらず、吉増剛造本とか、岡田隆彦言及とかを通じてこの1,2ヶ月で急激に存在感を増した詩人のひとり。ほかに増したひととしては、広瀬大志とか。そのうち書く。

 で、「構造」の本だった、たしかに。でも発見が幾つかあれど思ったほどではなくて、詩人はやはり詩なのかなと詩集に当たる。良い。

 詩人はやはり詩なのだった。という感想は次回よみめもにてまた書く所存。




7. 宮崎駿責任編集 『「バロンのくれた物語」の物語』 徳間書店
  https://x.com/pherim/status/1908864192960184681

 副題:映画『耳をすませば』より――ひとつのシークエンスが完成するまで、というわけで、『耳をすませば』の絵コンテ&原画&井上直久による元絵「イバラード」画集。
 
 井上の元絵の描きかた解説は驚く。アクリルやジェッソの重ね塗りによる庭宅“惑星”群、はじめは無象ランダムなまだら彩色を描き、そこから徐々に白を重ねるなどして道を見いだし、垣根や家屋が生まれてるという。つまりあらかじめある作者の構想を絵に図示するのではない現れだからこそ、ああいう有機的と感じさせる外観へと帰結している。とっても新鮮、面白い。

 宮崎駿x井上直久対談も昭和末~平成初期の時代感あって読ませる。このほのぼの感にはでも、一切言及がないものの1995年6月刊行であることを鑑みると無言の意思も直感されたり。




8. 劉慈欣 『三体0【ゼロ】 球状閃電』 大森望 光吉さくら ワン・チャイ訳 早川書房

 Ball lightning、日本語では球電、球雷とも呼ばれるらしい、雷雨のときに送電線の近くなどで発生するのが目撃される現象を軸に据えた『三体』前日譚。宇宙とか異星人とかまったく関係ない中国人民軍と科学者のみで基本完結するスケール感がコンパクトで、そこを入口に量子力学の海へと旅立つ仕掛けが肝というか、『三体』を予感させかつ電子の海へ消える素子感もあって楽しめた。
 丁儀という登場人物が『三体』とも共通するんだけど、だいぶ印象が違って感じられ、作者の意図的なのか時期や翻訳の影響もあるのかすこし気になる。三国志にもいた名前よね。




9. 村上春樹 『国境の南、太陽の西』 講談社文庫 [再読]

 子ども時代に好きだった、足の悪い一人っ子の島本さん。思春期をともに過ごした、美人で性格のきっちりしたイズミ。出逢って一目でひかれた妻・有紀子。生涯で大事な女は三人いる、というモチーフは村上春樹作品の幾らかに共通していて、けれど少なくとも記憶にあるなかでは、三人のうち一人と出逢ったのが小学生の頃というのは本作だけで、だからこそリアリティを感じなくもない。そこに強いリアリティを覚えるからこそ、大人になってから再会して以降のくだりは、本作の核心であるにもかかわらずなんだか幻想譚のようにも感じてしまう。地に足の着いた有紀子との生活があるからこそ遊ばせられる空想的な。

 ところで本書はかなりの高確率で再読なのだけど、ことほどさように村上春樹元型タイプみたいなところもあって、記憶のなかで他の村上作と混同している恐れも微妙に感じて、はっきりと確信的には再読と言い切れない。どちらでもいいし、そういう読書体験もそれはそれで固有の味わいがあっていい。




10. グレッグ・マキューン 『エッセンシャル思考』 高橋璃子訳 かんき出版

 脳内断捨離。日常タスクの見直しとか優先付けみたいなことはこの手の啓発/ビジネス書籍の王道だろうけど、専ら「切り捨てること」の効能を強調し続ける点がこんまりビジネス版っぽい。アメリカのビジネスに画一的な賢人の引用 具体例の畳み掛けも、終盤になってティク・ナット・ハンとかマンデラなど非白人が並びだすあたり、いかにも今日っぽい。

 無関係な動画を聞きながら気づいたら全ページ目を通し終えていた。というあたりは本書の教えに反してなくもない。しかし本書の教えに従ったら、「本書を読む」こそが断捨離対象になってしまうのでここにほどよい矛盾が生じる。たぶんこれ、すべての自己啓発/ビジネス書が抱える矛盾ですよね。




▽非通読本

0. アレックス・ガーランド 『四次元立方体』 村井智之訳 アーティストハウス
  Alex Garland “The Tesseract” Viking Press 1998 UK
 書き出し。
 
黒犬

 1

 その部屋に明るい色はひとつもない。
 外にはふんだんにある。鉄格子のはまった窓からは、吹きだまりのごみを照らす日の光や、不法居住者たちが住む掘っ建て小屋のあいだにきらめく木の葉が見える。しかし、なかにはなにもない。時とともに色あせたベージュ色とカーキ色も、ベッドの両わきに灯る絶望的にほの暗い電球によってぼやけている。
「染み」とショーンは小声でつぶやいた。彼のいるホテルの部屋と二階下の通りに共通するものはそれくらいしかない。部屋にも、通りにも、薄汚い傷跡のない表面は見受けられず、そこにあるすべてに、雨やほこりの跡がついている。蓋のない下水道からあふれた汚水、煙、路面で燃やされた火の跡もある。そして血。ベッドのシーツには血がついている。何度か強くこすられ、薄れてはいるが、さびついたような色を見れば、それがなんであるのかはすぐにわかる。
「熱気」
 薄汚い染み以外に彼の部屋が町と共有しているもの。太陽からにじみ出る糖蜜のような熱気にふれられたら最後、もうけっして逃れることはできない。
 ショーンもすでにその熱気にふれられている。その日の午後、マニラ湾の低い岸壁に腰をおろし、貨物船や、鋪につながる太い鎖を眺めていたショーン。そこに来るまでは、エルミタ地区にあるマクドナルドの心強いエアコンによって守られていた。午前十時ごろ、「アジア・ウィーク」紙を丸めて手に持ち、朝食を 6-7

 

 アレックス・ガーランド、小説家時代の渋味。
 ほんとは映画を撮りたくて小説から入るひとが目立った時代性の中、ベストセラー後に脚本家としてもピンの業績を残し監督でこの水準へ達したひとは稀有ですね。今後も楽しみ。


 拙稿「この現実を見据える確度 『シビル・ウォー アメリカ最後の日』」 https://www.kirishin.com/2024/10/03/68464/
アレックス・ガーランド『シビル・ウォー アメリカ最後の日』“Civil War”A24製作 https://x.com/pherim/status/1835514168092643806
 『アナイアレイション 全滅領域』 Netflix https://x.com/pherim/status/1845647105442148596
 『エクス・マキナ』 https://x.com/pherim/status/740551843864969216





▽コミック・絵本

α. よしながふみ 『環と周』 集英社

 漫画家は、小説家や映画監督とくらべてひとつの物語へとり憑かれがちになり、画家や音楽家のようには次へ次へと移りがたい。スカウターのない鳥山明ワールドをもっと見てみたかったし、不穏なヒソカの気配を感じずに済む新たな冨樫空間にもまた浸りたい。ジョジョの奇妙な冒険だけは不思議で、スタンドのいない荒木飛呂彦世界はもう似て非なる別の並行荒木世界でこの次元からアクセスはできなくても良い気がする。

 よしながふみ『環と周』を先ほど読み了えて、そう厚くもないたった一冊から受けた衝撃をまだうまく言葉にできる気がしないのだけれど深く感動したし、それ以上にとてもとても安心した。大奥の宇宙は巨大すぎて圧倒的で、物語世界ごと自らを魔術的に消し去ったガルシア=マルケスや、熱帯の悲しき奥地で消息を絶ったレヴィ=ストロースみたいにあり得た江戸城の外側を道連れにして画業を終えてしまうのではと恐れていた。(だからガチハマりしながら大奥は怖くて読み進むのに時間がかかった)

 けれども『環と周』。大奥最終巻から一年半後に出たこの単行本を読み、たまげた。文字通りに、魂消た。明治、令和、戦後、平成、そして江戸。エピソードごとに時代は飛ぶ。場所も飛ぶ。にもかかわらず、つながっている。同じうねりを共有している。同じ魂が連なっていく。大奥の将軍たち、家老や中臈たち、町人たちもそこに息づいていて、米軍横流しのコーヒー豆を煎り、便箋に書かれた文字の温もりに涙する。泣く。

 でもよくよく考えてみたら、手塚治虫は火の鳥の銀河を数億年単位で往き来しながら紀元前のガンジスや孤島の病院に暮らしていたのだし、壮絶に江戸の御代が移り変わるかたわらでヤサ男2人2LDKの朗らかな食生活もずっと保たれていたのだから、いと恐ろしきはひとりの抱え得る想像力の奥行きの底知れなさ、限りの無さのほうやもしれず。『環と周』は締めで円をひとつ描き切る。降り落ちるしずくのように、湧きあがる泡のように微細な球面のひと粒ひと粒がその内へ世界を呑み込み、映しだす。あまねき描写の、活きた描線の先へ生まれゆく宇宙の兆し。ふるえる予感。

 
 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]




β. 東村アキコ 『かくかくしかじか』 5 集英社

 そっか、5巻で終わるんだ。潔い。
 
 まとめにかかって構成意識が前景化しすぎてるのか、3巻までの凄まじいうねりと疾走感が消え既定のナラティヴへ寄り添わされてる感が重い。いやそも「実は重い話」の重いパートが軽かったら成り立たないのでだから残念というのではないけれど、金沢美大パートとかのヒリヒリ感はブルーピリオドにもハチクロにもアオイホノオにもない固有の色彩あって良かった。

 地味に宮崎パートの絵画教室場面で頻出する石膏像がいい味だしてるんだよね。やっぱ描画に、かつて長時間をかけ集中目視していた無意識が出てるんかな。謎に記憶へ残る濃さある。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]




(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)

γ. 荒木飛呂彦 『ザ・ジョジョランズ』 1-3 集英社

 あれ、面白い。いやジョジョ直撃世代なので面白いのはじゅうぶん知ってるけど、3期くらいからさき読みつづけるうち気が離れちゃうのくり返しで、とっつきにくい存在になり果ててたんだよね。そこらへん、ガンダムとかバキに近い。

 岸辺露伴が出るとは知らずに読み出したけど、舞台がハワイっていう、資本主義的暴力の尖端が人知れず露出しがちな南国リゾートの明るくてヤバい感じも相俟って、つづきを期待してまう。主人公の設定も色々いい。いや大概の売れっ子漫画家に対しては、鳥山明同様に「その作品に人生とられてなかったら他にどんな面白作品があり得たんだろう」って夢想しがちなんだけど、荒木先生に限ってそれは起こらない。ジョジョ一本で、先進性さえきっちり更新していけるんだなこのひとは。歳とらないだけある。じっさい歳とってないんだろう。

 にしても南洋といってもハワイだからUSAではあるはずなのに、なんだろうこのTOROPICO的独裁国家感覚は。
 話の転がりかたはなつかしい感じ。



 
δ.原泰久 『キングダム』 65-70 集英社

 桓騎と刺し違える以外は全て無駄死にだぞ虎白公
 本当にそうだとしたら、世界が違いすぎる。見ている軍略の世界が。


 異なる戦場間での情念の錯綜をパズルのように散りばめ、常態では不可能な突破力の理路を走らせる。「底辺」出身の桓騎が「富裕」層のみならず人類全体をクソと蔑み、「何もしない中間層」こそ「全身の生皮はいでも足りねェクロヤロォ共だ」と憎悪し既刊の虐殺が動機づけられる。

 李牧にはめられたこの形のままじゃ何をやっても生き残れねえ。だけど火の起こし所を見つけた。俺の目を信じろ。
 
 69巻、「大丈夫だ、すべてうまくいく」と宣言しながら全力で終わる桓騎これは良い絶命。部下も納得よなーっていう。
 からの70巻、李斯と韓非子編、アツいわここにきて冷血李斯が沸騰するの、めっちゃアツい。てか俄然面白くなってくのすげぇ。。




ε. 松本直也 『怪獣8号 side B』 1-2 集英社

 古式ゆかしき剣術唯一の使い手たる第3部隊副隊長・保科宗四郎の来し方と生き道。キャラ的にこのリヴァイ型きらいじゃないので楽しく読む。終盤四ノ宮娘へ主人公が転移したの、次巻以降もそうやって副主人公形式でいくのかな。それもまたよし。

 2巻。主人公転換式だった。中身転換するだけで形式変わらず的なマンネリ化徴候早くも。まぁ本編じゃ物足りないひと向けコンテンツとしてこのモード堅持はアリなんだろう。





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
Amazon ウィッシュリスト: https://www.amazon.co.jp/gp/registry/wishlist/3J30O9O6RNE...
#よみめも一覧: https://goo.gl/VTXr8T
: