↑図録消化連ツイより:https://twitter.com/pherim/status/1257981803366723584
・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心
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1. 鈴木大拙 『日本的霊性』 岩波文庫
よろこびのをいいのもあさまし、
ざんぎのをいい、もとの山の水のをいいのも、
もともと海の水がをいいからよの。
ざんぎ、くわんぎの味もこれでしれるよ。
ざんぎ、くわんぎも慈悲のうみ。
これがろくじのなむあみだぶつ。 (272) 215
第四篇が面白ゆ。
四篇より構成される本書。日本的霊性の起源を古代へ遡る緒言 第一篇、仏教と日本的霊性の外郭を扱う第二篇、法然と念仏をめぐる第三篇、および妙好人道宗と浅原才市を語る第四篇。中核をなすのが第二篇で、これを第一・三篇が経緯的理論的に補完し、総じて本論部をなすといえる。
この流れに比し、より文学的熱情をもって記された第四篇は、単独で前三篇に対し合わせ鏡のように機能する。
わしのりん十あなたにとられ。
あとのよろこび、なむあみだぶつ。
りん十まだこの、このはずよ、すんでおるもの。
りん十すんで、なむあみだぶつ。
今がりん十、わしがりん十、あなたのもので、
これがたのしみ、なむあみだぶつ。 (262-3) 227
あえて言うなら、勘の良い向きには第四篇さえあればよく、第一・二・三篇はあまり読む必要がない。三篇までは直感をロジックで説明する動機に貫かれ、説明されればわかった気にもなるけれどこの水準の「わかる」はつまるところ浅ましく、理屈がつながるだけで中身は薄い。この意味では、道宗で弦を張り切り才市で空を貫く第四篇こそ、表現的に本体だとも言い換えられる。鏡に映るごとくなり。
わたしにあたつたなむあみだぶつ
こころにあたるなむあみだぶつ
あなたわたしのこころにあたる
こころにあたる弥陀の名号、なむあみだぶつ
わしのこころにあたつてみせて
あさましのこころにあたるなむあみだぶつ (240,241,269,270,319) 234
この「あたる」は、“「箭鋒相拄不須避」の端的”、“百尺竿頭に一歩を進めたとき、突如として予期しないもの、分別計較しないものに出くわすの義”と。補足説明がいちいち格好良いのが良い。
おなじ迷ひ迷ひといひましても、
迷ひが迷ひにをると、
ほうが迷ひにをるとの、ちがひがしてをります。
自力他力はここでわかります。 (260) 223
わしのこころは、あなたのこころ、
あなたごころが、わたしのこころ。
わしになるのが、あなたのこころ。 (241) 220
わしが阿弥陀になるじゃない。
阿弥陀の方からわしになる。
なむあみだぶつ。 (241) 243
とまれ自分も研ぎ澄まされた勘の持ち主ではないために、「本論部」による補強はありがたい。
矛盾であるから信が成立する、矛盾のないところに信はないとも言える。キリスト教神学者に「アブスルドゥムだからクレドだ(credo quia absurdum 背理だから、私は信ずる)」と言ったものがあるが、その通りである。親鸞の随順は信で成立する。信は非随順で成立する。これほどアブスルドゥムなことはない。霊性的直覚が分別智の定規で計られぬというはこの意味である。「念仏は無義をもて義とす」という、親鸞の念仏はここから出発して、初めて「よき人の仰せ」が成立するのである。 145
バカげてこそ人生よな。
即ちこれは自然法爾である、只麼の禅である、無義の義である、神ながらの道である、言挙げせぬことである、「ひたぶるに直くなんありける」その直心そのものである、「人間のさかしら」を入れない無分別の分別である。計較情謂を絶した、はからいなき赤き(赤裸々、浄灑々)心の丸だしである。()この大悲に包まれて、心は赤きを得るのである。 117-8
つねに他律背反可能なのが理屈というものである以上、理屈の通ることは何ら人間の正しさを担保しない。自分はひとより頭が良いと思っている類の馬鹿と話すのが疲れるのは、決まってこの点を譲らないことに全人生を賭ける勢いでのけぞりよるからで、逆に言うならどれだけ矛盾を抱え込んだ筆致を実現できるかにこそ発語の価値は懸かってくる。表現は算数の宿題ではない。
大地を通さねばならぬ。大地を通すというのは、大地と人間と感応道交の在るところを通すとの義である。中空にぶらりとさがっていては、天日の恵みも何もわからぬ。足が大地に着いていて、そしてその大地はまた、自分の手をなんとかして又いくらか加え得るものであるが故に、それを通して天日が感ぜられる。天の行動はかくして、大地によりて人間と交渉してくる。 45
「それゆえ宗教は、親しく大地の上に起臥する人間――即ち農民の中から出るときに、最も真実性をもつ」とつづく。「大宮人は大地を知らぬ、知り能わぬ。彼らの大地は観念である、歌の上、物語の上でのみ触れられる影法師である。」
そっかぁ、と言うしかない。大宮もまた大地だし、砂粒上のマイクロな表皮の一角に過ぎない点はまた別の話。やもしれず。
「寥々たる天地の間 独立、望み何ぞ極まらん」と言われるように、中心のない無限大の円環内に一人という中心を認得することの意味は、こんな矛盾的論理にほかならぬのである。それで孤独は絶対に孤独であって、しかも「春山は乱青を畳み 春水は虚碧を漾わす」のである。 136
いずれにしても随順ということを考えるには、倫理的即ち情性的に見る場合と、霊性的に見る場合とあることに留意すべきであろう。道元などの言う随順には霊性的なものを加えて見ないと、カトリック教の教団型の考えに陥る恐れがある。実際を言うと、後者にも霊性的なものはあるが、その見方が日本的霊性なるものと違っていると言っておきたい。 149
なお本項引用部末尾の(数字)は藤秀璻『大乗相応の地』1943興教書院の大拙による出典表記より。1943って意味深じゃあの。
よろこびの、歓喜の多いゝのもあさまし、
このあさましが慈悲のかがみにてらされて、
いまはかがみの中のかがみなり。 (244) 255
じゃあの。
2. 井筒俊彦 『イスラーム文化 その根柢にあるもの』 岩波文庫
シーア派は根本的にイラン的です。 188
イスラムを理解するための基本単語ハディースやシャリーアなどの一歩先にある、ウラマーとウラファーの対置とかハキーカなどの概念を整理するのに役立つ。なかでもスンニ派とシーア派、スーフィズムの三者対峙構図の解説は明晰で、これ以上シンプルにその差異を深く掬い取ることは至難に思える。「シーア派は根本的にイラン的」という上記引用部はこの箇所にさりげなく登場する。抜き出せばほぼ何も説明していないようなこの一句が実に多くを言い当てているのだけれど、ここではあとに続く「シーア派特有の内面志向がゾロアスター教の二元論的世界表象に寄る」旨の言及を例示するに留め置く。
時系列で概観すればシーア派の台頭はカトリックに対するプロテスタントの勃興にも似るが、宗教改革的に原理を強調する傾向自体にペルシャ性(地場性)をみる流れは面白い。(「この特質はイランの文学や美術によく表れておりますが、この点でイラン人は、感覚的で現実主義的なアラブと対照的です」200)
カイロ大学の碩学、故アフマッド・アミーン(Ahmad Amin)教授の言葉にありますように、「燦然と輝く宝石があたり一面にバラまかれている、しかしそれらの宝石を一つにつなぐ糸が通っていない」、つまり認識された事物がバラバラでみんなアトム的だということです。感覚的アトムとしての事物の集合、この特徴ある世界認識の様式に基く一種独特の現実感覚が、イスラーム文化のアラブ性という形で、この文化のなかに組み込まれていきます。 78
本の主旨とはべつに、井筒俊彦の文章はやはり良い。巷間の「日本文学史」を彩る多くの小説家たちの文章が単にねとねとしているのに比べ、井筒のほうがよほど文学的に端正とさえ感じるけれど、そこはもちろんあちきの感覚がズレおりよるのじゃろ。それで良か。
3. ホセ・リサール 村上政彦 『見果てぬ祖国』 潮出版社
フィリピンの国父的革命家にして作家ホセ・リサール、とは耳にするものの、その作品をめぐる言及に触れることはなかったため意識の死角に陥った存在。という領域は案外膨大に広がるものだし、その広さを自覚はできないのに視野の内のみで汲々とするわが日常の無意味を想わざるを得ないのは、ふとしたきっかけからそ広大さの一端を感覚し得たときだ。
映画『ノリ・メ・タンヘレ』(ふぃるめも136): https://twitter.com/pherim/status/1248094519410610177
今回の場合それはアテネ・フランセで起きた。御茶ノ水のこの場所では過去何度も起きてきたことだけど、これはこれで汲々とした日常のなかでは容易に軽視してしまう。そのことの残念さをコロナ禍による劇場そのものの休止により思い知らされる。ともあれ、ぎりぎり2月に開催してくれたフィリピン・クラシック映画特集上映の、望外の果実の一つが本作との出逢いだったのは確か。
司祭の力の源泉は、高価な僧服から発していた。首から下げた、青い珠の連なりの先にある金の十字架に発していた。司祭がその十字架に優雅な仕草で口づけるのは、彼の身分を保証するものへの感謝の意味だった。それは何なのだろう? 人々は「神」と呼んだ。()ダーマソには「神」が何なのかはわからなかったが、それが司祭に権威の後光を与えていることはわかった。ダーマソは司祭の真似をした。物憂く手を差し出す格好。間をとりながら低い声で聖書を読む仕方。しかし「神」の声は聞こえてこなかった。()
ある年、侍祭長が馬から落ちて首の骨を降り、数日後に死亡した。ダーマソは侍祭長になった。 215
植民地において官吏・軍隊さえも左右する圧倒的な権力を手に入れた、本作随一の悪役ダーマソ司祭の内実が明かされる終盤描写。ラスボスは、単に小狡さを必至に磨き続けただけの奴だったというOZ的な。
ところでかなり不思議なのが本著の書かれかたで、これホセ・リサール原稿の日本語訳にはなっていない。彼の主著『ノリ・メ・タンヘレ』と『反逆・暴力・革命―エル・フィリブステリスモ 』からこの方面の文学研究者村上政彦が翻案したもの、であるらしい。そのへん妙な体裁の本よなとは思ったけど、考えてみれば童話とかだとよくあるよね。5分で読む名作文学、みたいのよりは5億倍良心的なやつ。
で、現在Amazon中古本頁にて『ノリ・メ・タンヘレ』9800円、『反逆・暴力・革命』32000円。(どちらも岩崎玄訳/井村文化事業社)
なので、おとなしく本作を読む。地元図書館に『ノリ・メ・タンヘレ』はあったのでこれもやや言い訳めいてもいて、やや浅ましい動機ながら文量的にも軽く1/7以上には縮減されてそう、というのものある。まぁ電子化されるべき絶版書がされずにいる状況、の一ではある。
4. ラビンドラナート・タゴール 『わが黄金のベンガル』 内山眞理子訳 未知谷
よみめも57で冒頭に扱ったタゴール『迷い鳥たち』と同訳者・同出版社の同シリーズとして出版された詩集。しかしガツンと嵌った『迷い鳥たち』に比べ、こちらは不思議とほとんど引っかからない。どういうことかを考えるに、『迷い鳥たち』は端から「詩集」として読まれたものであるのに対し、こちらがいわゆるタゴール歌の「歌詞集」である点は大きいのかもしれない。
ところで本書末尾には、タゴール本人によるタゴール歌とバウルの関わりをめぐる論考「あるインドの民間宗教」の抜粋掲載があり興味深い。
天におわします神々でさえ、人間をうらやんでいる、とかれらは主張する。なぜか。神の意志は、愛をあたえることであるが、それに対して愛を返そうとする人間の意思があってこそ、それが完結するのだから。ゆえに「人間であること」は最上の真理を完成させるために不可欠な要因なのである。「無限のもの」は、それ自身の顕現のために数多くの「有限のもの」へとおりてくるのであり、「有限のもの」はその自己達成のために、「無限のもの」との一致 unity をもとめて上昇していかなければならない。そうしてはじめて「真理の循環 the Cycle of Truth」は完結するのである。 108-9
ここにおける、タゴールの訳したバウルの言葉自体は、その足下目線が本稿冒頭の浅原才市にも通じ、対して上記引用部で組まれるロジックの構成は前回よみめもで特集したボンヘッファーに極めて近く感じられる。ここからは才一を眼差す大拙の目線のタゴール≒ボンヘッファー的在りようが透けて見え、つまりはそのような仕方で投影されたこれは個としての私の抱える世界図なのだろう。
パルバティ・バウル『大いなる魂のうた』:https://tokinoma.pne.jp/diary/2889
川内有緒『バウルを探して』:https://tokinoma.pne.jp/diary/34
なお冒頭写真3枚目は本書所収の1905年の自筆元原稿「神意のさだめ」画像。付帯情報なしだと誤字を塗りつぶしたあとから発展した遊びのようにも見えるが、実際はこうした図案込みの創作で、これの経緯については次項丹羽京子『タゴール』↓に詳しい。
5. 丹羽京子 『タゴール』 清水書院
タゴールの事績と詩作の両面を概説する一書。大きめの新書版でこの「両面」志向では、どちらも中途半端感やむなしという感もあるが、詩作の核心へ斬り込むスタンスは潔く、文章も端正で良い。岡倉天心との交接などはスッパリ省かれており、要は事績に関してもっと知りたければ他書を読め巻末参考文献でガイドしちゃるという意図もしっかり反映された構成、卒がない。
「ベンガルの大地は歌う 『タゴール・ソングス』映画評」:
http://www.kirishin.com/2020/07/09/44017/
というわけでアウトプット↑でござい。まぁこういう時間のかけかたはできない時間が早晩来る。文末参考文献に挙げている『ギタンジャリ』他はよみめも次回以降にて。
6. 『高畑勲展 日本のアニメーションに遺したもの』 東京国立近代美術館 ジブリ NHK
高畑勲25歳時の『ぼくらのかぐや姫』案から78歳遺作『かぐや姫の物語』の展示順を踏襲しつつ、個別現場での格闘を遡行検証する叶精二の筆致は圧巻。アイヌ神謡ベース『ホルスの大冒険』’68の経緯が高畑の軌跡を象徴する感。
近美の矜恃溢れる質実構成。ハイジOPの輪舞スキップ場面での素描による足捌き確定、火垂るの墓終幕サクマ飴缶から幽霊目線への遷移絵コンテ、かぐや姫指先の筆尖表現の3箇所で涙腺微壊。こんな格闘の成果を、そうと知らず浴びるように摂取し育てられたことにあらためて感謝を。以下連ツイ↓
https://twitter.com/pherim/status/1180455848067264513
7. 五十嵐太郎 監修 『インポッシブル・アーキテクチャー』 埼玉県立近代美術館 新潟市美術館 広島市現代美術館 国立国際美術館
ザハ・ハディド排除へ至る新国立競技場顛末への憤怒に始まる五十嵐太郎論考が読ませる。(当該ザハ展示↓RT先連ツイ末尾) 後段言及の福岡五輪案by磯崎新など東京五輪’20より格段に射程が広く胸熱。文圧芳醇なる一書。
表紙が年表っていうのも展覧会趣旨をよく反映しており巧い。
目玉はやはりタトリン《第3インターナショナル記念塔》をはじめとする非実現系建築の巨大模型群。物量から受ける体感は本やネットからは得がたく、足の運び甲斐あった。質実な展示構成で映像作全編鑑賞、付帯文章も全て読む。以下連ツイ↓
https://twitter.com/pherim/status/1108145356095647744
8. 『人、神、自然-ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界』 東京国立博物館
バクトリアのカーネリアン象嵌、サルマタイのターコイズメダイヨン、金錯青銅、エレクトラム。大文字の歴史でなく、眼前する具体物の煌きが仄かに響かせる呼び声の、頁をめくる指への触感。
東洋館特別展、別料金の企画展でなく学芸員渾身の所蔵品展でもないため舐めてましたごめんなさい。瑪瑙の目模様、エジプト職人渾身の黒釉、ラピスラズリ巨大杯、赤碧玉、翡翠面……めっちゃ良い。(語彙ェ
https://twitter.com/pherim/status/1272776131406516227
9. 井上宏生 『日本人はカレーライスがなぜ好きなのか』 平凡社新書
S&Bやハウス食品など各々の変遷や、戦時中の「カレー」をめぐる紆余曲折など諸々面白い。英国式伝統のただよう海軍内では海軍カレーの基礎が培われるさなか、市中では「カレーなど鬼畜米英のもの」と語の使用すら攻撃されていた(「辛味入汁掛飯」で代用)など。あと中村屋のボースに関しては、カレー発祥ではなく本格インド・カレーの導入だったのね、なども。
終盤顕著になる、著者本人の欧米コンプレックスを日本全体へ投影したような語り口は共感できず、「日本」を主語にした東南アジアへの偏見炸裂エンドはかなり勿体ないものを感じたが、2000年発刊の新書だとたしかにこの感覚が一般的で、著者本人の価値観はともかく平凡社新書の売り口として妥当だったのかもしれない。
美容室ATOM蔵書よりご恵贈の一冊、感謝。
10. 『CROSSCUT ASIA #6 ファンタスティック! 東南アジア』 国際交流基金アジアセンター
池澤夏樹、乙一、四方田犬彦、永瀬正敏(Interview)など寄稿。国別をやめた#4、#5と薄い冊子なのにとっ散らかった印象を拡大させてきたが、今号はホラー中心に中堅監督へ標準した、締まった内容。個別の監督に興味をもっても作品が観られないのではあとが続かない状況も、コロナ禍でちょっとは改善されだした感。オンラインと劇場上映を対立項で考えるのがそも前時代的なんだよな。
▽コミック・絵本
α. 高野文子 『黄色い本』 講談社
なんかもう、ほんとにすごい。薄く少ない描線に、幾重にもふくよかな薫りがのる感じ。でこのひとの履歴みると、新潟で看護系の学校出たあとデビューしてるのね。そのあたりの遠回りが固有の風合いへ結実してる豊かさに一抹の切なみあり、そこで漫画へ結実してくれたことへのありがたみあり。
「ジャック・チボーという名の友人」という副題は、ロジェ・マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』より。表題作「黄色い本」は、その表現性の優しい孤高ぶりにおいてふつうにベスト・オブ・ザ・ベスト、ですの。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
β. 瀬野反人 『ヘテロゲニア リンギスティコ ~異種族言語学入門~』 1 KADOKAWA
獣人棲まう異世界を探訪する言語学者が主人公の本作、コレはヤバい。装丁を『ダンジョン飯』へあからさまに寄せているあたりに薄くただよう、「飯」を「言語」に組み換えた二番煎じの予感は裏切られ、まず絵柄が非常に良い。キモカワな獣人たちのキャラ立ちも、浅めの和み描線もきっちり作品世界の穏やかさとマッチしていて、説明過剰の硬さへの傾斜を抑えている。これにストーリーテリングと世界設定の巧さが加われば『乙嫁語り』級に化けそうだけれど、そこは化けなくても良いからできるだけ深く掘り下げ長く続いてほしいとぞ思はれ。
異世界転生物とかクリシェ化したアニメや漫画やラノベは正直うんざりなのだけど、本作がそのうんざりの山あってこその煌めきであることは間違いなく、この鉱脈はまだまだ汲めども尽きせぬなと感じる。そして尽きた頃にはきっと中国鉱脈が発掘されているのだろう。その先のインド中東鉱脈とか楽しみで仕方ないけど、あと何十年かかるかね。目撃・探訪したいとぞ。
2巻(ふぃるめも62) https://tokinoma.pne.jp/diary/4004
2巻のメインエピソードとなる、異種族間での橋の共同建設の過程は、のちにインド北東部ドキュメンタリー『森の奥のつり橋』鑑賞中強烈に想起され。
『森の奥のつり橋』連ツイ https://twitter.com/pherim/status/1336498762160586753
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
γ. 芦奈野ひとし 『ヨコハマ買い出し紀行』 1 講談社
横浜関内が水没したあとの終末ヨコハマ世界を舞台とするSF名作。ある程度にしても土地勘の効く場所の《水没後》という設定が働かせる想像の楽しさは半端なく新鮮で、このベースの上で主人公(に今のところみえる)のロボねえさまが今後どんな展開を見せるのか楽しみで仕方ないし、どんな展開であれこいつぁ聞きしに違わぬ名作じゃわ感が1巻にして確定した。こういうのを少しずつ読み繋げられるなら、あとのことはどうあれそれなりの人生じゃないのというレベル。(すなわち神)
以下は去年の漫喫&ゲオレンタル一気読みにて。
δ. 南勝久 『ファブル』 1-7
はじめ青年誌マンガにありがちなキザで陳腐な情念描く苦手作品系の印象もったけど、表現の外面と内実がだいぶ違う。主人公の立ち回りにしてもコマ割りにしても明晰な自覚を伴う遊びに溢れ、これは読ませる。
ε. 花沢健吾 『アイアムアヒーロー』 19-24
まず『アイアムアヒーロー』、終盤の池袋詳細描写はマジに眼福。渋谷新宿に比べ溢れるダサダサ感こそ、『デュラララ!!』とか『池袋ウエストゲートパーク』とか時々登場する入れ込み感ある池袋描写の豊穣の根っこかもね。
ただ18巻前後の海外展開篇でみせた昇華度に、これ凄いとこ行くのではと期待した分、物語の締め方自体は尻切れトンボ感拭えず。チャラ男系の新興宗教教祖とか銭湯のおばちゃんアマゾネスとか面白いとこ突いてるのに、造形を活かし切る前に終わってて、終末SFにありがちな閉じられ方もピンと来ない。要は作者がこの世界観に飽きたのでは、とさえ。とはいえ存分に楽しめたし、この水準から次に何見せてくれるのかwktkだし、花沢健吾一層研ぎ澄まされたよの。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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