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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2025年
03月29日
23:40

よみめも101 来たるべき小説の死後みる夢

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. 中平卓馬 『来たるべき言葉のために』 風土社 1970

同時代的であるとは何か?

 一体どうして今、世界について「~である」という断言などできようか。この疑問がほとんど同時に頭をも たげてくる。かつて、詩人の谷川雁はその「断言肯定命題」という彼の絶筆の中で、彼が詩を書くことを断念した理由を次のように書いている。「詩とは無限に否定的にひろがっていく世界への断言的肯定以外の何であろうか。もちろんここでいう命題とは、書かれた命題ではない。一篇の詩に内在する命題のことである。その点、いかに現実の迷路がするどく描かれていようとも、否定的命題しかはらんでいない詩は、いわば散文の代用物でしかない。人間が最後の疑問につきあたるとき、その衝突がたとえどのように否定的な光を放とうとも、それは客観的積極性をもつ。それを肯定できない人間は詩を書くことができないから、詩をやめることもできない道理である。詩の論理はあくまで一かゼロか、白か黒かであり、その中間はありえない。詩の論理はどこまでも潜在する不可視の否定的な力に対するためらうことなき背定であり、その外にはありえない」
 ――谷川雁のこのペシミズムは戦闘的である。 168



 一篇の詩が生まれるためには、
 われわれは殺さなければならない
 多くのものを殺さなければならない
 多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ。
 
 詩作「四千の日と夜」でこう書いた田村隆一に対し、ある高名な詩人が「果たして詩とはあらゆる愛するものを犠牲にするに値するほど私たちの生にとって貴重なものであるか」と疑問を呈すのを眼にした吉増剛造は、「いとしい者を殺す」ことが「死者を甦らせるただひとつの道」だと田村が言っていることを見逃すわけにはいかないと書く。(吉増剛造『詩とは何か』54)
 もっとも大事な者と引き替えにしても、死者を甦らせることはできない、それでもわれわれは「その道を行かねばならない」。田村隆一のそれは、《聞こえない「声」をなんとかして立ち上がらせようとする、ある倫理的な「態度」を読みとるべきではないでしょうか》吉増はそう問いかける。
 

 それは一枚の木の葉に終わるものではない。当の、木の葉の写真はあくまでも、木の葉を指示する。だが、それは木の葉を超えた世界を背負い込んでいるはずである。もうあまりにも有名な話であるが、かつてサルトルは「死んでゆく子供を前にして嘔吐に何ができるか」と自問したが、それに対しジャン・リカルドウは、「現実の木に対して書物のなかの木に何ができるか?」と問い事実死んでゆく子供を前にして嘔吐は何もできはしないと答える。だがさらに、彼はこれにつけ加える。「明らかに、この書物や(他の何か……)はただ単にそれが現存するだけで(また、のちにみるように、その虚構がいかなるものであってもそのなかにおかれれば子供の餓死がスキャンダルとなるような空間を決定づけているのであり、その死に対してある意味を与えているのである。世界のどこかに文学というものが現存していないならば(この現存という語は、最も強い意味に解さねばならぬ) 子供の死は屠殺場での一動物の死以上の意味はほとんどなくなるであろう。」「一切の文学がやむとき、いかなる革命も起りえないであろう。」(J・リカルドウ『言葉と小説』野村英夫訳)
 ――ぼくの考える記録は第一に生きてゆくその都度の生の記録である。それはその限りにおいて自閉的であり、ぼく自身にこだわり切ることから出発する。しかしかく言うぼく自身、歴史から自由でありえないし、言葉の正しい意味で“状況化”されているのである。自閉的な記録は必然的に社会化され、その照り返しは歴史をも政治をも照射してゆくはずである。いやむしろ状況を顕在化させるものとしてまず記録はあらねばならないだろう。 171



 よみめも90で『来たるべき言葉のために』を一度扱ったが、これは当時の関心から2010年の再刊版を図書館で借りたもので、本書はドイツで2001年に復刻された限定版で、中平論考はオリジナルとこの限定版にのみ収録されている。復刻版を購入した経緯はよみめも100:Provoke3の項で述べた。復刻版を自ら所有するのに図書館で借りたのは、所有することを忘れていたからで、記憶はまったくあてにならない。

  Provoke 3 よみめも100:https://tokinoma.pne.jp/diary/5555
  Provoke 2 よみめも98: https://tokinoma.pne.jp/diary/5510
  Provoke 1 よみめも95: https://tokinoma.pne.jp/diary/5432
  2010再刊版 よみめも90:https://tokinoma.pne.jp/diary/5324


「プロヴォーク」は恐らく一つの役目を終わったのだろう。それは木が木であるという自明であるが 不毛の理を証明するものとしての映像を逆転させ、反対に、それらしくある意味に疑義をさしはさむ映像を、遅ればせながらも、提出した。しかしそれも今ではいささか小さなファッションになり下ってしまった。ここでファッションというのは単に風俗を指すのではなく、それに安心する他ならぬぼくら一人一人の肉体と思考を指す。荒れに荒れた映像、あるいはことさらにピントをぼかした写真。それらはすでにデコレイションとなってしまったのだ。
 今、ぼくらは再び出発点にもどらなければならない。それがはたしてどのような形になるか、明確にしゃべることはできない。だがそれはおそらく木が木であることを明らかにした上で、ここに、今、他ならぬ私が立ち合うことによってもたらされる木という言葉の振幅を広げるものでなければならないだろう。
 だがそれがどこまでできるかはまたしても試される番だ。 179



 「詩の論理はあくまで一かゼロか、白か黒かであり、その中間はありえない」という谷川雁の言葉の強さに、この倫理を看取する。小説を書く畏友に先日、「言葉の本質は多義的である前に二項対立的」と言ったら軽く否定され驚いたけれど、その本質に宥和性よりも排斥性をみない書き手は危うくないか、と自分には思えてならない。あるいは詩を書く頭をしていないともその友人は言っていたから、その自覚のうえで小説の書き手たろうとする、それはそれで一つの覚悟表明かもしれない。
 ちなみに上記谷川雁言及の中平引用、末尾の「背定」は「肯定」の誤字ではないかと思われてならない。1970年刊行だから、もしそうなら変換ミスではなく活版における活字の選択ミスとなり、いかにもありそうに思える。


 焼けた鉄ぐしで眼をつぶした後で
 慰みの鳥がさえずるからといって
 盲の馬が一層美しい声で歌うだろうか?


 Because the pleasure-bird whistles after the hot wires,
 Shall the blind horse sing sweeter?
 ――Dylan Marlais Thomas [born in Wales 1914, died in NY 1953]





2. ジョルジュ・ペレック 『さまざまな空間』 塩塚秀一郎訳 水声社 読書メモ
  Georges Perec "Espèces d'espaces" Galilée, Paris 1974


 世界についてひとはなにを知ることができるのだろう。生まれてから死ぬまでに、どれだけの量の空間を視線でおおえるものなのか。靴底は地球上の何平方センチを踏みしめることになるのだろうか。
 世界を駆けめぐり、四方八方走り回ったところで、数アール、数ヘクタール分しか知ることはできないだろう。はかない遺跡へのささやかな調査、冒険してふと襲われた身震いがせいぜい、おぼろげな探索も甘美な霧のなかに凍り付き、わずかばかりしか記憶に残らない。
 ()
あるいは、アヴィニョン郊外の小さな家。木の格子戸はむかし緑に塗られていたようだ。ザールブリュッケン辺りの丘のうえで樹々が描くシルエット、ナポリ場末のカフェテラスで陽気に騒ぐ四人の巨漢、クリスマスの二日前、夕方六時頃のウール県ブリオンヌ大通り、スファックスの市場で感じたアーケードの涼しさ、スコットランドの湖を突っ切る小さなダム、コルヴォル=ロルグイユ辺りのつづら折りの道……。こうした細部とともに感じられるのは、何ものにも還元しがたく、手でさわれそうなほどに痛切な、世界の具体性である。世界はもっと身近で明白なものとなって、もはや、たえず往来する道のりではなくなり、果てしなき競争へとしじゆうかりたててくることもない。うんざりする蓄積をひたすらうながすこともなく、征服の幻想を抱かせることもない。そうではなく、世界の体験とは、ある意味を再発見すること、地表に描かれた軌跡を知覚すること、作者がわれわれであることを忘れてしまってい た「地理」を感じ取ることなのである。 171-2



 レーモン・ルーセルが自前で長さ9mに及ぶ豪華キャンピングカーの化け物(運転手2人+従僕1人の起居も可能な)を仕立て、欧州3000kmの旅に出た記述とか、良い。憧憬を作家が体現する時代感と、機能優先でなく華美というでもなく、贅沢な設備投資に思想がある感じも含め。


出会い

 こうなっていなかったとしたら、何の意味もなかっただろう。あらゆることが検討され、計算しつくされており、間違うことなどあってはならない。数センチ、いや数ミリであっても、誤差が見出されたケースは知られていない。
 にもかかわらず、モン=スニ・トンネルの真ん中で、フランス側とイタリア側の作業員たちが出会ったときのことを思い浮かべると、いつも驚嘆のようなものを感じる。 192



 この世界を成り立たせる空間性をめぐる思索の断片の果てしない群れ。がやがて至る、群れなす基盤としての書くという奥義。空間と時間を対概念のように見せているのも結局は書くことなんだよね。


 ぼくは書く。ぼくは書く、なぜならぼくたちは一緒に生きたのだから。ぼくは、両親とともにいて、その影にまもられた影、その体によりそう体だったのだから。ぼくは書く。彼らは消し去ることのできない刻印をぼくのなかに遺したが、その痕跡を書きとめるのだ。両親の思い出は書くことで甦りはしない。それでも、書くことは彼らの死の追億となり、ぼくの生を肯定してくれるのだ。 239




3. J.M.クッツェー  『スペインの家 三つの物語』 くぼたのぞみ訳 白水Uブックス
  John Maxwell Coetzee "Three Stories" Text Publishing, Melbourne 2014

 それとも、その男を馬具商人にするか、ホワイトチャペルに家と店と倉庫があって、あごにほくろがある。夫を愛してはいるがしゃべりすぎない妻がいて、子供を、おもに娘を産んでくれて、大いなる幸福をあたえてくれるが、やがて疫病が街を襲う。それは一六六五年のことで、ロンドンの大火にはまだ間がある。疫病がロンドンを襲う日ごとに、あちらの教区こちらの教区で、死者の数がふくれあがり、疫病が、富める者と貧しき者に身分の区別なく襲いかかる、この馬具商人が所有する現世の富などなんの助けにもならない。彼は妻と娘たちを田舎にやり、自分は逃げ出す計画を立てるが、取りやめる。聖書をはらりと開いて彼は読む、汝、夜に脅かすものを恐れることはない。昼に飛びいる矢を恐れることはない、闇に忍び寄る疫病も、真昼に襲う病魔も恐れることはない。たとえ千人が汝の傍らに倒れ、万人が汝の右に倒れても、災いが汝におよぶことはない。〔旧約聖書、詩篇91〕 80-1


 上記引用文↑、すっごい変。変なのにテンポよく読めてまう。なんだこれ。原文どうなってるんだろう。クッツェーは、話者としては英語が第一言語なのに英語のグローバル化に抗してオランダ語やスペイン語で書き続けているそうなんだけど、結果としてこういう文章が(しかも日本語訳文で)析出されてくるのは面白い。各文の主述がズレ、次の文へ波及するように意味が完結させられないまま、でも末尾「る。」でテンポとしては逐一落とし前をつけられていく若干の遡行仕草を含むシャクトリムシのようなへんてこ悪くない。
 ちょっと真似を試みてみようかな。そのうちやってみよう。(と心に決めたひとは結構いそうですけど)


 二〇〇六年九月、初来日したJ・M・クッツェーは講演「ベケットを見る八つの方法」で「ベケットに欠けているのは鯨だ」と述べて、唐突にベケットを『白鯨』の著者ハーマン・メルヴィルとくらべてみせた。ケープタウン大学修士時代にクッツェーに師事したデイヴィッド・アトウェルは、「鯨」とは「危機の状態にあること、あるいは歴史を爪の下にじかに感じていることであり、クッツェーは自分には少なくとも鯨がいる」と述べたのだと論じる。クッツェーが生きた南アフリカは倫理的に大きな苦悶を強いられる場所で、その苦悶や葛藤が、有無をいわさず読者を引きこむ作品を書かせてきたが、オーストラリアへ移住してからは自分自身と和解して危機感が薄れ、クッツェーから「鯨」がいなくなったというのだ。 119

 ベケットに欠けているのは鯨だ!
 自分には少なくとも鯨がいる!
 鯨だ!




4. 西加奈子 『こうふく あかの』 小学館文庫

 2007年の夏に発覚した、夫の俺には身に覚えのない妻の妊娠。2039年のある“国籍不明”プロレスラーの生き様。まったく絡みようがないかに思える2つの話がなぜ並行するのかは書かないでおく。寝取られ夫主観という変化球ながら、さまざまな巧緻に富む妊娠小説として読めた。


赤ん坊は天使だ、などと誰かが言うが、それは嘘だ。むしろ悪魔に近い。ひとりでは生きられない癖をして、他人を受け付けない空間の中にぽっかりと入っていることがある。かと思えば、殺意さえ抱きかねない俺の指を、強く握ったりする。俺を目で追い、何かを訴えかける。無遠慮な視線は俺の心を砕き、いてもたってもいられない思いにさせる。
 そして、一番の感情は、いわれの無い共感である。
 黒い、目玉がぎょろりと下品な、巨大児のあいつに、俺はいいようの無い共感を覚えるときがある。ふたりだけの秘密を共有しているような気持ちになる。妻の不倫ではなく、この世の摂理などでもなく、それは、やはり膣である。俺が入り口として、あいつが出口として使ったそれを「じゃあ、そこで会おうぜ」。そう言って、そこでふたり落ち合ったような気持ちである。病室の中で見たあいつは、ほとんど人間とは思えなかった。赤黒い塊は、まったく妖怪のようであったし、こんな風に人間同士の共感を覚えるなど、もってのほかであった。しかし今、俺たちは、共通の道を知っている、共通の人間であった。それは大変不快な事実であり、しかし避けがたいことであった。あいつは、人間である。 158-9



 西加奈子小説の軽快さ健在、無理矢理にも思えるドバイネタが入り込むのも西加奈子ならでは感。あとがきで『こうふく みどりの』との二部作と知る。巻末の西原恵理子との対談、西原がいつも通りぶっちゃけすぎてておもろい。まだ結ばれる前の高須クリニック医院長(当時)エピソードは、その後の展開知ってるためさらなるふくよかさあり。


駄目だ、完全に流されている。しかも、もがけばもがくほど、その力が、俺を沖に押しているような気がする。俺は軽いパニックに陥った。さっきまであれほど茫洋としていた自分の体が、急に、強烈に自分のものである、という感覚になった。今さら遅い。遅いが、この、強烈な自己征服感に、俺は身震いがした。
 俺は、俺なのだ。俺は、俺のものなのだ。
 俺は、流されている。どこにだ。沖に?
 このまま、どこまで行くのだ。兎島は。兎島は寝ている。阿呆のように、寝ている。
 水を飲んだ。いつも、海の水の塩辛さを、俺たちは忘れている。その味に驚く、むせる、受け入れられないで嘔吐する。喉と胃を焼かれ、俺は咳き込む。ますますパニックになって、両手を動かし、もがく。また、水を飲む。太陽の光を直視できないでいる。眼をつむると、恐怖にがんじがらめにされる。手を伸ばしても、それはどこにも届かない。
 兎島は。兎島。助けてくれ。屈辱で、死にたくなる。なのに、死にたくないから、兎島を呼ぶ。そしてその羞恥で、また死にたくなる。
 ()
 あいつは寝ている。決して起きない。左足が攣っている。誰かにつきあげられるよ うな痛み。足の感覚が鈍る。その痛みだけが鮮烈である。俺のものだ、と思う。この痛みは俺のものだ。波にもまれる。また水を飲む。俺は死ぬのか。バリで死ぬのか。あいつが、腰が抜けるほどセックスをした男がいる国。あいつが、一晩中、悦びの声をあげた国。あいつは、俺とセックスをしたいと言った。俺は溺れている。あいつの腹の中で。俺は溺れている。体を丸めた。怖くて、何も出来ない。苦しさは少しずつ 快楽となり、それを恐怖が包む。経験したことの無い感覚に目がくらみ、くらみ、はっきりと、眼を開ける。俺は見る。見る。
 眼の前に続く、真っ赤な道だ。
 赤くて、どくどくと脈打って、湿って、嫌な匂いがする。その先にあるのは、光だ。細くて、白い光。()あの道を通りたい。兎島は寝ている。猪木。戦っている。リング。赤い道。あそこを通りたい。赤い道。
 それは膣だ。
 赤くて、どくどく脈打って、湿って、嫌な匂いがする。 132-4





5. フィリップ・K・ディック 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 浅倉久志訳 ハヤカワ文庫SF

 なるほどのブレードランナー原作。想像していたよりずっと映画版に近かったし、けれど予想以上にハードボイルドかましてくれて楽しめる。稀代のSF作家はエンタメ性も稀代なのだという当たり前を再確認した心地、純文学傾斜が強いとこんなことさえ新鮮に思えるというこれは反省すべき解像度の低さかも。未読SFの沃野は依然広大よ、さぁどこへ行こうかしらかしら。




6. 松永K三蔵 『バリ山行』 講談社

「いいですね!」滝を越え、私は興奮して妻鹿さんに声を掛けた。
 振り向いた妻鹿さんはニコリと笑う。「ここからはもっといいよ」
 濡れて光る岩の上でバランスを取るように腕を広げた妻鹿さんが「滑るよ! ここ、気をつけて」と声を出す。私は岩に手をつき腰を屈めたまま足を止めた。岩を覆う透明な水膜の中で泳ぐ。グローブを取って指で触れると、ぬめりがあった。濡れた苔に覆われ岩の上をチェーンスパイクの歯で確かめながら足を運ぶ。
 木の根を掴んで身体を引き上げる。妻鹿さんを追いながらも私は、流れに洗われている岩の、その精緻な造形に目を奪われていた。鑿で切り出したような鋭利な凹凸の中に、緑や白や黄の微細な紋様が織り込まれている。それもこうして流れの中を辿って行かなければ見ることのできないものなのだ。触れると水が白く弾けて顔に跳ねた。――これがバリか。飛沫を浴びながら私は思った。
「いいですね、妻さん!」嬉しくなって、また私は言った。峪に入ってから私はそれしか言っていない。 88



 ひたすら手足の動きに集中する時間をつづける。自らを運ぶ道具に手足を貶める通勤移動のそれは対極にあり、“自ら”はむしろ手足の一部となる、ことを感覚する驚き。その驚きをランナーズハイにも似た脳内物質環境がブーストすると、歓びになる。軽登山、トラッキングの歓びの、この始発点をよく表す上記引用部。この場面を見晴らしの良い登山道とかでなく、水流の中へもってくる視覚的触覚的設定の鮮やかさ。

 そして軽登山に対する重登山、すなわち《バリ山行》への移行。カイシャが象徴する日常の屈託をバネとする飛躍の仕方、松永K三蔵を読むのは初めてだけど、すでにふつうに巧いというか、これからもっと巧くなりそうだしこの映えかたはNelflix御用達作家にもなりそう。極私的に、奥田英朗の『プール』が想い起された。主人公がランナーズハイ的な深みへ孤独にハマっていく過程とか、若干の禁忌に触れるあたりとか。
 そこでちょっと想うのは、そのような描写を組み上げるさなかでは、何なら作家本人もけっこう同じ快楽にあるのでは、などということ。下記引用部とか、書くのもとても楽しそうなんだよね。そう見せるのが大変なんですよ、というのはもちろんあるとしても。


 するとある時、私は山の中で奇妙な感覚に陥った。
 枝を折って藪に踏み入る。空を見上げる。白い陽に樹々の枝が黒かった。寒さは徐々に和らぎはじめていたが、吐く息は白く口元を覆っていた。火を熾すようにペースを上げて斜面を登る。ピックステッキを打ち込み、岩に脚を掛けて体重を乗せる。枝を掴んで身体を引き上げ、這い上がって岩を越える。勾配を踏んでいく。息が切れる。汗が噴き出す。熱源のように心臓が鳴る。それにも構わずに踏む。やがて呼気が溢れて耳の中を内側から埋める。
 勾配が緩むと、水中から息を継ぐように立ち止まってヘルメットを外し、汗を拭った。膝に手をつき項垂れて息を吐く。散った汗が地面に無数の黒い点になる。
 ボトルの水を飲んで再び歩き出す。落葉に自分の足音を聞く。樹林の間を縫うように歩く 樹冠が高く頭上を覆って山の中は暗く静かだった。熱くなった身体のまま尾根に沿って流れるように下る。地図も地形図も見ずにそのまま淡々と歩くと、不意に身体が浮くように感じた。葉を踏む音と呼気、そこに自分の心音が混じる。歩きながらそれを聞く。それらは勝手に同調し、反発し、跳ね、熱を帯びた身体の中で騒ぎ、酔いに似た感覚があった。酔いに任せ、私は眠るように歩き続けた。ふと断崖に行き当たって気づいて、自分はいつからそうして歩いていたのだろうと戸惑った。歩いていた間の意識がすっかり抜け落ちている。それは奇妙な感覚だった。しかし不快ではなく、寧ろ深い眠りに沈み込んでいたようなここちよさがあった。
 街に降りてからも、しばらくその感覚から醒めなかった。深く考えていたような、あるいは何も考えていなかったような。 思考と呼べるほど確かなものでなく、感覚に近い、もっとした何か。その中に深く潜っていたような感じ。コンッ、と電車の中で頭を小突かれ、「すんません」とバットを背にした部活帰りの学生に頭を下げられて、ようやく私は現実に還った。見るとスマホに妻からの着信が三件残っていた。 153-4





7. 小川哲 『スメラミシング』 河出書房新社

「悪いのはインフルエンザウイルスや。そうやろ?」
 近藤さんが喘ぎ声の合間に「うん」とうなずいた。
「僕はちゃうけど、そうやって七百年間続いてきた。そうやろ?」
 再び近藤さんが苦しそうな表情で「うん」とうなずく。
 僕はピストンを速めた。絶頂が近づいていた。
 射精の瞬間、近藤さんが「室岡さん!」と叫んだ。僕はなぜか「室岡です!」と叫び返して、二度目の絶頂を迎えた。 97



 小川哲は大著しか読んだことがなかったので、簡潔にまとめてススンと次の話へ移る小川哲本はそれだけでなんか新鮮。引用部は短編「密林の殯」からで、天皇家の葬式時御用達の一家跡取りが主人公の話なんだけど、クライマックスがカラッと笑えるベッドシーンになる意外性。こういうのも書けるんだ、っていうよりそっか書くんだ、という新鮮さの先の納得感。


「ちなみに、君にとっての神って何?」
「えーなんだろ」と近藤さんは天井を見つめた。「バレンティンかな」
「ヤクルトの?」
「そう。バレンティンにサインもらったとき、泣いちゃった。でも、神っていうのとも少し違うのかな。バレンティンはバレンティンだし、神だったら三振も怠慢守備もしないし」
 近藤さんはもう反応しなくなった僕の股間を触るのをやめ、両手を天井に向かって突きだした。
「なんか、そういうのってええな」と僕はうなずく。そういうのって、本当にいいと思う。「バレンティン」と僕はつぶやく。「君はバレンティンにサインをもらって泣く。僕のオカンは、京都御所にやってきた天皇を見て号泣する。そういうのって、なんか真実の神っぽいな」話しながら疲れ果てていたはずの股間が膨らむのを感じた。
「どうして?」
「なんやろ、うまく言えへんけど、神と邂逅する背後に現実の繰り返しがあるからじゃないかな」 99



 股間の膨らみが回収されてないようでされてるようでこの終わりかたいい。繰り返されてきたサインも天皇も膨らみも。




8. アゴタ・クリストフ 『ふたりの証拠』 堀茂樹訳 ハヤカワepi文庫 

 悪童日記の後継作品だけれど、仕立てはガラリと変わっており、前作とは別様の読み味に充ちる。技巧的で若干説明的にも映るのは、主人公の目線が単一化したことで、時代と社会を順々に描いて回る作者の欲望がよりわかりやすく整理されて読めるからかもしれない。
 締めの驚かしはなんだろう。百年の孤独的な幻惑風味というか。こうせねばならない時代的/社会的事情もあったのか、あるいは。記憶と自己同一性の曖昧化した老婆の過去語りには特有の哀切が付き物だけれど、その根を失くした感覚がタイトルを一層際立たせる、ということはたぶんある。




9. 栗山真太朗 『新潮新人賞の最終候補になると何が起こるか日記』 憧憬文庫

ただ、大切なのはそれをやること自体が「楽しい」ということだ。僕は楽器の練習を通じて、毎日演奏することの大切さ、それによって獲得することで見えてくる景色が変わってくることに気付かせてもらった。そうした素養は毎日書く、という文章作成への態度にもだいぶ役立っていると感じている。
 花村萬月さんの著書『たった独りのための小説教室』では、絵を描く効用と同時に「小説を書く者は楽器をやれ」という記述がありました。音楽には、特にロックなどボップス音楽にはコード進行があり、起承転結があります。音階がないドラムという楽器でもビートに緩急をつけて曲を構成するだけのリズムを演奏する、という心構えがあるとないとでは出てくる音が異なるものです。自分自身の言葉としてきちんと記せるほどまだ僕には実績がありませんが、氏のおっしゃることは、いくらかは理解できると思っています。 69-70



 昨年の文学フリマで見かけて買ったもの。売っていたかたが栗山さんだったのかもしれない。たまたま新潮新人賞の最終候補になったことのある友人がいて、彼女の書く文章は本当に好きだし憧れさえするのだけれど、本書の記述と同じような驚きや逡巡を経験して今があるのかなぁ、など想像が巡りながら読み継ぐなど。掌サイズの薄い本ながら、ボリュームが思いのほかあった。


 大澤信亮さんも「炊飯器の描写は良かった」と、細部まで読まなければ分からないところを拾い上げてくれていた。 募集要項での「なんでもいいよ!」という発言とは裏腹に的を射た選評で有名な金原ひとみさんからもラストの疾走感を評価され、「ぜひこれからも書き続けてほしい」とお言葉をいただいた。
 ()小説を書く時は自分に限らず、作者に都合よく書いてしまいがちな傾向は誰でも大なり小なりあると思う。要は制球力の問題なのだが……。自分は新作を書くたび に、またプロットを立てて本格的に書く前に、この号の選評は読み返して、肝に銘じなければならない、と痛感した。
 新潮新人賞の最終候補になって何が起こったか?やる気が出ました。次々と新作を書こう、より多くの小説や評論を読み、より強固な精神性を獲得しよう、と心から思えるようになった。まだまだ自分は途上であり、より面白い小説、上田岳弘さんの言葉を借りるなら「自分なりの完璧か究極を。」という小説を目指してもいいのだ、と考えられるようになりました。 84-5


『共喰い』で芥川賞を受賞した田中慎弥さんが第五十四回新潮新人賞 評で書かれていたことです。
「今年で選考委員をやめる。私自身、この新人賞出身なので、思い入れ強くやってはきたが、(中略)毎年の水準はそんなに高いものではなかった。勿論、出だしはそこそこでもいい。月並だが、書き続けられるかどうかが一番大事。作家を目指そうという人たちへ、いくつか。十九世紀を中心に過去の小説を、こんなもの面白くない、と思いながらでいいので読むこと。手応えや達成感より、不安や迷いを大事にすること。いつまでも不安でいられるくらいのスタミナを身につけること。死なないこと。」


 また、ホラー文学の大御所であるスティーヴン・キングからも小説を書く上での金言がありまして、これもよく読み返します。
「ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、もてるためでも、セックスの相手を見つけるためでも、友人をつくるためでもない。一言でいうなら、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。立ち上がり、力をつけ、乗り越えるためだ。幸せになるためだ。おわかりいただけるだろうか。幸せになるためなのだ」(スティーヴン・キング『書くことについて』田村義進 訳)

 芸術的意義とか小難しいことは、僕にはよく分かりません。「創作は自己表現」という風潮も嘘だと思っています。 ですが、幸せになるためにできることであればなるべくやっていきたい。小説という虚構をでっち上げ、書いていて楽しい。欲をいえば、読んで、楽しんでもらいたい。たぶんそれができれば自分は幸せになると考えます。音楽と同様、この遊びを真剣に苦痛を感じながら楽しんでやっていきたいです。がんばる、と同時に、楽しむ。人は幸せになるためならばどんな苦労も厭わないのではなかろうか。そんなふうに感じる今日この頃なのです。 86-7



 「楽しい」が強迫観念と化す危うさもすこし感じる。という「感じ」はでも、自己投影かもね。楽しくなきゃ、幸せでなきゃ、という起こりがちな抑圧転化が自分の場合はそこそこつらく何であれ、ま、今日はこんなもんかな、でやっていきたい。




10. バンダイナムコフィルムワークス 『機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning- Design Works』 創通・サンライズ
 https://x.com/pherim/status/1885234231561117852

 来場者無料プレゼントが30pフルカラー構成なの、渡されて驚いたしちょっとワクワクしちゃったな。
 過半はキャラデザ画だけど、後半の山下いくとのメカデザイン画に見入る。
 ちょっとエヴァも入ったグロテスク/マニエリスム入ったガンダムデザイン。
 初期シリーズよりだいぶ節くれ立ったザク系も悪くない。
 



▽非通読本

0. 町屋良平 「小説の死後――(にも書かれる散文のために)――「批評」しやすい吉井磨弥、「批評」しにくい青木淳悟」 『群像』2024年11月号掲載

 読みにくい吉井磨弥。読めないんですよね、物理的に。そこは本論でも間接的に大問題視されてるとは言えるのだけど、単行本化もされておらず十年以上前の文芸誌だけが頼りとなると、国会図書館でも行かないと一般人はアクセスし難い。(できる方法があるひと、コピーPDFで送ったげるよなんてひと、いらしたらぜひ連絡plz)
 
  吉井磨弥「ゴルディータは食べて、寝て、働くだけ」はじめの二段三頁
  https://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/bungakukai1012.h...

 
 序文(前回よみめも100)に続く青木淳悟「四十日と四十夜のメルヘン」賛美が、吉井磨弥の文章解析によって相対化され、双方の理解が進む。この構図が、青木「四十日~」を今後も軸とすることで同じ構図が維持されるのかも、という予感。それはそれでわかりやすいし、それに耐えることによって「四十日~」の凄味も町屋が初めに宣言した通りですね、ってなるからとてもスマート。そうなるのか否かはともかく、〈比喩がほとんど遣われていない〉(138下) 吉井磨弥の描写をめぐる分析、吉井「七月のばか」や「ゴルディータ~!」にみられる「小説的仕掛けの浅さ/深み」と「人間的な深み/浅さ」の逆転現象など、町屋自身が2010年代に感覚していたのだろう驚きや憧れが素朴に理論化/言語化されている感じが基調を為すためか、やや論理展開が複雑でも前向きに読めて楽しいというか、難解さや鈍重さが不思議とない。

 
 小説を理解してしまったら、理解する前には戻れない。当たり前のことだが、その不可逆に形成されない記憶があって、小説を再読するということはその記憶こそを揺さぶるものである。「もうない」記憶こそを揺さぶるものである。だから謎や破綻のない小説では届かない記憶、景色というのが存在するのだ。散文をえんえん連ねることは、かなりの部分が労働であると同時に、不確かで偶然で明白な目的や輪郭のない思考によって初めて成る。それが一般に分かりやすく、伝わりやすくなるのは、現実の「人生」「世界」「人体」としてはありえない反復・説明が多くの小説に含まれるからだ。つまり、「人生」「世界」「人体」の自然を捻じ曲げてまで、登場人物のそれらが事後的な操作によって「分かる」ものに捻じ曲げられている。その落とし前こそ「文学」といってもいい。 151上


 エンタメ小説も書ける作家の手になる文章だけあって、設えられたわかりみがもうすごい。文章自体のチカラによってなんかわかった気にさせられてまう。でもすこし時間がたつとそれ自体が罠だとわかる。わかりみはその文章構成が把握されたという以上のものでなく、その文章が特定したフレームの内奥に息づく核心を捉えたことには全くならない。伝わってきたことが、伝わってしまうことは、伝えたいことだとは限らない。
 再読したが、この意味では不足しか感じていない。そこは何度でも再読をくり返すしかたぶんない。そしてくり返してもわかりたいと思わせてくれる文章があることそのものの、ありがたさね。




0. 青木淳悟 「言葉がチャーチル」 師岡とおる絵 (福永信編『小説の家』収録) 新潮社 読書メモ

 黒塗りの入った百科事典の英国項目引用に始まる、チャーチルを軸とした第二次大戦下の列強首脳らの言行録。とはいえ、
 
 スターリン「……はははよしっ、同志諸君、毛皮価格は比較的安定しているようだぞ!」

とか

 ムッソリーニ「ドイツめ、ついにやりおったわ! もはや欧州制覇も夢ではないな。」

など、「言行録」パートは漫画の吹き出しチックなもので、百科事典の引用にしても、という体裁の文章で青木淳悟の創作による意図的なニセモノ感、くわえて全体として昭和感が醸されており、末尾の編者謝辞によれば青木から福永へは「学習まんがのように見せてほしい」と注文があったとあり、師岡起用含め諸々把握。ド・ゴールの箇所はふつうに学習感あり読み入った。元は美術手帖掲載の「〈小説〉企画」とのことで、本タイトル込みで「小説」が妙に対象化されている感じは媒体がBTだからだったのねと納得。




▽コミック・絵本

α. ゆうきまさみ 『新九郎、奔る!』 18 小学館

 第十代室町将軍足利義材の登場と対立、斬新。にしてもこの作品の人物相関描写の細密さにほとんど唯一反するものとして、対抗勢力首領であった日野富子が義政から離れても奮える権勢の根拠がいまいち描き切れておらず謎だったのだけど、わりと脆く崩れ去ってなんぞとは思う。いやここから再起もありそうだけど。そして始まるようで全然始まらない坂東早雲編。ただ部下からタメ口聞かれてるあたりはすでにその気配あってワクワクするやね。つか、50巻いってもおかしくないな。と感じさせる低速進行がもう遠大。

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β. 水上悟史 『戦国妖狐』 5-7 マッグガーデン

 世界設定先行で画が追いついてない印象も、雑さ込みでほかにない様式化の兆しを感じたりもしだすから面白い。何冊も読み継いだ慣れもあるのだろうけど、あるいは馴染んだがゆえに沁みてくる画の巧拙の向こう側にある作品世界、の奥行きに対する回路が開くということか。
 6巻での覚醒と「第一部完」は唐突感ありけっこう謎。第二部開始もたしかに舞台転換があるわりに心機一転した感じはなく、仕切り自体に無理筋を感覚するのがむしろ珍体験で興味深い。

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(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)

γ. 藤本タツキ 『チェンソーマン』 11-15 集英社

 さよなら絵莉の爆破ラストみたいな見開きカット、良い。
 校舎の中で行われている会話を校舎の外から描くカットで窓のスチール桟が吹き出しを割ってるの、ほんと音的に会話が窓の向こうで為されてる感でてて感心。これ他の人もやってた事例あるのかな。

 15巻。アサとヨル、冨樫義博とも異なる統失漫画表現の最前線をみる思い。どちらも少年漫画なの、ふつうの国ならけっこうな大問題になるのでは。この点だけをとるなら超絶面白いから日本最高なんですけどー!ヽ(`▽´)/




δ. 小山宙哉 『宇宙兄弟』 9-12 講談社

 日々人の月面酸素枯渇クライシス9巻。なんだろう、とても惜しい感じ。単線すぎるのかな。
 砂漠でサバイバる(ママ)10巻。意外なことにこっちのが面白い。リアリティラインの違いかな。
 冷酷無比教官と酔いどれ無気力エンジニアが最高のバディでしたっていう11巻。悪くない人情宇宙。
 (ここだけちょっとMASTERキートン感ある)

 じゃぁ、君には敵はいないと?
 いや、いないというか……俺の敵は、だいたい俺です。
 自分の“宇宙へ行きたい”っていう夢をさんざん邪魔して、足を引っぱり続けたのは結局俺でした。
 他に敵はいません。

 
 12巻、恩人のALS発症ネタで引き伸ばすの、ちょっと下品では。という感性もまた今日性依存かな。




ε. 三浦建太郎原作 スタジオ我画画 森恒二監修 『ベルセルク』 42 白泉社

 三浦建太郎死後の続刊ようやく読んでみる。おもいのほか絵柄自体は頑張ってる。てか絵柄は予想の合格点も遥かに超え感心する。一方、カット単位では「三浦建太郎なら絶対ない構図や設定」と直感的に思わせてしまう箇所が多すぎて、トータルでは話に乗れず入れない。
 
 こういうのは、意図を汲むことなしにオリジナルとの比較だけして善し悪しを言うものでもないことは自明としても、まぁ確認できて良かったという以上の感想には正直至らず。





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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コメント

2025年
03月29日
23:42

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2025年
03月31日
15:12

詩についての論考いいですね(いいですね以外のコメントができない自分が情け無い〜)。
こないだ10年前のブログを掘り返したら、当時詩にハマってたようでかたちを成さないまま打ち棄てられたひるこみたいのがいくつも残されてましたが、今よりも感性がぴちぴちでした。いつも面白い投稿ありがとうございます。

2025年
03月31日
18:22

> 今よりも感性がぴちぴちでした。

時の間へ放流、ぜひ。そらまめさんの中で化学変化が起こるかもですよ~

2025年
04月02日
21:11

>放流
おおおー。日常を綴っている場で創作も同居させるのはなんとなくネタバレ感がして怖かったのですが、化学変化には見舞われてみたい!

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