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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2021年
12月08日
23:59

よみめも69 こけむすテロル

  

 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。資料読み等は基本省いてます。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。よろしければご支援をお願いします。
  Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV

 ※※今回より、引用メモの比重が増します。

 


1. 日和聡子 『虚仮の一念』 思潮社

 ことばは あてになりませんね。
 私は詩を書かなくなり
 かわりに
 虚妄ばかりをえがくようになった
 それは 恋人のためなのか
 私のためなのか わからない

 あのとき 恋人の冷えた向こう側の半身を
 「かわいそうに」
 とあたためてあげればよかったのに
 私はついぞ向こうにまわらず
 こちらの岸で 志士となった
 
 
 《己を無にすること》
 その基本いつも胸の中に唱えているうちに
 いつかほんとうに無になった
 自分などはどこにもいない 正体はない
 ただこの世の一本の管として
 水も通せば 石をも転がし
 肉も菜も穀も煙も
 吸っては吐いて 吐いては吸って
 この世とあの世の 世をつなぐ
 ∪字磁石に紐をむすび
 それを引きずって田の畦道を歩きながら
 採った砂鉄を細かく分けて 新聞紙に幾つも包み
 「煙幕!」
 として 巾着袋に手裏剣とともに常に備えて
 《人の虚を突き 自らを欺かず》
 そう胸の中に呪しながら 紫頭巾を目指していた





2. エマニュエル・カント 『純粋理性批判 〈6〉』 中山元訳 光文社古典新訳文庫

 知性のすべての規則はこの目標に向かった線に沿っているかのように、その一点に集まってくる。この一点がすなわち理念であり、これは虚焦点(フォクス・イマギナリウス)の役割をはたすのである。 763/151


凸レンズの虚焦点と有益な錯誤

 純粋理性批判・中山訳第6分冊の大テーマは「神」であり、個人的に最も感銘を受けたのは上記引用部における虚焦点の例えだった。プラトンの洞窟比喩は百千回も耳タコなのに、この秀逸な表現を今さら新鮮に受けとるこの事態はなんなのだろう。そこには眼球由来の視覚性や、凸レンズを磨くスピノザの横顔さえ重なりくる圧倒的な鮮やかさが含み込まれる。虚焦点は錯覚の産物だが、この錯覚に敢えて乗ることから“意味”は生じる。

 しかしここからある錯覚が生まれる。この目標に向かう線が、経験によって可能な認識の領域の外部に存在する一つの対象から放たれているかのように見えるのである(これは鏡に映してみるとき、[自分の背後にあるはずの]ものが、あたかも鏡の背後にあるかのように見えるのと同じである)。これは錯視であるが、この錯視によって発生する錯誤は避けることができる。この錯視は、わたしたちが目の前にある事物だけでなく、[鏡の中で]自分の背後にある遠く離れた事物も同時に見ようとするときには、不可欠で必要な錯視なのである。わたしたちの考えている事例で言えば、わたしたちに与えられたあらゆる経験(これは可能な経験の全体のごく一部である)を超えて、知性を可能なかぎり最大限に拡張しようとするときにどうしても発生するような錯誤なのである。 763/151-2

 これらの虚偽の「巣窟」は、さまざまな錯誤に支えられている。あるものの現実存在は、経験によって総合命題としてしか確定できないものであるのに、概念の分析からそれを証明しようとする錯誤、因果性や必然性といったカテゴリーは、現象にしか適用できないものであるのに、それを物自体に適用しようとする錯誤、経験の境界を越えた彼方にある理念は、絶対に到達できないものであるのに、そこにまで経験を拡張できると考える錯誤などである。 337-8
 
 人間の理性はこのような「錯誤」を生み出さずにはいられないのであるが、この創造主という観念は、凸レンズの虚焦点のようなものである。これは錯覚ではあるが、この錯覚は理性にとって不可避であるとともに、有益なものである。 351-2



理神論と有神論
 
 理神論者は、たんに理性だけによっても、根源的な存在者が現実存在することを認識できると考える。ただしこうした根源的な存在者についてのわたしたちの概念はたんに超越論的なものにすぎず、この存在者があらゆる実在性をそなえていても、これをさらに詳しく〈規定する〉ことはできないことを認める。また有神論者のほうは、理性はこの根源的な存在者という対象を、自然な本性との類比によって、さらに詳しく〈規定する〉ことができると考える。そしてこの根源的な存在者はその知性と自由によって、他のすべてのものの根拠をそのうちに含む存在者であると主張する。だから理神論者は、この根源的な存在者を世界の原因とみなすだけであるが(この原因が根源的な存在者の自然な本性の必然性にあるのか、それとも自由にあるのかは、決定されないままである)、有神論者はこれを、世界の創造者とみなすのである。 745/127

 理神論と有神論が対置的に語られつつも、ここでは無神論にも2つのありかたが前提されていて興味深い。論理的に前提はされても言及されることはない。一見、居場所の余地はないようにさえ思える。それが何の限界によるものか、(例えばカントの世界設定なのか己の不明か)現時点ではわからない。としておく。

 しかしある人が何かを [積極的に]主張しなかったからといって、それを否定しようとするものだと非難する必要はない。たんに理神論者は神を信じる者であるが、有神論者は生ける神、最高の叡智体を信じる者であると主張するほうが、穏健で公平というものだろう。 748/150

 端的に言えば“Non-religionist”や“Non-believer”としての無宗教者は単なる無自覚者にすぎないし、カントの枠組みで無神論者とはアンチ・クライストとしての“atheismsit”のみをいうことになる。非アンチ・クライストの無神論者は眼中の外、にみえる。ではこの外からカント的思考を試みることは可能なのか。ある意味で可能(そもそも錯誤の設定という前提の外に立ち)、ある意味では不可能(「人間」的制約の内に立ち)。その可能な範囲に浮き上がる言葉の、さざなみに洗われる軽石感。
 すっげー良いのでは。

747 道徳的な神学と神学的な道徳の違い
(注)道徳的な神学は、神学的な道徳とは異なる。神学的な道徳には、最高の世界統治者の現実存在を前提とするような道徳的な法則が含まれる。これにたいして道徳的な神学は、道徳的な法則に支えられた最高の存在者が現実存在することを確信しているのである。 747/129


 上記箇所を読んで、映画『赤い原罪』自ツイへの沼田牧師引用RT[https://twitter.com/numatakazuya/status/14468227422636687...]を想った。そのままコピペリプするかも。

 その場合には、世界の事物は、あたかも最高の叡智的な主体からその現実存在をうけとるかのようにみなさなければならない。このように理念はそもそも発見的な概念であって、対象を提示する(オステンジーフ)概念ではないのである。そしてある対象がどのような性質 のものであるかを示すこともない。わたしたちがこの[理念という]発見的な概念の 指導のもとで、経験一般の対象の性質とその結びつきをどのようにして探すべきかを、示すだけである。 796/195

 対象を提示する概念ではなく、発見的な概念
 
 この三種類の神の存在証明は、それぞれに固有の神学体系の內部で提案されてきたものであり、カントはこれらの存在証明が帰属する科学を分類してみせる。神学は理性だけに基づく神学(合理的な神学と呼ばれる)と、啓示に基づく神学に大きく分類される。理性だけに基づく合理的な神学を代表するのが理神論であり、啓示に基づく神学を代表するのがキリスト教神学である。この「啓示に基づく神学」は、「経験的な神学」と呼ばれることがある。宗教が理性にではなく啓示という経験的なものに依拠するからであり、「経験的な神学は、神の啓示の助けによってのみ」、神学として成立しうるのである。 329

 構成的眼球、統制的風景。

(32)「ある知性が、与えられた時点において、自然を動かしているすべての力と自然を構成しているすべての存在物の各々の状況を知っているとし、さらにこれらの与えられた情報を分析する能力をもっているとしたならば、この知性は、同一の方程式のもとに宇宙のなかの最も大きな物体の運動も、また最も軽い原子の運動をも包摂せしめるであろう。この知性にとっては不確かなものは何一つないことであろうし、その眼には未来も過去と同様に現存することであろう」(ラプラス『確率の哲学的試論』內井惣七訳、岩波文庫、一○ページ)。 368

 時空をめぐる想像力に下記2冊を想起。

 テッド・チャン『あなたの人生の物語』(よみめも38) https://tokinoma.pne.jp/diary/2648
 オラフ・ステープルドン『最後にして最初の人類』(よみめも68) https://tokinoma.pne.jp/diary/4381



810n 地球が長球形であることの利益
(注)地球の形が球形であることによって生まれる利益は、周知のことである。しかし地球が長球形であって、いくらか平坦であるために、陸地の隆起や、おそらく地震のためにもり上がったかなり小さな山岳の隆起が、地球の地軸をたえず、ただし短期間にわたってかなり動かすことを防いでいることを知っている人は、ごく少ない。地球の赤道部分において、隆起が巨大な山岳を形成していることが、地軸の変動を防いでいるのであり、その他の山岳の震動では、その位置からして、地軸にこのような影響を与えることはできなかったはずなのである。[創造者の]このような賢明な配置を、地球がかつて液体をなしていたために生まれた平衡状態からためらいもなく説明しようとする人もいる。 810n/224


 唐突に挟み込まれる地球断章。この楕円断面と山岳隆起による尖端部が描く三角形の、冒頭凸レンズ虚焦点の比喩とのイマジナリーな呼応。みたいな方向へ連想が起こる純粋理性批判読者はあまりいなさそうにも思える。他の誰かが読むのだから自分は読まなくてもいいや、とはならない理由の一になるのか否か。




3. 金薫(キム・フン) 『黒山』 戸田郁子訳 CUON

 最初の夫が死んだとき、順毎の腹には二か月になる子が宿っていた。体の深いところでなにかが開くような感じがしたが、順毎はそれが妊娠だとは知らなかった。胎児は三か月目の大晦日の夜に流産した。腰を下ろして魚の内臓を引きずり出しているとき、股の間から血の塊がど っと流れ出した。そのとき順毎は、それが胎児であることをようやく知った。血の中に絡まったものがあった。生まれる前に、もう形ができていた。生まれようとして、すでにできあがっていた。かすかな痕跡ははっきりとしていた。......あ、この小さなものが......。
 順毎は手で口を抑えて悲鳴を押し殺した。そのぐにゃぐにゃした塊は、魚の内臓に似ていた。 順毎はそのぐにゃぐにゃしたものに土をかぶせて、川に降りて下腹を洗った。
 ()
 その日、順毎は丁若笠のところに行った。順毎はそこで暮らすことが決まっていたかのように、ためらいがなかった。順毎の体から魚の生臭さが漂った。生臭さは順毎の体に親しんでいた。体臭が元々そうなのか、魚の匂いが染みついたのか、区別がつかなかった。順毎を抱きながら、丁若詮は女の体の中を泳ぐ小さな魚の群れの幻影を感じた。順毎の体は緩くてじとじと していた。丁若笠は、順毎の体が海の真ん中に浮かんだ島のように感じた。その体は、水平線の彼方にある陸地とはなんの関係もない島の体だった。その体に水気が宿っており、魚の群れ の幻影が泳いでいた。順毎の体を抱きながら、丁若笠は連れて来られた場所で生きていくしかないことを知った。今いるこここそ、生きていく場所なのだと、じとじとした順毎の体がそう言っていた。
 丁若笠の体を受け入れたとき、順毎は体から溢れ出た血の塊を思った。 296-7


 映画『茲山魚譜 チャサンオボ』の原作邦訳。一応読んでから記事にするか決めるかなと手にとったらドハマりした。よって心的衝撃は映画よりこちらが優る。これに引きずられ、↓記事は地味ながら主観的にはまとまり&キレある良記事になった。しかしビュー数では前後の香港記事およびホロコースト記事より確実に一桁少ない。ぷんぷん丸である。(でもない)
 
 
  【映画評】信従のまなざし、遠流の明晰。http://www.kirishin.com/2021/11/19/51548/
  『茲山魚譜 チャサンオボ』 https://twitter.com/pherim/status/1459691184624791552



 ちなみに上記引用の順毎が、映画ではまったく異なる風体に組み替えられ、コミカルな役柄で知られるイ・ジョンウンが快演している。とても巧い改変。肉感というより生理的ロマンスの極のような文面を視覚化したら、仮にできたとしてまったく別の映画になってしまう。ソル・ギョングでそんなん映像化されたらそら韓国渡航してでも観たいし、もし相手がイ・ジョンウンのままなら今風に韓国映画史を塗り替える神場面にはなる。という言明にさえ己の劣情を読み込む人々の浅ましさこそ忌まわしけれ。

 李漢植は若い時分に科挙に及第したが、祖父が南人側とつき合っていたために出仕できなかった。李漢植は早々に仕官を諦めて、医術で糊口をしのいだ。瓦屋根の横にある薬屋を、彼は 自ら経営していた。病んだ百姓の病を治してやることはソンビの本分であり、病んだ者が少しずつ快方に向かうのは、木が芽吹くように生命の自生能力によるものであるため、儒医は百姓の病を治療しても金を受け取らないのが道理ではあるが、李漢植は患者の金を受け取って食いつないでおり、それを自ら恥じていた。 李漢植は丁若鍾の門下に通いながら、天主教を学んだ。その教理は、遥か遠く模糊としたものを手に取るように近くに引き寄せて、新しい世界を開いてくれたが、生きている間を軽く思 い、祖先の祭祀を禁じることで、国基を崩すその恐れ知らずの教えを、李漢徒は恐れた。 47-8

 ――馬が疲れているので、薬として飲ませたく思います。
 命連が離れから、カスの浮いた味噌をすくって持ってきた。馬路利は味噌を薄く水に溶いて、 馬の口を開けさせてそこに流し込んだ。馬は吐き出しもせずに味噌の水を飲んだ。馬路利は折れた真鍮の箸を背嚢から取り出して砥石で研いだ。鋭くなった箸で、馬の腰と尻を深く刺した。
 ――なにをしておる。
 ――鍼を打って疲れを取り、よく眠れるようにしております。
 黄嗣永は馬の面倒を見る馬路利の手つきを、驚いた目で見つめた。 171

 呉好世は初めの三、四発は強く打ち、次に鞭と鞭の間隔を長くして、打たれる者が際限なく鞭打たれ続けるかのような恐怖を覚えるよう仕向けた。だから三十発まで打たずとも、従事官は自白を引き出すことができたのだ。呉好世はまだ打っていない鞭の恐ろしさを、鞭のごとく有効に 使うことに長けており、打たれる者の体形や性格によっても、そこに深く浸み入る鞭を打つこ とができた。呉好世は棍杖だけでなく棒や鞭、鋸などの刑具を手慣れた様子で扱い、一度使えば多くのものを引き出した。鞭打ちを行う呉好世の動作は軽やかで、力を籠めているように見えなかった。呉好世は広い額が輝き、目は小さく眼光は澄んでおり、仕事をしないときにはやんごとない儒者の風格だった。 232-3

 黄嗣永は向かいの部屋のロウソクの下に跪いて座り、赤ん坊を待っていた。陣痛でうめく命連の声が聞こえた。黄嗣永の耳に、そのうめき声は自分の体で母の肉をかき分けて道を開ける 赤ん坊の力への、掛け声のように聞こえた。赤ん坊は創世記の礎から今ここまでの時間と空間 をかき分けて近づいてきた。赤ん坊はもうすぐそこまで来たようだった。
 ()
 ――もう一度、もう一度力をこめて。
 年季のはいった命は流れてゆき、新しい命が流れてきて、この世の運命を変える幻影が黄嗣永の目の前に広がった。末世が兵乱で乱れたとき、避難場所はただ心の中にあるものなのだが、 新しく広がる心の国に牛の鳴き声が聞こえてきた。牛の声は空から降りてきて、人々の心の中に流れて行き、村から溢れて野原に広がっていった。
 赤ん坊の頭が母の広がった部分をいっぱいに満たして、押し出された。鍛冶屋の妻が指を入れて、赤ん坊の頭を引き出した。小さな肩と手足が続いて出て来た。赤ん坊が初めての息をして、泣き出した。赤ん坊は男の子だった。 241-3

 乳民の制度と方式が同じだとしても、島は遥か遠くにあって関与する者もおらず、海と風に絡まった鎖をほどくことはできなかった。丁若詮は黒山の黒の字が怖かったが、その恐れは、島に限定されたものではなかった。黒の字の恐ろしさは、時代そのものに対する恐れとも似てい た。丁若金はその恐れの中をじっと覗きこんでみると、戻りたい懐かしさの痕跡がそこにかすかに残っているようにも思えた。帰る場所もなく、どこも恐ろしい世の中なのに、それでも戻 って行きたい心の痕跡が残っているのは、故郷マジェの川にいるカニと、黒山の川の淡水ガニ の姿が同じだからだと、丁若笠は自分にそう説明した。
 黒山に対する恐れの中には、黒山の海の魚の姿や様子を文字で書こうという望みが育っていた。魚の生きる姿を文字で書き留めても、黒山の恐ろしさを振り切ることもできず、慰めにもならない。しかし、魚を文字で書き、恐れや待ちわびる心や懐かしさがまったく生まれて来な い、元々あるがままの世の中を、ほんの少しでも人間の方に引き寄せて見ることはできないだろうかと思った。魚の様子を書いた文は、詩歌や文章ではなくただの魚であるように、そして魚の言葉に少しでも近づいた人間の言葉であるようにと、丁若笠は願った。 330-1

 渡し舟が来るまでの間、馬路利は液便を垂れている馬の口内を調べ、真鍮の箸でうなじのところを刺して鍼を打った。馬路利が馬の顎の下をなでてやると、馬たちは頭を下げて馬路利の前に寄ってきた。
 馬は朝鮮の川の水をうまそうに飲んだ。再び鴨緑江を渡るとき、馬路利はヨハンという名で洗礼を受けて戻ってきたことに実感がわかなかった。川はずっと流れ、道は続きながら、その上を歩いて遠い道を行くことができるわけで、突然飛び越えることはできないものだ。馬路利は黄嗣永ソンビから天主の教理を初めて聞いたときも、元々それを知っていたような、優しく て穏やかな気持ちになった。おまえの隣人を愛せ、そんなふうにはっきりとしたものを、黄ソンビはどうして恐ろしい秘密のように隠して、声を殺してささやくように言ったのか、馬路利は聞きたかったが、ソンビに自分から言葉をかけることはできなかった。 339-340



以下、訳者あとがき&著者あとがきより。
  
 金薫は、手書きで原稿を書く作家としても知られている。「鉛筆で書けば、私の体が文字を押し出していく感じがある。この生きている肉体の感じが、私には大切だ。この感じがなくては、一行も書けない。この感じは、苦痛だが幸せだ。 体の感じを自らが調律しながら、私は言葉を選び、音を加えて、消してはまた書き、破り捨てる」(『ラーメンを作りながら』より) 395

 黒山のいくつもの島に出かけると、魚を見つめていた流刑客の痕跡は草むらに覆われ、 過ぎた日の魚たちは今日の魚たちにつながって沿岸に寄ってきた。島で死んだ儒者の魂が魚になって、海中に湧き立っているのだと思った。
 多くの研究者の学問的な業績に力を借りて、邪学罪人として死んだ多くの人々の生涯と 訊問の記録を読んだ。その記録の一行一行は、私が小説や作文として手に負えるものではなかった。大部分の記録と事実を小説に引き入れることのできないまま、ただそのまま読むことしかできなかった。 
 私は言葉や文字で正義を争うという目標を持ってはいない。私はただ、人間の苦痛と悲 しみと希望について語りたい。私は、ほんの、少しだけしか語ることができないだろう。 だから私は、言葉や文字で説明することのできない、その遠くて確実な世界に向けて、血を流し歩んで行った人々を怖れ、また苦しんだ。私はここで生きている。
 いつも、あまりにも多くの言葉を言い尽くしてしまったのではないかとふり返ると、恥ずかしさで背に汗が流れる思いだ。この本を書きながらもそうだった。一人で耐えた日々と、私の零細な筆耕の尽き果てた労働については、なにも語りたくない。 380





4. 渋谷哲也 夏目深雪編 『ナチス映画論』 森話社

 ディディ = ユベルマンはネメシュへの書簡の最後にこう書いている――「サウルのあらゆる権威――したがってそのストーリーやこの映画の権威―――は、世界とその残忍さの流れに逆らって、「ひとりの子供が実在している」という事態を生み出すことにある――たとえその子がすでに死んでいても。われわれ
がこの残虐な歴史の漆黒、歴史に開いたこの「ブラックホール」から抜け出すために」。 58

 『サウルの息子』に類似した手法を取っているメイン・ストリームの映画ジャンルとしてはホラーがあり、さらにそれはいわゆる「体感型」のシアターにおける鑑賞経験にも接近しているという指摘がある。では、テクノロジーを駆使して五官で「体感」される映画との違いはどこにあるのか。ひとつの答えは、体感型の映画がナラティヴに完全に従属したパースペクティヴと心理的リアリズムを生み出そうとするのに対して、『サウルの息子』がもたらすのは、全体的な展望を欠いて局所的なものにとどまる触感的な感覚経験――ネメシュの言葉によれば、「内臓的=直感的(visceral)な経験」―のリアリズムである、というものである。そこでは映画のナラティヴが優先しているわけではない。 64

 そこでは、ベタに可能性を信じて悲劇に見舞われる存在と、不可能性を知りつつあたかも可能性を疑わない かの如く〈なりすます〉存在が登場します。
 
 つまり、我々は既に社会も愛も不完全であることを知っているのに、あたかもそうではないかのようなフレームで描いた映画は、現代的なリアリティを持ち得ないということである。 42



 次項:四方田犬彦『テロルと映画』、次々項:飯田道子『ナチスと映画』と併せ、下記記事の参考引用文献として読む。

 【映画評】 神はアウシュヴィッツを赦しうるか 再監獄化する世界(5)
  http://www.kirishin.com/2021/11/30/51683/


 関心ど真ん中のテーマでかつ編者の夏目さんには世話になっているうえ、執筆陣には個人的に興味ある人々がずらりと並ぶ本書についてはもっと早く読むつもりだったけれど、それでさえこういう機会でもないと積ん読リストの優先順位が上がらない。『黒山』のような割り込みが都度都度生じるからだ。時間の不可思議。
 
 なお本書については、特に後段の関連50作ガイドなど今後返すがえす開くはずなので、ここに大量の引用メモ投下などしない。よってもし以下に引用があるとすれば、それは将来のその時々における原稿目的等での引用したコピペ案件である可能性が高い。(しらんがな)




5. 四方田犬彦 『テロルと映画』 中公新書

 ベロッキオが目的としているのは、映画で政治的事件を描くことではなく、映画を政治として成立させることなのである。()ベロッキオは一九六五年に処女作『ポケットの中の握り拳』を世に問うて、パゾリーニの影響を受けた監督であった。()『肉体の悪魔』(一九八六)でも、高校生の主人公がセックスに溺れる相手の女性には婚約者がいて、彼は爆弾闘争の罪状で長く服役中の活動家という設定である。また全編にわたって母親と息子の見えない葛藤が、精神分析を介在して論じられている。
 さらに、『壁の勝利を ムッソリーニを愛した女』(二○○九)は、精神病院とファシズムが ともに人間の欲望を監禁する装置であることを、狂気に陥った女性を媒介として語っている。 ベロッキオの映像的宇宙を構成しているのは、このように家族と政治権力、欲望の抑圧と解放、歴史とその再上演といった主題系列である。
 『夜よ、こんにちは』の直接の契機となったのは、モロの誘拐と殺害に関わった四人の「赤い旅団」メンバーのうち、ただ一人の女性であったアンナ・ラウラ・ブラゲッティが、作家 パオラ・ダヴェーラの協力を得て執筆した回想記『囚人』(一九九八)である。
 ()
 ベロッキオは描写の細部をこの回想記に仰ぎながら、まったく異なったフィルムを作り上げてみせた。事件を旅団内部から忠実に再現するという手法を取らず、大胆にも夢と現実、想像と事実を同列に並べ、しかもまったくの部外者が執筆した『夜よ、こんにちは』という映画脚本を登場させるなど、メダ映画的な仕掛けを必た。彼は政治を表象する映画ではなく、像の操作そのものが政治的であるような作品を創造したといえる。 152-3



 マルコ・ベロッキオについては、本書刊行後の新作について考えるなかで、その夢幻描写とイタリア現代史との交接に惹かれつつも出処不明の不思議を覚えていたけれど、なるほどこういうひとだったかと。

  ベロッキオ新作『シチリアーノ 裏切りの美学』
  https://twitter.com/pherim/status/1297420717789605890
  ベロッキオ『甘き人生』 https://twitter.com/pherim/status/884021926313607168
  【映画評】『甘き人生』 http://www.kirishin.com/2017/07/19/7678/

 
 ありがたいことに未見の過去作の幾らかはVODで居ながらにして拾える時代なので、メモのし甲斐もまたあるというもの。ってこれで観なかったら、録画だけして観なかった大量のVHSテープの二の舞でしかなくなるけれど。

 それは主人公の夢の場面に、ジガ・ヴェルトフやロッセリーニといった映画史上の古典作家の作品を使用するとともに、彼女が生きている現実そのものが、誰か別人によって執筆された脚本の再現ではないかという、存在論的な危機感を構造として内部に秘めている。ある時点からフィルムは、事実の記録と証言を越えて、夢の論理のもとに独自に進展してゆく。
 キアラが無意識のうちに抱いている欲望、解放への衝動をそのまま映像化し、現実にはありえなかったモロの生還をスクリーンに描きだしてみせる。それは事実を歪曲することでは なく、これまでさんざん反復されてきた事実報道の流れをひとたび中断させ、その停止状息のなかで、より高い次元に立って歴史的認識へと向かうことに他ならない。 ここで求められているのは、歴史を静的に固定された事実の集合としてみるのではなく、ありえたかもしれない無数の分岐点を秘めた、潜在的な力の束として捉えなおすことである。この試みの途上にあって、事実は想像的なるものにおいて補完され、はじめて事件の本質をわれわれの前に浮かび上がらせることになる。
 ()
 ()映画における革命とは、映画をめぐる観念の変更でなければならない。それはひとたび歴史の名のもとに信奉されてきた映像を転倒させ、過去にあったと認識されてきたものとはまったく異なった光景を、映像として提示することでなければならない。 167-9

 彼らは高度資本主義社会の構造のなかであてがわれた役割を演じているにすぎず、その役割は恣意的に変更されてゆく。彼らの正体とは、いたるところに設置された監視カメラの映像の集積 ら浮かび上がる存 在にすぎず、その意味で彼らの生きる環境がアンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』(一九七二)に喩えられるのは当を得たことである。タルコフスキーのフィルムでは、ソラリスという惑星はそこを訪れる人間たちをノスタルジアに満ちた虚構の映像で取り囲ん でしまい、彼らを破滅へ向かわせるからだ。ファスビンダーによって描かれているのは、権力の構造が個人のヴァルネラビリティ (攻撃誘発性、やられやすさ)と理想主義の残滓を巧み に利用して破滅へと追いやっていく喜劇であるが、そもそもその権力にしてからが、疑似現実の蜃気楼のうちに成立する幻想にすぎない。
 誰もが他者によって操作され、他者によって映像を収奪、あるいは付加されているのだが、 いっこうにその事実に気付いていない。そのためテロリスムの試みはつねに不毛な演技に終始する。テロリストたちを駆り立てているのは、歴史にみずからの名を刻印したいという熾烈な衝動である。彼らは自分たちを報道し、自分たちに代わって、その主張を言明してくれる者、つまり表象 = 代行者が存在していないという現実認識に苛立ちを感じ、スペクタクルの演出を通して、一気にその閉塞状況を乗り越えようと試みる。だが、すべてを茶番劇へと還元してやまない今日の社会は、そのスペクタクルをも平然と回収し、あたかも何ごともなかったかのようにテロリストを表象 = 代行作用が君臨する世界の内側に閉じ込めてしまう。『第三世代』が描いているのは、こうした現在の社会の残酷な現実に他ならない。
 ファスビンダーは『第三世代』を撮った三年後に、わずか三七歳で逝去した。だが、彼が映像を通して遺したテロリスムへの認識は、今日ますます意味を持っているように思われる。 彼は監視カメラが遍在し、すべての人間が主体を欠落させた模造としてしか存在できない社会にあって、偽悪的な露出趣味と万物嘲笑を自身の戦略とした。われわれはその戦略を、あるヴァルネラビリティのもとに記憶しなければならない。 141-3

 ファスビンダーがテロリスムに接近する姿勢には、強い二律背反的な力が働いている。彼はテロリスムを生み出した社会を、その根源にまで遡って批判しようと試みた。その結果判明したのは、病巣が自分の足元にまで達しており、批判する主体であるみずからを作りだし たのも同じ病巣であるという事実だった。
 だが、その一方で彼はテロリストが目標とする暴力のスペクタクル化が、高度資本主義社 会のなかではメディアによってたちどころに消費回収され、ただちに無効と化してしまうと いう現実を、残酷にも描きだした。もはや単一の主体によっては統括されず、匿名的に構造化された権力は、個人の攻撃誘発性と理想主義の残滓を巧みに掠め取り、不毛な茶番劇に仕 立てあげてしまう。ファスビンダーはこの閉塞感に満ちた構造を見据えながら夭折した。
 ベロッキオの映画への貢献は、テロリスムを分析するにあたって、ジェンダーと無意識の 理論を導入したことにある。彼もまた若松に似て組織の周縁に置かれた人物を視座として借り受け、テロリスムの根底にある死への欲動とフェティシスムの構造を解き明かそうとした。 「自由と解放の物語を希求する者たちが、いつしか別の物語の システムに搦め取られ頽廃に陥ってゆく過程を、彼は夢の論理を援用することで批判的に描きだした。映画という表象体 系にもし何らかの権能がありうるとすれば、それは生起した歴史的事件を、ありえたかもし れない複数の潜在的な力の束として、多元的に解釈し直すことではないか。ベロッキオはこの立場に基づいて、テロリスムへの欲動が自己解体する地点にまで探求を試みた。 174-5


 ファスビンダーの上映企画は近年、上掲編者の渋谷哲也などを中心にしばしば為されてきたけれど、今回ようやく個人的関心へと接続された感がある。もし観ていれば、そこから同じように本書を経由する網目なども広がりえたのだろう。そう考えると、足で稼ぐ意味は依然大きいよなとあらためて。(アテネ・フランセもいいかげんネット予約システム入れれば色々よくなるだろうに。結局世代差なんだろなぁ)

 ベンヤミンは先に引用した一節の後に、「これは神学である」とまたしても謎めいた言葉を書き付けている。一度は完結したと信じえた歴史を未完結の相のもとに見つめ直すことは、突き詰めていくと最後の審判という考え方を受け入れてしまう危険を孕んでいる。「哀悼的想起において私たちは、歴史を原則的に非神学的に捉えることが禁じられるような経験をするのだ。歴史を直接神学的概念によって描こうとしてはならないのと同様に」とは、先に引いた『パサージュ論』のなかの言葉である。
 こうして『パサージュ論』の著者の提示する哀悼的想起においては、つねに相反する二つの力が牽引しあっており、その場は緊張感に満ちたものとなる。社会が過去を制度的に完結させる方法には、つねに一定の手口が見られる。そのもっとも安易なものとは、出来ごとが生起した現場に記念碑を建てたり、犠牲者の名前を通りや町の名前として採用することである。アカデミズムの分野においても、出来ごとは制度的な名称を与えられてしまうと、いともたやすく固定化され封印されてしまう。だが、かかる哀悼的想起はこうした相対化と制度化の力と激しく対立し、いずれの立場に対しても刃を突き付ける行為として、われわれの前に立ち現れることになるだろう。
 ここでわたしは明言しておきたい。映画の役割とは、ベンヤミンの説く歴史に似ている。それは哀悼的想起を組織することである。それはテロリスムをめぐって世界に散乱している悲嘆を掬い上げ、纏め上げ、哀悼という視座のもとに世界を認識し直すことにほかならない。 181-2

 現時点でわれわれが知りうるのは、それが映画がもはや不可能となってしまう臨界点に、 かぎりなく接近しているということでしかない。もし比喩を用いることが許されるならば、その状態とは、アブ・アサドが『パラダイス・ナゥ』の最後の場面に置いた、完全に純白の画面であるかもしれない。
 だが、この永遠に到達できないかもしれない事態を無限遠点に設定することで、映画は少なからぬ実験的試みに向かって出発することができる。テロリスムの廃棄のために、映像の内側に横たわる政治を再検証し、それを希望の名のもとにわれわれに差し出すことができる。 そう、きっとできるだろう。 192





6. 飯田道子 『ナチスと映画』 中公新書

 自分はなぜ存在しているのか? 私は何もので、何のために存在しているのか、自分の使命とは何なのだろう? 自分自身を信じてよいのだろうか? どうして 他人は私を信じてくれないのだろう? 私はのらくら者なのか、それとも、神の言葉を待っている要領のいいやつなのか。(『ゲッベルスの日記』) 27

 ナチ時代が終わって六〇年以上が過ぎた現在もなお、ヒトラーやナチスは映像化され続けている。そのおかげで、ヒトラー後の時代を生きている私たちは、直接体験としてのナチス は知らないにもかかわらず、ヒトラーの同時代人よりも多くの情報を持っているかもしれない。私ちの誰もが、自分のなかにヒトラーとナチスについての何らかの「記憶」を持っていることだろう。それは表象物から得たイメージの集積でしかないのだが、たえず新たな情報によって古い情報は更新・修正され、広がり増殖し、すっかり私たちのなかに居座っている。
 私たちのそうした認識のありようを、アメリカの歴史家アルヴィン・H・ローゼンフェルトは、次のような言葉で表現している。
 
 大部分の人は「事実」と直接的な関係を持たないで、ことばやイメージに媒介されて事実を学ぶ。私たちはほとんど例外なく、与えられるものを「見る」、与えられるものを 「知る」、こうして〈見たこと〉や〈知ったこと〉として私たちに刻印されたものが〈記憶〉になる。(『イメージのなかのヒトラー』) 220

 世界は実にラジオから生まれるかのようなのだ。なるほど、人間はもろもろの事物や、つぎつぎに生じてくる出来事をなおも見てはいる、しかしラジオがそれを報道し、絵入新聞がそれを掲載したのちになってはじめて、それらの出来事は彼にとって真実なものとなるのである。ラジオが人間にかわって知覚し把握し、記録し、判断するのだ。〔中略〕人間はもはやなんらの内的歴史、なんらの内的連続性をも持ってはいない。現代で はラジオが人間の歴史である。ラジオから人間は自己の存在を受けとっているのである。(マックス・ピカート『われわれ自身のなかのヒトラー』)

 ()ナチズムは「空無」だとピカートは言い切る。ナチスには、何の顔もない、と。ヒトラーとナチスは、いかようにもイメージの変換が可能だ。時代の流れのなかで、姿を変えながらしぶとく生き延びている。ヒトラーとナチスの表象は、形を変えながら映像化され続け、今後もそれは続いていくだろう。そのイメージは、多面的でつかみどころがなく、 海の表面に映る影のように、たえず移り変わる。おそるおそる覗き込んだら、そこに広がっているのは私たちの「記憶」を反映しているイメージかもしれない。ヒトラー像を探して覗いた先に映っているのは、もしかしたら自分自身なのかもしれないのである。 222-3





7. 石井妙子 『女帝 小池百合子』 文藝春秋

 水俣問題を長く取材してきた女性ジャーナリストは語る。 「政権が女性の大臣を立てる時はだいたい要注意なんですよ。汚れ仕事を女性にやらせようとする。女性大臣は官僚や官邸に忠実です。立場が弱いし、自分の考えを持っているようで 持っていない。女である彼女たちが厳しい判断をしても、男性がするよりは柔らかく世間に は映る。だから官邸は女性に汚れ役を回すわけです。女性大臣たちも『わかりました、その汚れ役、私引き受けますから、ちゃんとご褒美、後からくださいね』という感じで」
 選挙後、アスベスト問題はマスコミの力により動き出した。 248


 新著『魂を撮ろう』がまだ出たばかりで、『女帝』は大ベストセラー化してたから、『魂を撮ろう』→『女帝』の順に通読した人間はまだ稀だろうなとか思う。だから何だという話には全く広がりようもないけれど。同じ文藝春秋だった。

  石井妙子『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』(よみめも67)
  https://tokinoma.pne.jp/diary/4324


 
 公約とした七つのゼロの中で、唯一、彼女が達成したゼロは「ペット殺処分ゼロ」だけである。二〇一九年四月五日の定例記者会見では、わざわざ自ら「殺処分ゼロを一年早く(二○一八年度に)達成した」と嬉しそうに報告した。動物を愛する人たちからは礼賛の声があがった。しかし、この「ゼロ」には、からくりがある。
 百五十匹近い犬猫を殺処分した上での「ゼロ」なのだ。老齢、病気持ち、障害のある犬猫は殺処分しても、殺処分とは見なさない、と環境省が方針を変更したからだ。だが、それは伏せて、彼女は「ゼロ」を主張したのだった。 398


 『魂を撮ろう』に比べると、批判調が全面化すなわち全編を平板化させているきらいがあり、ややもったいない。淡々と事実レベルを並べ読者の中におのずと育つクズ人間像の生成をもっと信頼しても良かったのでは。とか。

 朝堂院大覚(松浦良右)が東京地検特捜部に逮捕されたのだ。
 朝堂院が経営する浪速冷凍機工業は、水処理や真空装置を開発し、総合エンジニアリングとして大きく業績を伸ばしていた。朝堂院はさらに、その収益で企業買収を繰り返し、巨万の富を得ていた。有り余る金は、国内外の政治家に流した。ニカラグア共和国のオルテガ、フィリピンのマルコス大統領やアキノ、エジプトの大統領ナセルやサダト。日本では後藤田正晴や石原慎太郎に。 137

 
 事実言及が単語レベルで興味深い、ということはある。↑なんて、オルテガマルコスナセルだよ。なかなかない音景。




8. アーシュラ・K・ル=グウィン 『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』 大久保ゆう訳 フィルムアート社

 文体とはごく素朴な問題であり、つまりはすべてリズムなのだ。いったん乗れば、もう間違った言葉は出てこない。ところがかたや、朝も半ばを過ぎてここに座っているわたしは、着想/ideaや夢想/visionなどでいっぱいなのに、その正しいリズムが得られないために、そいつを外へ出せないでいる。今やこれはたいへん深刻で、リズムとは何か、そう、言葉以上のはるか深いところに入っている。情景、情感がまず心のなかにその波を作り、そのあと長い時間を経て、見合った言葉が生まれてくる。 71-2

 上記はヴァージニア・ウルフの言葉。なるほどそういうことか、と思ったのは、彼女の訳書における長文描写から受ける微妙な歪さが、翻訳によるリズム抹消ゆえなんだなと理解すれば感覚的に通ったから。など、著者以外の作家の文章論も楽しめる意外な良書だった。何が驚きかって、読み出すまで著者はル・クレジオだと思ってたこと。ル違いの怪我の功名。

 
 わたしは、自分の書くものが聞こえるのです。本当に若かったころは、詩の執筆から始めたものです。かつてはいつもそれが、自分の頭のなかに聞こえました。執筆のことについて書く人でも、どうやらそれが聞こえておらず、耳を澄ませもしていない人が多いということは、わかっています。その人たちの知覚では、理論や理屈がもっと優先されているのです。でも、自分の体のうちにそういうことが起こっているのなら、自分の書くものが聞こえているのなら、正しいリズムにも耳を澄ますことができるはずで、その助けを借りれば、文章もはっきりと流れていくことでしょう。それに、若い書き手がいつも話していることですが―自分の声を見つけること〉―そう、それに耳を澄ませもしないで、自分自身の声が見つかるわけありません。自分の文章のひびきは、その行為の核になるものです。 243

 これはたぶん多くの人にとってその通りで、ただ表現がさすがに巧いよね。本人の自覚はどうあれ、「理論や理屈」だけで考えるor書くことは本当のところ困難で、誰もが多かれ少なかれ「聞こえる」言葉を拾っているのだけれど、超一流のプロであるル=グウィンだからこそきちんとそこを感覚レベルで対象化できている、ということなのだろう。

 リズムとかまったく顧慮しない文章とか書ける人間は内面がない哲学的ゾンビのようなもので、我こそは論理的に発語しているという類の人間の99.99%は己の発するリズムに無自覚なだけなので、だったら耳を澄ませたほうが誰にとっても良いはずだ。という素朴な話。


 「カミナリという名のアナグマ」(W・L・マーズデン『オレゴンの北パイユート語 (Northern Painte Language of Oregon)』所収の逐語訳、筆者によるわずかな修正入り)より。↓
 
 その男、カミナリ、怒るは大地が干上がったため、湿った大地がないため、そこで大地を湿らせたいと思った、なぜなら水が涸れてしまっているから。
 その男、カミナリ、雨の主、雲の上に住んでいる。霜をあやつる。その男、カ ミナリのまじない師、アナグマの姿で現れる。雨のまじない師、その男、カミナリ。地を掘ったのち、頭を上に、空へ向けると、やがて雲がやってくる。やがて雨がやってくる。やがて大地のののしりがある。雷がやってくる。稲妻がやってくる。悪が語られる。
 その男、本物のアナグマ、その男だけ、鼻に白い縞模様、背にも同じ。その男こそが、唯一アナグマで、この種族。その男、カミナリのまじない師、干上がった大地を好まない、掘っているとき、かくのごとく引っ掻いているさなかには。 やがて頭を上に、空へ向け、雨を生み出す。やがて雲がやってくる。 83


 民話のくり返しが生む心地良さ。単語がぽんぽんと並ぶことで現出される側面については訳出もかなりの精度でできる。これは未習得言語の詩を翻訳で読む意義に通じる。

 おそらく、いいワークショップとは、水飲み場にいるライオンの群れのようなものなのだ。みんなで一晩じゅうシマウマを狩って、そのあとみんなして大きく猛りながらそのシマウマを食べ、揃って水飲み場に向かい、一緒にのどを潤す。それから日中の暑いときには、ともに寝転びながら、うなったり、ハエを叩いたり、優しげな顔を向けたりする。そしてたった一週間であっても、ライオンの群れに所属したことが、何ものかになるのである。 246

 そうわよ。10年後とか、幾人かにとって時の間もそういうものとして思い出されればいい。(されなくてもいい)




9. 坂和章平 『ヒトラーもの、ホロコーストもの、ナチス映画大全集 戦後75年を迎えて』 ブイツーソリューション

 ホロコースト映画記事に併せ上述の参考引用文献と併せ読もうと手にとったけれど、首を傾げたくなる言及多々。
 
 本職が弁護士だと、こんなことがあり得るのだな、そしてこういう本が各所の映画/世界史棚などへ、上掲『ナチス映画論』とか四方田映画本などと同列対等の外観を以て出回ることもあるのだなという印象。地元図書館にも、行きつけ書店の映画棚にもあった。大阪日日新聞の連載記事ベースらしいのに、自費出版本によくある甘さ丸出しの文章で統一されてるのが不思議に感じたけど、検索してみると意外に面白かったのがこの「大阪日日新聞」のほうで、ブランドは大層由緒正しいのだけど、実態はもうなぜ続けてるのかわからない状態で超低空飛行を続けていて、なるほどなと。2000年には新日本海新聞社により救済的に買収され、紙媒体は本拠の鳥取で印刷されたものが大阪に運ばれてくる低迷ぶりで、すでに編集の手など入りようがない環境が目に浮かぶ。
 要はこの数行、自己投影というか自戒の念書きなのだった。
 
 事実情報として非知のネタも散見するので全頁に目は通した。400頁近くあり横組みで文章をぎっしり詰めてはいるものの、320頁ほどの上掲『ナチス映画論』に比べると圧力は2桁弱い。とはいえ本著者、ミャンマー移民扱う藤元明緒監督作『僕の帰る場所』へ出資もしているらしく、その情熱は大事にされるべきだよね。内向きに閉じる意味はない。




10. 福冨渉 『はじめてのタイ文学2017 タイ独立系書店6選』 

 主に日本人相手とはいえ「タイ」で「書籍」を商っていた己の目にも、タイ語書籍販売はよく見えない世界だった。もちろん都心の各モールには大型書店があるし、郊外にも田舎町にも規模に応じた本屋やコンビニ書棚を見かけはする。しかし少なくとも都心の大型書店に並ぶタイ語本の書影からは、正直独自のマーケットの姿はまったく観測できたしめしがない。郊外の小さな店に入ってもそれは同じで、なんだか棚に厚み(構造)を感じない。タイ語本の通読能力など事実上ないのだから基本は己のせいでしかないのだけど、ともあれ本著を読んで感じたのは、そうした「小さな本屋」って昭和の日本に大量展開した郊外の小さな本屋とはまったく仕組みが違うのかもということで、しかし本書の焦点はそこにもなく、もっぱらアーティストとか文芸系の店主が切り盛りする独立系書店が扱われる。
 
 何度も入ったことがある小さな芸術系書店が、プラプダー・ユン創設というのは読んでちょっと驚いたな。さいきん彼の映画に触れるツイートに彼本人からlikeをもらってたけど、やはり似た方向性の関心を抱いて同じ街に暮らすと交錯するポイントって、無自覚のうちに生じてるものなんだな、とか。ってそれを言ったらコロナで潰れてしまったらしいBangkok Screening Roomなんて、知ってる範囲のイケてるタイ文化人なんてほぼ全員行ってる気はするけれど。(てかそこ潰れるんかい泣くぞ)




▽コミック・絵本

α. 森薫 『乙嫁語り』 12 KADOKAWA

 まぁ本当に、何から何まで珠玉すぎて。

 ともあれ本稿冒頭↑画像引用部、すでに遠く離れた狩娘と学者青年とを、距離を時にダブらせ「日常の退屈」で結ぶ見開きね。ぐっときたし、バンコク3年目くらいにふと感じた日常感、この場合は非異文化感とも言い換えられるそれがなかったら、タイ撤収を考えだす時期ももう少し先だったろう、とか思いが馳せる。(コロナへ突入し悲惨なことになったろう)
 
 あとは写真に映り込むムスリマたちのエピソードね。写す意志の主体を女性としている点がやはり森薫の良さだし、この主題では稀なる独創性なんだよな。あとがきの旅行記で「撮ったのは男性なのに女性が顔だしてる。なぜ」という言及あるから、この「なぜ」を創作的に膨らませたのだとわかる。恒例のそれ自体が超面白いあとがきもね、タジク滞在にフォーカスした今回は格別に良かった。何から何まで最高すぎて。
  
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β. 相田裕 『1518! イチゴーイチハチ!』 1 小学館

 学園物で、1頁目にさらりと舞台となる高校が公立トップ校を受験する子の「併願校」で、負け組のための場所だと書かれて始まる。あまりにさらりとしてるので読者の印象にさえ残りにくい説明書きだけど、少なくとも1巻のすべてを枠づけていた。
 まだ色々と未分化な主人公少女と、実はかつて女子ゆえに投手の道を諦めた生徒会長と、肘を痛めて野球の夢が断たれた少年による、“派手な部活動の影に隠れがちな生徒会”の悲喜こもごもがどうやら主軸となるっぽい。どう転がるのか続きが楽しみす。

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γ. 諫山創 『進撃の巨人』 28 集英社

 壁の向こうから謎の巨人が襲ってくる序盤から、ナチス期ユダヤゲットーばりの描写を経由し外界へ接続した中盤以降への展開に関し、「そこまで想定されていたのか諫山創すごい!」という評価をそこそこ目にしてきたけど、個人的にはそう感じたことは一度もなくて、むしろ後付けでこれだけ精緻な世界設定を貫徹させる書き口に感心してきた。
 
 ジーク・イェーガー=獣の巨人の生い立ちめぐる回想で、この「後付けの巧緻」という心象はいや増して、やや大げさにいえば神話構造の原理のようなものを身につけたんだなとさえ。要は二項対峙が極まる場では、対極同士が同一化するっていうアレ。たとえば大塚英志原作の作品群に顕著なように、図式的理解からこの構図・配置を創作へ活かそうとしても、どうしても理屈先行の突き抜けなさが出てしまう。 
 一方、手塚治虫なり萩尾望都なりがそうであるように、あらかじめこうした原理を内面化しきった作者の描く作品は、おのずとその初めから神感(神話感)を具えることになる。『進撃の巨人』はそのどちらでもない、ようにみえる。そこが凄い。

 


δ. 久米田康治 『かくしごと』 4 講談社

 飼い犬導入をめぐるひと騒動。に、亡き妻(母)の生家が関わる謎展開。この謎は当初から本作を引っ張る謎の派生系だけど、ちょっとだけ煩く感じた。犬が四号で、祖先の一号が娘の母と関わる設定なのだけど、想像的に前提される二号と三号が今後登場するとも思えない。からなのか。なぜ“やや過剰”な感じを受けたのかも謎。
 基本日常描写や周囲の人物配置が面白いし、女キャラの描き分けは画だけで魅せる力あるから(こそ)、そこから距離のある試みにズレを覚えるのかもしれない。
 
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 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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