・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. 中平卓馬・森山大道・高梨豊・多木浩二・岡田隆彦・吉増剛造 『PROVOKE 3』 プロヴォーク社
https://pherim.hateblo.jp/entry/2025/03/10/233113
写真のための挑発断章
吉増剛造
写真家よ
君は黄金の槍で君の犬の頭蓋骨を刺しているが
君のアルプスは乳房に似ているが
それは問題ではない
……
と1969年3月10日 数行の詩行を書いたが、さらに不可解だ。ときおり、生物の二、三匹、人間の二、三人を殺すつもりでなくて、どうして表現は成ろうか!と思考が一閃光のようにかすめるので、さらに書こう。この閃光、頭脳中のどのあたりを擦過したのか、擦過傷を生ぜしめたか判らぬ。ただ傷跡によって刃物の実在は立証できぬ。
55階のねこ、という絵本をめぐり、妹と口論になったことがある。数字の読みかたは覚えたが、まだ十の位を知らない妹が「ごーごーかい」と読んで聞かない。それでは意味をなさないことが、なぜわからないのだという苛立ちを子供の自分は覚えている。彼女にしてみれば、「ごじゅうごかい」という響きのほうが「55」からはどうしたって導き出せるものではなかったろうことを、けれどきちんと想像できたのは今朝が初めてのことになる。お互いに8階の家しか知らないぼくらは、55階の窓から見下ろすねこへ無意識に親近感を覚えていたのかもしれない。
母がアメリカへ発つより、たぶん前のことだった。とすれば両親はまだ30代で、そのときぼくらが口論していたのは居間からベランダへ出るガラス戸の脇で、妹たっての願いで初めてわが家に子猫が来るのはそれから数年先の話だ。と、いうか。自分よりも歳下の両親のことをよく思い出せてしまうこのリアルが、どうにもうまく受け入れられない。あすの朝、その8階の奥の二段ベッドのうえで目を覚ましたとして、そのほうがすんなりと受け入れられそうな気がする。
森山大道が加わり、吉増剛造が冒頭を飾り、PROVOKEは号を重ねるごと着実に、格段に進化を遂げていて、何故に途絶したのかも知らないけれど、ここに結晶された“東京”のイメージは鮮烈で強靭だ。まだ生まれていない、生まれても同じ平野にあってそこは遠く隔たった、大きな川の対岸から“東京”を望む工場町で育ったこの眼には、ザラつくフレーム内をうずめる瘴気が遥かに川向こうで空高く立ち上がる、龍の棲み処のごとき異界の様相を呈して映る。ピントが外れているのではない、その瘴気こそに焦点化されている。
2001年、ドイツの出版社Steidlから、PROVOKE1、2、3号に中平『来たるべき言葉のために』、森山『写真よさようなら』、荒木経惟『センチメンタルな旅』を加えた復刻版セットが発売された。木箱入りで、5万円くらいしたように記憶する。バイトで稼いだ大枚を投入する、なかなか大きな決断だった。それを買っておくことは、当時の自身にとって実利を超えた何かを意味していたように思う。それが何だったかをいま考えだしても嘘になる。ただ、版元がドイツだと権利問題がクリアされるなんてことはあるのだろうか、日本の出版社による復刻版では削られた文章の幾らかもそこには含まれる。去年のある夜かかってきたあるひとからの電話をきっかけに、木箱の中身をすこしずつ見返している。中平卓馬のゴツゴツした読み味など、初読に近い感覚もある。
その工場町の、鉄道駅からも離れた工場の跡に前世紀末、55階建ての高層住宅が建った。
成田や羽田から発ち東南アジアへ飛ぶ旅客機は、多摩の米軍制空域を避けて関東平野を大きく回る。
ほぼ孤立して建つ55階の住宅棟は、麓の川面へ反射する陽光の煌めきも手伝って、さながら水面へ立つ茶柱だ。
直下の茶柱を軸に回る窓景に、かつて世界であった8階の家が含まれる。
東京大空襲から24年後の。
ただ傷跡によって刃物の実在は立証できぬ。
3月10日を、あと55回くり返すときょうになる。
(東京大空襲、当日。戦後東京のゼロポイント、から80年がたつ夜に。)
2. ピーター・キャメロン 『最終目的地』 岩本正恵訳 新潮社
Peter Cameron “The City of Your Final Destination”
「ここにはいないって、どういう意味かしら? 今あるあなたという人間という意味? それとも、ここウルグアイにという意味?」
「ここウルグアイにという意味です」ほんとうは両方だけれど、と彼は思った。
「なぜ?」
「あきらめていたと思います。みなさんの決定を受け入れて」
「ということは、ディアドラに説得されてここに来たのね。ここに来て、わたしたちの気持ちを変えさせろって、彼女に言われたのね」
「もし、あなたがわたしたちの気持ちを変えられなかったら、公認を得られずに帰国したら、彼女はどう思うのかしら?」
「さあ、わかりません」
「失敗したと思われる?」
「わかりません」
「そりゃあ、あなたにはわからないでしょう!」キャロラインは語気を強めた。「わかるはずないわ。あなた、心を読める人ではないもの。わたしはあなたにきいたのよ、あなたはどう思うかって。彼女はどう思うか、あなたはどう思うの?」
「ぼくは失敗したと彼女は思うでしょう。きっと失敗するでしょうし」 127
ちょっと信じがたい水準で会話文が巧い。性差や世代差を含め、映画か演劇でも観ているように場の温度、話者の感情のうねりまで伝わってくる感じ。そして岩本正恵訳。アン・ビーティの凄味を倉本さおりさんから知らされて以来、良い訳だなと思ったら岩本訳ということが二度三度あったけれど、挟み込まれる地の文も含めリズム緩急を失わないこの流れは匠の技。部分部分では不可視な巧さも、通して読めば唸らざるを得ない。
ピートは道具を置いて、大きな道に続く小道を歩きはじめた。ふたりとも、なにも話さなかった。けれども、たがいに相手に向けていた注目が、同時にふと風景に移るとき、それがコミュニケーションのかわりを十分に果たすことがある。 150
この上記引用部は「」会話文連投の合間へ差し込まれた地の文だけど、流れを一旦落ち着かせ再起動を準備する役割をこの短さで完璧に果たしてる。ヤバい。
ディアドラがまちがっていた。これは正しいことではなかった。伝記執筆にかかっていることなんて、ほんとうはなにもない。ほんとうに重要なことは、なにも。
「なにも求めてはいません」オマーは言った。
キャロラインは彼を見つめた。オマーは自分の顔が震えているのがわかった。やがて、顔が強ばるのが感じられた。突然、体のなかから、硬いなにかが、奇妙ななじみのない力がわきあがった。その力を目にこめて、彼はキャロラインを見つめかえした。キャロラインは肩をすくめた。彼女は立ちあがってテーブルを離れ、キッチンの反対端にある流し台に行って蛇口の下でカップをすすぎ、水切りかごに伏せて置いた。そして、オマーには一度も目をくれずに、ドアを開けた。オマーは、彼女が中庭を横切って、塔に続くドアに消えるのを見送った。
キャロラインは正しい、とオマーは思った。彼女の言うことすべてに同意するわけではないし、彼女のことをほんとうには理解できないが、根本的なところでは、彼女は正しい。たぶん、道徳的に正しいのだろう。けれども、ぼくは悪い人間ではない、とオマーは自分に言いきかせた。悪意などない。ぼくがしたいと思っていることは、完全に許容される範囲の、道徳的に無害なことだ。彼は両手に顔を埋めた。でも、いったいなぜ、神はキャロラインをお造りになったのだろう。
アーデンが町から戻ったときも、オマーはその姿勢のままキッチンのテーブルに座っていた。「よかった起きたのね。よく眠れましたか」
「はい」オマーは顔を上げなかった。 205
会話文ではない仕方で、人間同士の交接を描く箇所。何気ないんだけど、隙がない。無駄が一切なく、どの描写も全体のなかで役割をもち機能している。つまり語の選択が切り詰められ、研ぎ澄まされている。会話の一語一語も一見要領を得ない返しでさえ、同様に削ぎ落とされた結果なのだと納得される。
ディアドラは、家には入らず、中庭を横切り、奥の壁のアーチをくぐって歩いていった。今は、だれとも、アーデンとさえ、関わりたくなかった。アーデンにも、少し奇妙なところがあった。これといって指摘できないが、なにか変だった。アーデンは、すべて完璧にいくように、発言や行動を考えすぎる感じがした。
太陽はまだ沈んでいなかったが、家を囲むように植えられた背の高い黒々とした松が、はやばやと夕闇を作りだしていた。あたしがここに住んだら、まず最初にこの木を何本か切り倒してやる、とディアドラは思った。やがて砂利道に出て、生け垣のアーチをくぐった。そして菜園のフェンスの前で立ち止まった。菜園の中央にある台のようなものの上に設置されたスプリンクラーが、水の筋を長くゆらゆらと吐き出していた。暮れてゆく光のなかで、どの作物からも水が滴っていた。空気はハーブの香りがした。数羽の大きな黒い鳥がカラスだろうか湿った地面をくちばしでつついていた。
日が暮れてすっかり暗くなるまで、彼女はそこに立っていた。スプリンクラーはひとりでに止まった。きっとタイマーで動いているにちがいない、と彼女は思った。あたりは静まりかえった。スプリンクラーがどれほど大きな音をたてていたか、ディアドラはそのとき初めて気づいた。彼女は星を見上げた。星は現われはじめたばかりで、まるで空に穴をあけて出てきたようだった。 298-9
情景と会話している。闇を作る松の木々も、ひとりでに止まるスプリンクラーも世界からの応答であり、鋭敏に働く直感の投影なのだ。この描写によってアーデンという人格もまた情景の一部となる。
「いやはや、それを目撃せずにすんだのはありがたかったね。キャロラインが逃げだしたのも無理はない。聞いたかね? キャロラインはニューヨークに引っ越したのさ。わしらを見放して」
「ポーシャに聞きました。キャロラインは向こうでなにを?」
「妹が死んで、アパートメントを相続したのだよ。なにをしているのかは知らん。なにをしてるかといえば、なんにもしていないだろう。どんな人間だって、どんな場所にいても、なにをしてるかといえば、なにもしてはいないのさ」
「絵を描いているのかもしれないですね」オマーは言った。
「それこそ、わしの言わんとすることだ」アダムは言った。「なにもしていないのと同じさ」 423
そう、ひとは自分たちでおもっているほど日々なにかを為しているわけでも実はなく、というより実際のところこの宇宙において、ほとんどなにもしていないのだ。
金沢暮らしの友人よりご恵贈いただいた一冊、感謝。
3. エマヌエーレ・コッチャ 『家の哲学』 松葉類 宇佐美達朗 訳 勁草書房
Emanuele Coccia “Philosophie de la maison. L'espace domestique et le bonheur” Paris, Bibliothèque Rivages, 2022
https://x.com/pherim/status/1879397291121168504
副題:家空間と幸福。
長いため別立てとしました。→よみめも番外編
https://tokinoma.pne.jp/diary/5543
コッチャ前著『メタモルフォーゼの哲学』(よみめも95) https://tokinoma.pne.jp/diary/5432
4. 鈴木結生 『ゲーテはすべてを言った』 朝日新聞出版
著者ご本人へインタビューする機縁を得た。→URL後日追記
芥川賞受賞後のマスメディア他からの取材攻勢はものすごく、しかしネットで散見するかぎりどれも似たようなことばかり尋ねており、かつ著者の近影にばかり焦点化する嫌いがあって、鈴木結生さんも自動人形のように即答する浅い問いをくり返し聞くのは正直飽きる。ので、聞きたいことだけ掘り下げることにしたのだが、ご本人も精力的に乗り切ってる最中の取材であったのもあって、心の奥から汲み上げるように手間をかけ言葉を紡ぐ時間を楽しんでくれた様子で、まぁ良かった。
なかでも「ドイツでの大学院生活経験に基づく石沢麻依の小説が群像新人文学賞と芥川賞を獲ったことは、これなら行けると思わせてくれた」という話や、その流れにハン・ガンなど非欧米/非男性作家をめぐるそれ以前の質問を結びつけ多和田葉子小説のローカリティと普遍性へ展開する話が引き出せたのは、なかなか達成感ある手応えを得た。
「『ファウスト』の最終幕にあって、全宇宙の時空間は、愛によって一つになっています。しかし、それぞれの世界はその特性を失っていません。それこそがゲーテの夢だったのです。彼もこう言いました。Love does not confuse everything, but mixes. Goethe」
それは許されないことだった。今まで統一が学者として積み重ねてきたものを一遍に崩壊させかねないことだ。しかし、今まさに窓から吹き込む風に煽られて捲られていく丸谷才一『樹影譚』の頁には「楽になるためには、書くしかない。わたしはこの荷物を目的地 まで持ち運ぶことによって、自由な身になりたいと願ってゐる」とある。自分に小説は書けない(書こうとしたことは何度かある。書いてみてはと言われたことも……)が、こうして件のゲーテの名言を自分の文章の中に組み込むとき、統一は確かに「自由」を感じた。すべては成し遂げられ、軽くなった。
一つの犯罪を終え、統一はリビングまで歩いて行った。今まさに忘却の川へ流されていこうとしている夢見の実感とこれまで経験したことのない犯行の鈍い手触りとが混じり合い、自由の軽さとの重さが彼を混乱させた。胸の鼓動を如何ともしがたく、半ば這い上 がるようにしてやっとソファにもたれた。現在、三時二十二分もしくは三時四十二分。 93
本書中で核の一つとなる学者の捏造事件のモデルとなった深井智朗スキャンダルをめぐる話も媒体的にもちろん重要(上記引用部内“犯罪”がそれに関わる)だったけれど、当の捏造をしてのける作中の登場人物を、鈴木さんはかなり好きになってしまって不幸な道行きを辿らせることに罪悪感を覚え、解決策が見つかった時は泣いたという話も印象深い。実際、“解決”にあたる場面は一読者として最も熱量を感じもしていたから、納得感も深かった。
あとは、幼少時に親から与えられたのが各々のジャンルの最良部で、映画なら黒澤、漫画なら手塚という連なりで、手塚はファウストを3度も漫画化したのが興味深い、本作中の水木しげるはファウストを描かなかったというくだりから、「いや、『悪魔くん』は水木にとってのファウストだった」という読者コメントに鈴木結生さんは「あぁ、これを書いて良かった」と思うほど感銘を受けたというエピソードは面白い。「悪魔主義的なギミックとキリスト教を結びつけ発想しない、あるいはできない、それは著者なりの信仰の顕れなのだろう」と当該コメントにはあったそうで、人知れず著者をも感動させてるレビューコメントってやはりあるのだなと。そりゃあるか。
※この項では、予定を超過し80分ほどお話ししたなかで、こちらへスピンアウトしても無問題と思える余談部を書いておく。記事になっても良い前提でお話しされているのに、全くシェアされないのももったいないなと思えるものたちゆえ。
5. 保坂和志 『小説の自由』 新潮社
アウグスティヌスたち
保坂和志『小説の自由』は、刊行された2005年に買って読んでいる。そう言い切れるのは、2006年以降は本が読めない時間を震災前年まで過ごしたにもかかわらず、当時の単行本には既読の痕跡が大量に残されているからだ。震災以前の読書記憶は概ねこんな風でほぼ失われているために、その痕跡が残る本を読むたびに驚かされる。
そして20年前のほうが基本的に明晰で、何であれクリアにものを考えることが出来ていたと感じるのだけれど、『小説の自由』についてもそれは言えて、というか最近村上春樹『遠い太鼓』再読のメモでも書いたし、東浩紀『存在論的、郵便的』再読の際にも思ったけれど、いずれも自らの血肉になっており、かつ忘れている、ことを再読により再確認させられる流れはまったく同じだった。つまり、この本に書かれていることは多かれ少なかれ感性的に内面化されていて、内面化されていることの自覚はいま初めて抱いた(、ような気がする)。
ところが、終盤のアウグスティヌスをめぐる記述についてのみ、これとはかなり異なる印象がある。端的に言って当時はまったく読めていなかった。というより、アウグスティヌスとトマス・アクィナスの違いも大してわからないままフンフンと読み進めた結果、たぶん保坂和志が言おうとしていることのほんの一面を上滑るように受けとるに留まっていた。もちろんまったく違う時代の大神学者とは何もかもが違って当然なので、「トマス・アクィナスとの違い」とはものの比喩に過ぎない。
もっともほとんどの保坂読者にとって、こんな物言いは枝葉にしか感じられないはずだ。なぜなら保坂の本を読む以上、重要なのは保坂和志がその文章を通し何を表現しているかであって、『小説の自由』はその筆致からまず論的に読み込まれ、抽象化された主張すなわち小説論こそに重点を置かれるだろうからだ。このとき幾らその引用が重ねられたところで、保坂が説明する範囲外のアウグスティヌスが背負う神学文脈など余計に感じられるとしても、その感性は書き手への信頼に基づくぶん特に悪質なものでもない。ただそれで『小説の自由』終盤のアウグスティヌス章を理解した気になるとすれば、保坂自身の論旨に照らしても貧しい読みであることはまた確かだ。保坂による抽象だけを受けとることの不毛を保坂はここで説いている。
それはそうと保坂がこの本でアウグスティヌスの次に多く名を出すのがトマス・アクィナスなのは順当として、その次がカール・バルトなのはやや意外というか、そうなんだと感心した。良し悪しではなく、そこはやはり経路依存のニュアンスが色濃く、たまたまある時代の日本が翻訳大国で、その時代に山田晶がいたから保坂がこの本で「アウグスティヌス」と書いた“部分”をめぐっては、アウグスティヌス以外でも当然あり得た。アウグスティヌスは複数いたし、なんなら日本にもあり得た。
「アウグスティヌスとトマス・アクィナスの違いも大してわからない」20代の私にはつまり、アウグスティヌスが生きた時代のローマ教会は周縁的存在だったことへの理解がなかった。エルサレムにもコンスタンティノポリスにも、アレクサンドリアにもアンティオキアにもローマと対等の主教座が機能し(体制化はむしろ死後)、すなわち現代のカトリック~プロテスタントの布置から想像するのとはまったく異なる世界図の中で彼は思考した。その後ローマ以外がオスマン支配に置かれたからこそ保坂和志は《この》アウグスティヌス『告白』山田晶訳を手にとったのだが、そこにはアレクサンドリアのアウグスティヌスや、コンスタンティノポリスのアウグスティヌスが可能的にというよりはよほど実態的に存在し、エルサレムのアウグスティヌスからオリエント、シルクロード経由で唐の西安にたどり着いた思考に駆動される東洋のアウグスティヌス的表現意思とてあり得たろう。保坂和志たちがそれらを受けとり、書き継ぐ世界がここに生じる。
それからカール・バルトにも複数回言及されているのは、おそらく保坂が池袋セゾンのカルチャースクール(現池袋コミュニティ・カレッジ、当時は少し違う名前だった気がする)へ勤務していたことが影響し、また保坂がキリスト教文脈へ深く浸ったうえで選択的にアウグスティヌス言及へ至っているのではないことが読み取れる。また保坂のマザー・テレサ言及については、生前の彼女へ直に触れた身として思うことは幾つかあったが、これも書ける機会が別に持てたらいい。気になるひとがもしいたら、銀座教文館ビル上階の神学棚などを眺めると、こうしたあたりの事情はけっこう窺えるかもしれない。あと山田晶『アウグスティヌス講話』は界隈でも名著として知られている。
こうした想念のつらなりにどれだけ意味があるかはもちろん多面的に疑わしいけれど、こう書くことで先へ進む思考というものは確かにある。それが大事、とは『小説の自由』の啓すところだ。
神学書を小説表現として読む。という姿勢はめっちゃ共感する。
6. フランツ・カフカ 『城』 新潮文庫
変身しないグレゴール・ザムザによる迷宮彷徨。さまよっているのは霧に包まれ中心の見えない城下町か、心の闇なのか。各々に各々の事情や欲望を抱える登場人物たちがみな同質の湖水へ浸るそこは水底、沈み失われた遺跡の街ゆく亡霊たちのざわめきにも思えるこの物語の、『百年の孤独』のホセ・アルカディオとアウレリャノ描く垂直性が水平性のクラムへ転化したような冗長的世界観、のあまりにも唐突な会話文による幕切れ。絶筆、未完と言われればその通り、でもこれはこれで100周まわって正しい終わり方という気もしてまう。
なんにせよ、本作が読まれつづけるかぎりその社会に保たれる正気はちょっとありそう。人知れず受け継がれる感性のようなもの。
7. 阿部和重 『オーガ(ニ)ズム』 下 文春文庫
四十五歳七ヶ月の男、阿部和重が跳躍する。疾走し、八倒する。しまいには七十二歳の男へと。
この四十五歳七ヶ月の男と四十六歳CIAエージェントとの凸凹バディ展開の楽しさについては上巻メモでも触れたけど、これに六歳での鎌倉大仏訪問に始まるバラク・オバマの訪日描写が、四十九歳、五十二歳、五十四歳と重ねられることにより、米国大統領と頼りなげな主人公・阿部和重とが併置される構図がもう阿部和重ワールドでひたすら楽しい。あげく現職米国大統領が山形の山奥で少年マスターから啓示を受けちゃったりして6歳児の少年マインドをたぎらせる。アツい。
ひと筋縄ではゆかない権威主義国家であれ、どしがたいテロ支援国家であれ、違法脱法に走りがちでも完全なる無法を生きているわけではない。どの国であろうと体制維持にかかるコストで四苦八苦していることに変わりはなく、そこで守られている一定のルールこそが国政統治の最ももろい部分と言える。
その意味で、国家にとって真に厄介な相手は敵国でも周辺国でもなく、ましてや国連でもない。それは体制維持につながる一定のルールをときに脅かすものだが、組織や個人でもなければ生き物ですらなく、主体性を欠きつつも人間の感情や欲望にじかに働きかけ、あまねく世界に存在し毒にも薬にもなりえて流動性に富むかたちのない勢力だ。そんな勢力との適切なつきあい方を知る者は、いまだこの世のどこにもいないはずだから、当の方法を探しあて、交渉のトリックとして利用できるようにすることがなによりも急がれる。 841
そして登場するのが終盤の上記引用部であるあたりの周到、巧緻ぶりには毎度ながら驚かされる。暴力装置は暴力装置の理屈が通用するからプーチンも習近平も国家を代表するうちはまだ御しやすい。本作の初出は文芸誌2016年掲載で、2019年4月とある謝辞の記載は事実だろうから、現今のウクライナやパレスチナよりも一段階前の情勢下で発揮されたこの炯眼にはあらためて唸らざるを得ない。クリミア侵攻の頃のようには、現ウクライナ戦争に国家同士で歩留まりを読み合う手打ちなどもうあり得ず、「当の方法」を誰ひとり制御できていない。ドナルド・トランプはフォースなど信じない。こんな状況では、ただ阿部和重にがんばってもらうしかない。
書かれることで乗り越えられる世界もきっとけっこうあるのだから、そこは楽しみ。
8. フィリップ・K・ディック 『流れよわが涙、と警官は言った』 友枝康子訳 ハヤカワ文庫SF
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のかたゆで卵版。という以上の説明をしたら、万が一ここを読んだあと本作にあたろうなんてひとが出たら大変に失望させてしまいかねないけど、まぁ読み出してすぐにそのあたりの予想はきっとついてもしまうものだろう。
SFとしての凄味は“電気羊”に軍配が、でも小説としての深みはこちらのほうがやはり優る。実存かかってる感に優るぶん、なのかな。1964年作に対する、1974年作でこちらは病んでる時季に4年もかけ推敲を重ねているせいもあるのだろう。
大森望の文庫解説がまた、アツかった。この激情ぶりはディック逝去後まもない頃に書いたのかと奥付とwikipediaを照らし合わせるとそうでもなく、7年ほどの開きがある。大森望さんておっとり翁感ある最近の姿しか知らないから、この湿った筆致はけっこう意外かつ新鮮だった。まぁよく組んでる豊崎さんとの対照でよけい好々爺に見えるというのもきっとありそう。以下はそこからの孫引き。
いまわたしが怒り狂っているのは、いちばんの親友のドリスという二十四歳の女の子のことだ。彼女はガンに罹っている。わたしの恋している人間は、いつ死ぬかもしれないのだ。 そこで、神とこの世界に対する激怒がわたしの体内を駆けめぐり、血圧が上がり、脈拍は速くなる。そこでわたしは書く。わたしの愛する人たちのことを書き、彼らを現実の世界ではなく、わたしの頭から紡ぎだされた架空の世界の中に住まわせようとする。現実の世界はわたしの基準に合わないからだ。わかってる、自分の基準を修正すべきなんだろうさ。わたしは足並みを乱している。わたしは現実と折れあうべきだ。だが、一度も折れあったことはない。SFとはそういうものなんだ。――『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディックIII』 (浅倉久志訳)
9. 佐藤文香編 『俳句を遊べ!』 小学館
おどろいて握り潰れた桜もち
春あらし襟をたてると風は止み
某所での入門者向け句会でお世話になった俳人でコピーライターの原麻理子さんからお奨めいただいた一冊。ちなみに上記2句はその某句会へ事前に提出し、匿名状態にて評価をいただいた三句のうち二句。
575で、季語があると俳句、ないと川柳、77がつくと短歌。という以上になんの造詣もない、日本人としては最底辺からのスタートなので、諸々新鮮で面白い。歳時記リストを眺めて選ぶなんて作業も初めてなので、どうしたって物珍しいやつを使ってみたくなる。本書では全く初心者でイラストレーターのひらのりょうさんの句
薄い川に映るビル街へこき虫
がその事例に挙げられていて、「へぇこれ季語なんだ」という目新しさから採用した「やってやったぜ感」が見える句とされてしまい、なるほどと。なるほどって読んでから上記某所句会へ臨んだのに、やってしまった拙句が下記。
改宗し亀鳴く夜に教え聞く
某句会では三句のうち一句へ「改」の字を入れるというのがお題だったのだけど、「亀鳴く」が春の季語なんだおもろ、と使った結果、提出して時間がたってから当日読むと、我ながら絵に描いて額縁に入れ受付に飾ったレベルで「やってやった感」の好例にしか見えない。句会は13人参加で各人3句へ点を入れるのだけれどもちろん、無得点。なむなむ。
ちな、ひらのりょうさんは昔、新千歳空港国際アニメーション映画祭にタイ土着の首おばけガスーกระสือを可愛くアニメ化した作品を出していて、その感想をツイートした際にご本人が反応してくれたことがあって、後日恵比寿映像祭でもガスーのインスタレーションが出ていて楽しかった記憶があり、こんなところで再会するとは。
ほか、本書に登場する中で気に入った句をいくつか。
想像の水母がどうしても溶ける 池田澄子 101
残る雪は徹底的に踏みつけよ 中村裕 188
夏河を越すうれしさよ手に草履 与謝野蕪村 208
涼風も仏任せの此身かな 小林一茶 209
真白き箱折紙の蝉を入れる箱 生駒大祐 201
佐藤 さらに、「真白き箱」は6音、「折り紙の蟬を」は8音だから、五七五じゃなくて六八五なんですよ。これを「白い箱折り紙の蟬入れる箱」にすれば五七五だけと、この不吉さは出ない。
又吉 そうですねえ。
佐藤 「白い」とか「真っ白な」ではなく「真白き」の「き」が入ることで、箱の角ばった質感が出ています。それに「折り紙の蟬を」も、かなり口を動かさないと言えないんですよね。同じ母音が連続することがないし、マ行音が入ると一旦唇を閉じないといけないし。ロボットの発話みたいになる。蟬が直線的に折られているのが響きから感じられます。 204-5
この解説はヤバい、ことばの彫刻家ですの。で、中学校の宿題でこの課題を提出したら、折紙の蝉では季語にならないと直されたり、意味がわからないと笑われて終わる可能性を佐藤文香さんは危惧したりする。ありなんおもろ。
というわけで、とりわけ某句会主宰の原さんからいただいたコメントを受け推敲したのが下記。いただいたコメント自体も大変含蓄のあるもので考えさせられ新鮮だったのだけど、DM含むので内緒。
ね、ほんの一部、なんなら平仮名一字の改変なのに、なんか良くなってません?
おどろいて握り潰した桜もち
春のあさ襟をたてると風は止み
10. 藤本高之 編著 『イスラーム映画祭アーカイブ 2025』 イスラーム映画祭
https://x.com/pherim/status/1892125225677889749
気づけば6冊目。それまでの総括的な初回本を除くと、上映作品数に応じ毎度ほぼ同じ厚さながら、個別のコラムはより長大化し、内容的にも深化してきた感がある。2025を初期と比べれば、その差は一目瞭然だろう。常連執筆者なら当然そうなるというのはあるし、回を重ねるごと編集者=主宰者も観客=読者も中東にしろカシミールにしろどんどん解像度を上げていったので、その反映ともいえる。
イスラーム映画祭10 主宰者・藤本高之さんインタビュー by pherim
https://www.kirishin.com/2025/02/17/71516/
イスラーム映画祭自体に通いだしたのは2016年からだが、毎年のインタビューと全作鑑賞、そして2020年からのアーカイブ通読は、人生全般を見渡してもこのうえない映画体験のひとつとなったし、イスラーム関連の大著をいちどきに漁ったり、イスラーム諸国滞在前後に知見を増やしたりという従来の仕方では得難い異文化理解の端緒も多く掴ませてくれたようにおもう。なにより映画本体のセレクションが毎度神がかっており、毎年この期間の充実度には東京国際映画祭などとも全く異なる、特有の滋味深いものがあった。
藤本高之さんには感謝しかない。おつかれさまでした。
『イスラーム映画祭 アーカイブ 2015-2020』https://tokinoma.pne.jp/diary/3932
『イスラーム映画祭アーカイブ 2021』https://tokinoma.pne.jp/diary/5539
『イスラーム映画祭アーカイブ 2022』https://tokinoma.pne.jp/diary/4550
『イスラーム映画祭アーカイブ 2023』https://tokinoma.pne.jp/diary/4893
『イスラーム映画祭アーカイブ 2024』https://tokinoma.pne.jp/diary/5539
▽非通読本
0. 町屋良平 「小説の死後――(にも書かれる散文のために)――」 書肆侃侃房 web侃づめ
https://note.com/kankanbou_e/n/n71894022a709
この「小説の死後~」プロジェクトは、すでに群像、文学フリマ頒布の書肆侃侃房小冊子、文學界と媒体を変えながら進行しており、第三批評での青木淳悟さん招聘座談会企画を前に今回再読した。
群像初読時には、「あ、小説文体でやるんだ」と意外さも若干感覚していたのだけど、それはこの序章を純「批評文体」として読んでいたからで、けれど「小説文体」が以降恒常化していることを知っている現在からみると、この序文も「小説」として読めるよう企図されている。というよりあらかじめ、そのような読み手の思い込みを軽く対象化してみせるのは町屋良平本来の持ち味のひとつでもあるのだし、気づいてみれば何ということもない。だが近い将来に刊行されるのだろう当プロジェクトをまとめた単行本をもし初めに読んでいたなら、これは気づきようもない時差を含みこむ観点なので、振り返り用に書き置いておく。
書き手が無意識のうち、読者の読みたいものを書いてしまう“罠”が、今日は以前よりも強めに働いてしまうこと。これを「想像力」のもっとも短絡的な商品化と呼ぶこと。そこに抗う小説こそが、いま必要とされる小説であること。なによりもこの「私」に。だから、批評を始める。2000年代から2015年までの小説を。なかでも青木淳悟「四十日と四十夜のメルヘン」をくり返し読む。
明解にして刺激的。高橋源一郎と保坂和志以降の書き手が怠ってきた努力を遅きに失した私だからこそ、やるのだということ。わかりやすく、さらに20年後まちがいなく参照されるこれは今、日本語小説の表現性と現在性に関心を抱く者は必読のプロジェクトだと確信される。それがこれから最も脂がのった時代を迎えるのだろう中堅若手作家の手になる点も無論含めて。
▽コミック・絵本
α. 森薫 『乙嫁語り』 15 KADOKAWA
中央アジアの乙嫁宇宙へ、『エマ』『シャーリー』の森薫英国世界がまさかの貫入、ペンギン村を訪れた孫悟空状態でこれは楽しいブリテン編。羊の描き分けとか相変わらず手が細かいし、異文化隣合わせ状態で描線もより際立って見えてくる眼福時間。たまたま39.5℃の高熱にうなされるなか眠り続けられもせず読んだ一冊だけれど、カフカースの空まで脳内をぶっ飛ばしてくれもして、久々の新刊だけなのもあって記憶に残る読書体験になった感。期せずいただきし見舞いの品多謝。
織物も馬も相変わらずの最密度だけど、帆船描写も今巻は凄かった。まぁ芸術よね。いずれこれもルーブルとかで展示されるとき来るかと。(もう来てるかもだけど)
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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β. 毛塚了一郎 『音盤紀行』 2 KADOKAWA
こちらも高熱下良体験の一書。音街レコードが世界へ展開、時代も自在に行き来して、じっくり煮詰められた物語群が毎話読ませる。
なかでも2巻は、レコード店の品揃えに被植民地的な屈辱を抱く店主妻が、米軍キャンプへ家政婦として“潜入”する最終話が沁みる。あと恒例の海賊放送局員ネタ(これが恒例になってること自体の珠玉性>w<b)が、ビートルズオマージュのスタッグスメンバーと交錯する見開きページの会話が最高にイカすんだな。マンガ大賞とか、ちゃんと選ばれてるんだろうか、きちんと評価されててほしいやねー。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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γ. 山下和美 『数寄です!』 壱-弐 集英社
きっかけが何だったか思い出せないのだけど、高校生くらいの頃『天才柳沢教授の生活』がめっちゃ好きで何度も読み返し、周囲に誰も読んでいるひとがいないことを嘆きつつもこの面白さを自分だけがわかってることへの誇りみたいなものさえ抱いてた。『数寄です!』はその作者山下和美が、自宅として数寄屋を新築しようと友人設計士とともに悪戦苦闘するお話で、穏やか和み筆致の中にも知性きらめく柳澤教授の味わいがそのままドキュメンタリーへ引き写されてる感じがとてもよい。
彼女くらい売れてる漫画家だからこそ複数のアシスタントを抱える工房をも含む数寄屋を建てられるんだと思いきや、金銭繰りの大変さも詳細に描かれていて、話が進むと出版不況が深刻化したりして、そういう時代性というか今日性も趣深い。二巻末の三巻予告で、東日本大震災の発生が大変な影響をもたらすように仄めかされていて、ようやく上棟式まで漕ぎ着けてのにどうなっちゃうのおぉん、ってなる。
(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)
δ. よしながふみ 『大奥』 19 白泉社
堂々のフィナーレ。漫画でここまで濃い体験も珍しい。涙々の場面もサラッと行っちゃう積み重ねで皺寄せがドバって来る感。維新場面で泣くとはねぇ。
いや天璋院篤姫かっこよすぎるし。てか数巻で消えてくカッコよすぎ主人公キャラ多すぎたし。いや50巻くらいのボリュームを圧縮した感ありましたね。かつキングダムとか少年漫画の100巻より、物語的にだんぜん分厚い。
しかも維新後。勝海舟の船で洋行しちゃう天璋院、いいねぇ。って史実が気になったら、自分は薩摩からお金もらわず徳川として生き続け、徳川家達をイートンへ留学させてるのね。SASUGA篤姐アツい。
ε. 芥見下々 『呪術廻戦』 21-27 集英社
光を嗅ぐように
音を見るように
相手の全て 自分の全てが感じ取れる
そうなったら目の前の肉体も勝敗すら意味を成さない
22巻、覚醒した禪院真希がカッパの「精神と時の部屋」で千番稽古してさらに高みへ登るやつ、好き。自由さ。絶好調!
25巻、五条悟おもいのほかアッサリ復活、以降の宿儺とのタイマンはこれ、ゲーム設定で魅せる感ものすごく、“考察”したがる層への刺激パないの理解できる。てかここまでし甲斐のある漫画も珍しいよねっていうレベルでは、ハンターハンターと並ぶ極みでは。
からの26巻五条あっさり没。要は設定MAXすぎて他キャラみたいに膨らませられないのかもね。芸人高羽27巻とか、予想外すぎてこれで夏油退場はもう信頼できない語り手巻の趣きさえ。鹿紫雲の白亜造形、画として好き。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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