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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2020年
09月30日
23:59

よみめも61 ディザインズ・ノート

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心


 ※バンコク移住後に始めた読書メモです。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。批評とかでなくメモ置き場です。よろしければご支援をお願いします。
  Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV




1. ラビンドラナート・タゴール 『ギタンジャリ』 森本達雄訳注 第三文明社

 歌う歓びに酔いしれて、つい我を忘れ、わたしは わが主なるあなたを したしげに「友」と呼んでしまう。 31(ニ)

 「あなた」は人格神的でもあるが基本「世界」。しかし訳者の森本達雄さんがクリスチャンで、おそらく『ギタンジャリ』が初めから英語で書かれたこともあるのだろう、他のことばの表現性にくらべ、そこだけ人格神のほうへ寄り過ぎている気が若干する。とはいえ彼本来のベースであるベンガル語の語感や読み味はまったくわからないので、なんともいえない。

 わが師よ! どうしてあなたが そのように歌えるのか、わたしにはわかりません。わたしは いつも 驚きのあまり 黙って耳を傾けています 31(三)

 2020年初頭、重い腰をあげタゴールを読み出したら、映画『タゴール・ソングス』試写の知らせが入り込む。新型コロナ襲来で映画公開が遅れるなか記事執筆のタイミングも遅れ、結果として色々読んだし考えも深まった感ある。

  拙稿「ベンガルの大地は歌う 『タゴール・ソングス』」:
  http://www.kirishin.com/2020/07/09/44017/


 実は『タゴール・ソングス』試写での初見時、常用携行するバックパックのなかには本書を忍ばせていた。が、森本達雄さんについて初めて意識したのは、当の『タゴール・ソングス』監督・佐々木美佳さんから後日詳しくインプットをいただいたことが機縁となった。

 ここ1,2年は縁あってバウル(ベンガル独自の宗教民謡)奏者の生の圧力に触れる機会などもあり、ベンガル初訪から四半世紀を経てもろもろカタチになりだした感。あいかわらずのトロさである。
 (ちなみに学生時代の終わり、ゆえあって茂木健一郎さんからはトロのあだ名で呼ばれていた。と、茂木さんが竹田恒泰本を褒めるYoutube動画を見かけてしまった朝かきつけてみる。しれっとdisputable matter乗り越えてくスタイル変わってないの)

 あなたから離れて お顔が見えなくなると、わたしのこころは 憩いも 安らぎも忘れはて、わたしの仕事は 寄るべない苦海の 涯しない苦役になります。
 今日、夏が 歎息と囁きをたずさえて わたしの窓辺にやって来た、蜜蜂たちは 花咲く森の宮廷で さかんに吟詠をかなでている。
 いまはただ、あなたと向かい合って 静かに坐し、このみちたりた静寂に 生命の頌歌をうたうとき 33-4(五)


 タゴール&バウル関連過去よみめも(言及のみは他にもあるが省略):

 よみめも57 ラビンドラナート・タゴール『迷い鳥たち』 https://tokinoma.pne.jp/diary/3655
 よみめも59 丹羽京子『タゴール』 https://tokinoma.pne.jp/diary/3877
 よみめも59 ラビンドラナート・タゴール『わが黄金のベンガル』 同URL↑
 よみめも43 パルバティ・バウル『大いなる魂のうた』https://tokinoma.pne.jp/diary/2889
 よみめも26 川内有緒『バウルを探して』


 ちなみに本書、アイルランドの詩聖W.B.イェイツによる序文がむやみに熱い。俺イェイツ、ダチにプッシュされ読んでマジ爆発、英語で書ききるベンガル兄貴ゲキ胸熱、世界の海辺で戯れ遊ぶこの聖者ガチリスペクツ、みたいなことライムってる(意訳)。過去にも述べたのでこれ以上は触れないけど。
 以下は訳者解説より。 

 タゴール一行は六月十六日にロンドンに到着、ホテルに投宿したが、そこではだれもが「目に見えない不安という圧力に操られている」人形のようで、「ベルが鳴ると、人形たちは一斉に食堂へ行き、新聞をひろげて顔を隠したまま食事をとり、機械的に時計を見てとびあがり、ひょいと帽子を頭にのせて、たちまちのうちに姿を消す」のだった。 167
 
  漱石とエンゲルスのロンドン(拙稿「中国、その想像力の行方と現代」最終部言及)
  http://www.kirishin.com/2019/11/27/39116/
 
 これらの抒情詩は――インド人の友人たちから聞くところでは、微妙なリズムと、翻訳しがたい色彩の繊細さと、韻律の相違にみちているということだが――その思想のなかに、私が一生涯つねに夢みてきた一つの世界を顕している。最高の文化の所産でありながら、しかもそれらの詩は、雑草や燈心草のように、共通の土壌の産物のように思われた。 171





2. 大江健三郎 『ヒロシマ・ノート』 岩波新書

 心に刺さる箇所は数あれど、メモへ残す必要を今は感じない。深く刺さりすぎているからだ。
  
  旧日本銀行広島支店建築(1936年)探訪連ツイ(案内by吉村昇洋和尚):
  https://twitter.com/pherim/status/790864159244115968

 それにしても、と思ってしまう。原爆の後遺症による白血病を隠して24歳まで最期の2年を印刷工場で働くことを選び、20歳の婚約者を遺して死んだ青年と、青年が世話になった人々に礼を言って回った翌日に自ら命を閉じた20歳の婚約者女性の挿話直後につづく、エノラ・ゲイに先行して45年8月6日に広島上空を飛んだ観測機の機長がテキサス州の郵便局を襲撃して逮捕され、精神錯乱で無罪となったというたった3行半の記述(155-6)がつくるコントラストの妙。ドキュメント価値とは別に、証言者寄稿集成の類いとはこういうところで差がついてしまう。
 
 被爆した若い妻には異常児を生んでしまうのではないかという不安とともに、出産後、自分自身が原爆症を発して死亡するのではないかという不安もまた濃く存在するのである。そして、それでもなお、このハイ・ティーンの娘は恋人をえて結婚し、出産したのだった、このような絶望的なほどの勇敢さ、それは人間の脆さと強靭さに、ともにかかわって、真に人間的だというべきであろうと思う。 47

 生むという強い決断。仲間たちが続々と命を落としていく日々のなか貫かれるこの強靭さに、あるシリア女性の生き様が想起された。
 
  拙稿「紛争地に響く痛切な祈り 『娘は戦場で生まれた』」
  http://www.kirishin.com/2020/03/10/41757/


 ゆえにこれは、75年前の終わった話などでなく今なお、きょうこの瞬間にもこの星のどこかでつづく光景なのだ。そんな当たり前のことを、当たり前のように忘れていく蒙昧さにすこしでも抗う術の一粒として。
 
  原爆消失した中島本町と『この世界の片隅に』におけるその再現:
  https://twitter.com/pherim/status/883170559197986816


 あとはそう。そうか、30歳でこれを出版したのかという。これはなんだろう。
 怯え? ではないはずだけれど、初めに浮かんだ語はそれだった。
 



3. レイモンド・カーヴァー 『大聖堂』 村上春樹訳 中央公論新社

 彼は受話器を顔の正面にかざした。彼は妻の声が洩れてくるその器具をまじまじと眺めた。
「ねえカーライル、物事はあなたにとって良い方向に流れているのよ。私にはそれがわかるの。あなた、私の頭がおかしくなったんじゃないかって思っているでしょう?」と彼女は言った。 301「熱」


 収録短篇13作中3篇は、20年以上前に別の短篇選集で読んでいた。が、まったく忘れているだろうと思って読み進めると、意外に覚えている。というか「要所はきちんと覚えているものだな」とさえ感じたのだけど、そのように覚えていること自体を読まずには思い出せない意思性、のようなものに想いを馳せる。(遠い目)
 
 という印象は最終章に位置する表題作「大聖堂」を読みだしても変わらなかったが、最後の一行でその印象は衝撃的に崩れ去った。「大聖堂」はある夫婦の家を、妻の全盲の友人が訪れる一夜を描くものだけれど、その印象変化はやはりどう考えても、この20年のあいだに全盲の知人(友人というにはおこがましさも感じる距離と歳の差がある関係だけれど、自分の言葉遣いでいえば友人となるような)との交流をもったことが影響していて、感性そのものは20年前のほうが全方位的に鋭く敏感であったはずなのだから、他者の強度というものはつくづく乗り越えがたいのだなと。当然の話、かもしれないけれど。
 
 わかったわ、ウェス、と私は言った。私は彼の手を私の頬にあてた。それから、どうしてだろう、私は十九の歳の彼がどんなだったかを思い出した。トラクターに乗った父親に向かって、畑を横切って駆けていった彼の姿を。父親は目の上に手をかざして、ウェスが自分の方に駆けてくるのをじっと見ていた。 71-2「シェフの家」

  『新しい街 ヴィル・ヌーヴ』: https://twitter.com/pherim/status/1306587087081058309


 村上春樹による各篇解説も良い。たとえば上記3篇の1、「ぼくが電話をかけている場所」をめぐる解説中の(“ぼく”が電話をかけている)「この療養所はまさに魂の暗い辺境である」(424)とか。
 あと、ひとたび春樹の手にかかると、カーヴァーの登場人物でさえ「やれやれ」と呟くのか、など。




4. 綿野恵太 『「差別はいけない」とみんないうけれど。』 平凡社

 しかし、「ポリティカル・コレクトネス」を全体主義のイメージに結びつけた保守派による攻撃は、ある点では真理を突いていたように思われる。()言論を政治思想によって統制するという点では、ポリティカル・コレクトネスも全体主義も同じだからだ。()「政治的に正しい」表現を求めて、「秩序ある社会」という「見かけ」を維持するために、法による規制やアーキテクチュアの設計によって、ヘイトスピーチやポルノグラフィを、あらゆる公共空間から排除しようとする態度は、まさにスターリニストにほかならない。しかし、ブレヒトが偉大なのは、「言語の官僚制の一典型たるスターリニズム」に批判的でありながらも、共産主義という大義に忠実な、「政治的に正しい」人物だったことである。ブレヒトがこれらの問題に直面した一九三〇年代とはまさに、本書で繰り返し指摘した「自由主義」と「民主主義」の対立が激化した時代だったが、その対立のさなかにはスターリニズム(官僚制)にたいする闘いもまた存在していたのである。 314-5
 
 キレッキレである。タイトルやもてはやされるムードから、もう少しフワッとした本かと思っていた。自分なりに本書テーマを解釈すると、言葉は目前の事象を区別するけれど、当然ながら言葉自体は差別しない。区別と差別の違いは個別の価値観に基づき表面化する関係性の格差そのもので、この価値観は徹頭徹尾“個別”的なので、論理的にはすべての「区別」が「差別」たりえ、したがって論理はこの問題を解消しない。ただ論理性のもつ本来的な資質によって、個別性が生む断絶を多少は架橋し得るのだし、その努力は怠るべきではない。(という価値観を私はもつ、ような気がする)

 ちなみに下記拙稿における第4段落“軽い”障碍者と“重い”障碍者の相克のくだりは、本書208頁の江原由美子『女性解放からの思想』からの引用文を元にしている。江原由美子は女性学・ジェンダー研究の泰斗だけれども、その文章の明晰度はやや学者離れしたものを感じさせ、『争点としてのジェンダー 交錯する科学・社会・政治』購入へ至る。(たぶん次回よみめもで扱う)

  拙稿「好きとむずかしさのあいだ 映画『友達やめた。』 今村彩子監督インタビュー」:
  http://www.kirishin.com/2020/09/20/45250/


 以下、気に留まった箇所のうち幾つかを、トリガーとなる文節のみメモる。

 この「潜在的バイアス」は、「保持者自身すら保持しているという事実に気づ」かず、「それを保持する人からは隠されて意識の外で機能する」 171
  
 言説が合理的であるかどうかは、その言説が差別的であるかどうかを決定しない。差別かどうかを決定するのは、「市民」としての「尊厳」なのである。 199

 「市民」の「尊厳」が侵害されたときの感情は「不快」なのだ。ウォルドロンは、ヘイトスピーチ規制法は、ひとびとの「尊厳」を守るものであって、「不快」から保護するものではない、と注意をうながしているが、感情レベルの「不快」がつねに問題にならざるをえない。()
 しかし、規制の根拠が「安心」と「不快」という感情に拠っていることが、ポリティカル・コレクトネスをめぐる分断をより強固にする、ともいえる。 146
 
 ヘルマンの理論は、()差別とは、「貶価すること(demean)」=「他者を不完全な人間として、または同等の道徳的価値をもたない者として扱うこと」であるという。つまり、いかなるアイデンティティを持つ者にもそれぞれ固有の尊厳があり、その尊厳を貶めるような行為が差別である。 198
 
 私たちは道徳がないから差別をするのではない。私たち人間集団は「利己的な理由から、ある道徳的価値観を他の価値観より支持する場合がある」という「道徳部族=モラリスト・トライブス」であるがゆえに、差別につながってしまうような言動をしがちなのだ。 235
 
 差別を禁止する法の制定は、ヘイトスピーチなど明確な差別表現には有効かもしれないが、反差別運動が法の根拠やその正当性じたいを問い直す運動だったことを考えれば、差別を禁止する法とは矛盾でしかない。 245
 
 ジョシュア・グリーンらは、()「どんな犯罪者の犯行も、我々すべての行為も、自らのコントロールの外にある諸原因によって決定されている」のだから「決定論的世界において犯罪者にたいする応報主義的な態度は的外れであり、我々の適切な態度はむしろ憐れみ(と必要に応じた隔離)である」と指摘している。 255-6

 しかし、ヘーゲルにおいて君主は「調整」ではなく、「決断」をおこなう。その「決断」は「君主はただ「然り」と言って、画竜点睛の最後のピリオッドを打ちさえすればいい」とされる。
 ()法制史学者の堅田剛も、「御名・御璽」が「ピリオド」であり、「ヘーゲルの《点》(=ピリオド)問題は、こうして現代日本の憲法にまで飛び火することになる」と指摘している。 294


 タイ現国王をめぐる若者世代の反発に関連し、最後の引用項とからめ近日忘れなければツイート予定。 

 また冒頭引用箇所周辺については、11/14日本公開のソヴィエト&ナチス現代史物『国葬』『粛清裁判』『アウステルリッツ』の関連記事執筆にあたり参考文献採用の所存。
 
  拙稿「【映画評】〝群衆〟の鮮烈、沈黙とそのリアル。 セルゲイ・ロズニツァ《群衆》ドキュメンタリー3選『国葬』『粛清裁判』『アウステルリッツ』」:
  http://www.kirishin.com/2020/11/16/46169/





5. 美馬達哉 『生を治める術としての近代医療―フーコー『監獄の誕生』を読み直す』 現代書館

 殊フーコーに典拠を置く「生政治」とか「生権力」といった言葉が飛び交う局面では、「身体」の語が安易に使われがちでしばしば反吐が出る。これは文脈上「生」ではない「政治」「権力」との対置において機能する「生政治」や「生権力」の語が単なる空集合化するからで、結果として「身体」もまた虚しく響きだす。例えば、男子校出身者のみで語られる「女」を想像すればわかりやすい。あるいは自嘲の素振りで己の愚鈍を近しい異性へ転嫁する「だめんずウォーカー」のノリだとか。どだい「内面」もまた言葉に過ぎないのだから、この筋で内面の統御を語り空気やノリを超えた共有を図るなら、医学的語彙が前面化するのは自明の理だろう。よって医師の書く本著の説得力は半端なかった。
 
 個別の具体例がとにかく面白い。例えば全身麻酔のうえ片手が盗まれたと片手を切り取られた本人が主張しても、その所有権を当人に認めることは法学上難しく、またもしそれを認めれば身体部位の売買主権を個人に認めることになり政治的にも難しいという話(39-40)など、外枠だけ聞かされればトンデモだけれど、いざ詳述されてみればそれはそうかもと納得するしかない。手術時のクロロフォルム使用は、麻痺により神経を支配するが感覚機能は残るため、実は痛みの感覚はより先鋭化していて、ただ神経の麻痺により感覚記憶の痕跡が残らないだけだとする生理学者の躊躇(137-8)など、ほとんどホラーとして読める。

 かつて、フーコーは『言葉と物』のなかで、近代における「人間」を、言語・労働・生命に関わる三つの知(言語学・古典派経済学・進化論的生物学)によって作られた三面角のなかの仮構の焦点として描いていた。 119
 
 に始まる、《言語》=近代的理性に基づく統治・啓蒙→パレーシア(真実を率直に語ることを意味するギリシア語)への関心
 《労働》=マルクス主義的社会変革の理念および闘争と歴史発展の原動力、の衰弱による第三項《生命》への構想という整理は秀逸。

 羊飼いはキリスト教ではイエスの象徴である。したがって、ここでフーコーは、キリスト教中世の宗教的権威が人々の救いに奉仕すると主張しつつも、じっさいには政治経済的な支配機構の一部となっていたことを念頭に置いている。()同様な権力のあり方が、東アジアでは、支配者自身も秩序に従うことで国家が安定するという「修身斉家治国平天下」という儒教イデオロギーとしてあらわれている。酒井直樹は、一人一人の国民が慈愛深い天皇と向き合う「一視同仁」という想像を通じて国民共同体を生み出した日本の天皇制が、司牧の権力と同型であることを指摘している。 101 (このあと酒井によるフーコーのオクシデンタリズム批判へつづく)
 
 また個別の医療技術よりも公衆衛生など社会的要素に影響されたと考えられる「結核死亡率の低下は抗生物質の発見よりも時間的に先行している」(135)等の指摘など、コロナ禍にガチ通底する箇所多し。
 1918年のインフルエンザ流行の際、南アフリカの鉱山労働者に対しなされた強制収容への反発から「アフリカ精霊教会」なるキリスト教分派の活動が活発化したという指摘(148)も興味深い。この単語で検索すると1990年代にも類似の分派拡大があり、その根には病気治療をめぐる西洋医術と在来精神文化との抗争があるらしい。
 
 なおインフォームド・コンセントをめぐる一節(175-180)は、下記拙記事の引用/参考元とした。
 
  拙稿「心の真実と優しい嘘」映画『フェアウェル』をめぐって:
  http://www.kirishin.com/2020/09/27/45371/

  
 


6. 綾屋紗月 熊谷晋一郎 『発達障害者当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい』 医学書院 

 受動的な「感覚」から主体的な「行動」へ出るまでのあいだに横たわる茫漠とした広がりと、深い谷底。この広がりがないかのように振る舞う世の人々への、怯えにも近い憧れ。なぜこの谷底をみんなは軽々と超えられるのだろう。いや軽快にみえるだけで、本当はみんなとてもつらいのだろうか。大変な思いをして飛び越えている結果を軽く受け取ってしまう、自分に問題はあるのだろうか。
 
 うぐぅ……とつらくなると、まず、三センチぐらいの厚さでぶよぶよしたビニール上のフィルターのようなものがサッと目の前を覆い、水中にいるかのように視界をぼやけさせる。このフィルターは単に視界を覆うだけではなく、同時に頭を重くぼんやりとさせる。ものがうまく考えられず、時間が止まるような感じだ。体が緊張で固まって縮こまる感じで、景色がすべて上から下へ一瞬で白くなり、全面が白い内壁になっている六畳程度の冷たい部屋にいるような状態になる。 84
 
 水中とあるので水色っぽいイメージで読むひとが多いだろうけど、自分の場合これに近い状態に襲われると世界は基本暖色系へと染まる。対人関係の緊張や感覚飽和、行動のフリーズがもたらす体験の主観描写が、とにかく凄い。“自閉圏の例としてよくあげられる「首にタグが触れチクチクして耐えられない」という感覚は、誰にでも当たりまえのことだと思っていた”(60)とはその通りで、個別には誰にでもあるゆえに理解や共感もある程度可能だとしても、これらが汎日常化した《感じ》こそが決定的だし、ここまで明瞭に記述するに至る人から「あ~わかる~」で終わる人までの隔たりは果てしない。
 
 器官的に喋ることは可能だが、実践的に難しいから、著者(綾屋)は若い頃から手話を覚えてコミュニケーションに使っているという。なるほど本当に困難だとそうなるのかと、至極納得のゆく道筋。てかまじ、なんでわざわざ背骨の突起部に当たる箇所にタグとか縫い付けるんだよって思ってたけど、気にならない奴のほうが普通なのか。まじか。取り外しミスって穴の空いたシャツとか無限にあるよ。
 
 ともあれ、歌や音に動きを合わせる意味がわからずにいた脳性麻痺の熊谷さんと、映画のダンスシーンに合わせて二人羽織のようにして手とり足とり動かしたら出てきた台詞、
 
 「ああ、楽しい。こんな感じなんだね。映画の世界が近くになった」 212
 
は、しみじみと良い。

  
 

7. パオロ・ジョルダーノ 『コロナの時代の僕ら』 早川書房

 僕らは自然に対して自分たちの時間を押しつけることに慣れており、その逆には慣れていない。だから流行があと一週間で終息し、日常が戻ってくることを要求する。要求しながら、かくあれかしと願う。 28
 
 カミュ『ペスト』とならび、日本でコロナ読書ブームの先駆けを飾った一書。ただこちらはネットが先行したため、出版物としては若干遅れ、その数週間の遅れの間にも状況は大きく転じ、半年後の今では同じ文脈を「だから流行があと一週間で終息し」などと表現することはおよそ困難な世界へ突入している。
 
 「科学における聖なるものは真理である」 哲学者のシモーヌ・ヴェイユはかつてそう書いた。しかし、複数の科学者が同じデータを分析し、同じモデルを共有し、正反対の結論に達する時、そのどれが真理だと言うのだろう?()疑問は科学にとって真理にまして聖なるものなのだ。今の僕たちはそうしたことに関心が持てない。専門家同士が口角泡を飛ばす姿を、僕らは両親の喧嘩を眺める子どもたちのように下から仰ぎ見る。それから自分たちも喧嘩を始める。 80-1

 大学院で素粒子物理を専攻した作家との由。文章の端正さはたしかに心地良く、この書き口は他の本もちょっと気になる。全体的に平易ながら、わかりやすさを前提にした捨象と切り詰めの技に光る匠さあり。

パニックはこの手の悪循環から発生する。発表された数字が原因ではない。
 そもそもパニック(panic)とは、ギリシア神話のパン神(Pan)のいわば自己循環的発明だ。この神には時おり物凄い叫び声を上げる癖があり、その凄まじさときたら、本人まで自分の声に驚き、震え上がって逃げだすほどだったという。そんな神話に由来する言葉なのだ。 92-3


   


8. なかのひとよ 『あなたへ #100_MESSAGES_FOR_YOU』 うえむら 絵 セブン&アイ出版

 目の前にひろがるこの景色は
 あなたの信じる力によって
 創られているのよ

 
 どうしてそういうルートをたどったのか覚えてないけれど、Amazonで本書が1円で売られているのをみて、数日してから買ってみた。著者はサザエbot(@sazae_f)のなかのひとで、自分がツイッターを始めた2010年には、フォローしてなくともたびたびTLに現れる、いわゆるアルファ・ツイッタラーの一人だった。東日本震災で日本のツイッター人口が爆増する前夜のことで、各々がみたいものしかみない(みえない)TLのなかに閉じこもる今のSNS構造とはかなり異なる、牧歌的な雰囲気がまだ残っていた。

 ひとは誰もが孤独だけれど
 誰もが孤独であるという点においていえば
 誰ひとり孤独ではないのよ


 ツイッターTLの拡散により、知らないうちにカリスマ化し、欧州のカンファレンスに呼ばれTED関連で喋りなどしたのち、六本木の《#ブラックボックス展》が炎上してその活動は実質終わった。

  《#ブラックボックス展》:https://twitter.com/pherim/status/883385291553124352

 上記リンク先はpherimによる感想ツイだけれど、当時は今ほど映画垢化しておらず美術関連のフォロワーが結構いたにもかかわらず、いいね2件という塩反応に終わっている。とりわけ美術クラスタの人間たちからは《#ブラックボックス展》は非難轟々だったのだが、その空気自体にみっともなさを感じていた。本来君らがすべきことをできず、六本木のど真ん中で出し抜かれた奴が躓いたら一斉に嗤うんかいという。申し訳ないけれど、制度に乗っかって「美術」やってるだけの無自覚さもなくウエメセで裁いてしまえる人らより、すくなくとも表現者としての格は上だし、それくらいわからないわけでもないからこその嫉妬がにじみ出てしまう、ように思えた。

 戸惑いを一瞬で
 取りのぞく方法を教えてあげる
 覚悟することよ


 事件後放置されたままのサザエbot(@sazae_f)をみると、粘着匿名アカウントの中傷が並んでいるのだけれど、そのなかに本ツイート群がパクりだとするものが目に留まった。エピグラムとかアフォリズムみたいなものを、パクリ目線で個別に判定する不毛をおもう。
  
 家庭や学校や職場の仮面をはずし、人間関係や肩書きや思い出を切り離し、これまでに観察してきた情報と、刷り込まれてきた常識、貼り付けられてきたレッテルをすべてはがし終えたときに浮かび上がる、あなたの名もなき姿。あるいは誰も見ていないときに行う、あなたのひそやかなる行為。実はその姿や行為にこそ、あなたの暮らす世界そのものが、そしてこれから訪れる未来のゆく末が映し出されているのです。 140

 「これからも美しい理を歩み続けていきます。」と本書は締められる。
 きょうもどこかを歩んでいるといい。
 
 


9. スティーヴン・ガイズ 『小さな習慣』 田口未和 訳 ダイヤモンド社

 習慣づくりを、子どもに自転車の乗り方を教えるようなものと考えてみてください。()どこかの時点であなたは手を離しますが、子どもは自分の力で走りだします。これと同じように、最初のうちは運動のあと、脳に付け足しの褒美を与えておきますが、やがて脳は満足感とエンドルフィンだけでも十分だと感じ、その行動を続けられるようになります。脳はこうした二次的な報酬の価値を学び、多くの面でそれが糖分たっぷりの褒美より好ましく効果も大きいと気づくのですが、それには時間がかかります。 174

 腕立て伏せ1日1回の目標を達成することの、意外にも奥行きある効能。それってつまり、心的負荷の見積もり違いにあるのかもねとは思う。最初の1行を書くことのほうが、1000字を書くより遥かに難しい、なんてことは日々繰り返しているのにもかかわらず、ね。 
 だから「小さな習慣は全部合わせても10分以内で終わるもの」(p130)にすべきというのはよくわかる。

 目標以上を達成すると、潜在意識の脳は新たな期待値を設定します。()そうならないように、自分の毎日の目標は変わっていないのだとつねに意識しなければなりません。()あなたは本当に自分の小さな目標を達成しようとしているでしょうか。目標がいつのまにか大きくなってはいないでしょうか。大きな目標は拒んでください。目標は小さなものに保ち、それを上回ればいいのですから。 196-8
  
 「ライフハック」という、言った瞬間唇に寒気を覚える流行語もよく示すように、書店で平積みされる類の自己啓発本などの唱える思考様式は一見自身を対象化しツール化するようでいながら、その自身の欲望だけは無条件の前提とすること自体が自ら限界を設定しているようなところがあり、そういうことに気づくこともなく馴染める人々こそ正常であり世間なのだ、ということを本書の具体内容とは別に少しおもった。
 
 
 
 
10. 井上久美 『中学英語で話せるようになる6種類の口ぐせ』 アストラ

 One thing at a time. 173

 パラパラとめくったのと、実際に読むのとで印象のまったく異なる一冊。新規習得フレーズの幾つかでもあればよいかなと手にとったけれど、クリントンらの出席する場の同時通訳ブースに入る第一線の通訳者の人生語られる“余談”部こそ読後感的にはどうみても本論で、ラジブ・ガンディーだのモーガン・フリーマンだののプライベートなエピソードが次々に語られ読ませる。

 Think out of box.186

 ポリグロットの秘訣は多感覚同時使用で、ビジュアル音読が有効とか前半の実践面は実力の下地ゆえの説得力に充ちるし、後半はもう自己啓発書の勢い。「建国200年で世界最大の超大国になったアメリカの精神が、こうしたことばのなかに生きています。」(162)は、たしかにあるかなと幾らか思える。

 Hit the slopes! 183

 すでに故人だが、最後には自身の癌さえも教材例化する熱さ。こういう人がいたんだなと。

 The only thing constant in life is change. 184

 美容室ATOM蔵書よりご恵贈の一冊、感謝。 




▽コミック・絵本

α. 冬野さほ 『ツインクル』 マガジンハウス

 幼児心性の煌きを、五十嵐大介や松本大洋を薄く速描化したような絵柄で表現し、破綻なく物語を綴じられる稀有の才能。鋭い懐かしさにとらわれつつ、先行例がはっきりと思い浮かばない。こういうひとがただ描き連ねることのできる文化環境こそ豊かさそのものだと感じられる。

 なんというか、輪郭線が閉じない、ことが心象表現の大事な手管になっていて、ぜんたいの緩さの底に構造的な安定感がある。けっして表出されない厳密さとか堅固さのようなもの。これは読み味が深い。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]




β. 五十嵐大介 『ディザインズ』 5 講談社

 完結巻。遺伝子レヴェルでの生物進化介入による神的創造への接近から、モンサントをもじった多国籍企業サンモントによる軍需を通じた国際間の策謀まで拡げ切った風呂敷の回収にいそしむ印象で、物語的には多くのことが語られ進行するが、4巻の圧には欠ける。『ディザインズ』は4巻で完結、と五十嵐大介が発言した旨をどこかで目にしたけれど、とすれば作者のなかで想定外に膨らんだ良種がつまり4巻で、5巻ではそのしわ寄せが急ぎ足となり顕れたのかもしれない。

 いずれにせよ彼がなにをみて、なにを描こうとしているのかについて、悪い予感はまったくしない。たとえば弐瓶勉や冨樫義博はメジャー化したことでかつて驀進していた方向性を見失ったようにも感じられるが、五十嵐大介にはそれがない。この点は三浦建太郎にも近しく、しかし『ベルセルク』のように単独作への収斂/統一を選ばず、タイトル連発で同一の物語を進化させてる感。それ自体が環世界的、多世界的で五十嵐っぽくって良い。『ディザインズ』はいずれ再読し多くを新発見するだろうことが確信される。
 
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γ. 山本直樹 『レッド』 7 講談社

 一応の8巻完結を知っているので、おおうという焦らせ感。までも続編があるのも知ってるわけで。ともあれ巻末対談を、かつてなく面白く読んだ。山本直樹が新しい事実を知って増補版を描くと宣言しているのもわかる。エロネタだしの。ともかくこの具体性はいい。説得力あるよ、彼らがふつうの日本人だからこそ起きた事件だっていう。大学時代にある頭の固い油画学生から、「あなたは日本赤軍のようだ」って日本赤軍ではなくあさま山荘事件を念頭にした勘違いdisされたことがあるんだけど、いやその無自覚性だろお前っていう。こちとらいつだって空気読めずに殺されるほうですしお酢死。


 
 
δ. 諫山創 『進撃の巨人』 20-24 講談社

 ゲオレンタル一気読みにて。

 画がびっくりするレベルで安定、初期の破れ感消えウェルメイド作品化。で、なにそんな話だったのっていうゲットー展開から外部世界へ、そして外部がまた「家族」の内輪へ閉じていくメビウス調、この無限退行を数段階繰り返す様は懐かしき少年ジャンプ的輪廻を想わせるけれど、そうなる前に作者の体力or動機が尽きますよね、普通は。
 




 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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