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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2024年
12月27日
10:19

よみめも97 放浪演技怪獣塔

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
  Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV




1. 林芙美子 『放浪記』 岩波文庫

 巷に雨の降るごとく、何処かの誰かがうたった。重たい雨。厭な雨。不安になって来る雨。リンカクのない雨。空想的になる雨。貧乏な雨。夜店の出ない雨。首をくくりたくなる雨。酒が飲みたい雨。一升位ざぶざぶと酒が飲みたくなる雨。女だって酒を飲みたくなる雨。昂奮してくる雨。愛したくなる雨。オッカサンのような雨。私生児のような雨。私は雨のなかをただあてもなく歩く。 386


(六月×日)
 朝。
 ほがらかな、よいお天気なり。雨戸を繰ると白い蝶々が雪のように群れていて、男性的な季節の匂いが私を驚かす。雲があんなに、白や青い色をして流れている。ほんとにいい仕事をしなくちゃいけないと思う。火鉢にいっぱい散らかっていた煙草の吸殻を捨てると、屋根裏の女の一人住いも仲々いいものだと思った。朦朧とした気持ちも、この朝の青々と した新鮮な空気を吸うと、ほんとうに元気になって来る。だけど楽しみの郵便が、質屋の流れを知らせて来たのにはうんざりしてしまった。四円四十銭の利子なんか抹殺してしまえだ。私は縞の着物に黄いろい帯を締めると、日傘を廻して幸福な娘のような姿で街へ出てみた。 例の通り古本屋への日参だ。
「小父さん、今日は少し高く買って頂戴ね。少し遠くまで行くんだから……」この動坂の古本屋の爺さんは、いつものように人のいい笑顔を皺の中に隠して、私の出した本を、そっと両の手でかかえて見ている。 70



 男をめぐる記述は、同室の年下女性をめぐる記述に並ぶ『放浪記』の白眉だけれど、いずれも長く引用しないと良さを留められないので一箇所だけ。


 夜。
 松田さんが遊びに来る。私は、この人に十円あまりも借りがあって、それを払えないの がとても苦しいのだ。あのミシン屋の二畳を引きはらって、こんな貧乏なアパートに越して来たものの、一つは松田さんの親切から逃げたいためであった。
「貴女にバナナを食べさせようと思って持って来たのです。食べませんか。」
 この人の言う事は、一ツーツが何か思わせぶりな言いかたにきこえてくる。本当はいい人なのだけれども、けちでしつこくて、する事が小さい事ばかり、私はこんなひとが一番嫌いだ。
「私は小さいから結婚するんだったら、大きい人と結婚するわ。」
 いつもこう言ってあるのに、この人は毎日のように遊びに来る。さよなら! そういってかえって行くと、非常にすまない気持ちで、こんど会ったら優しい言葉をかけてあげようと思っていても、こうして会ってみると、シャツが目立って白いのなんかも、とてもしゃくだったりする。
「いつまでもお金が返せないで、本当にすまなく思っています。」
 松田さんは酒にでも酔っているのか、わざとらしくつっぷして溜息をしていた。さくらあらいこの部屋へ行くのは厭だけれども、自分の好かない場違いの人の涙を見ている事が 辛くなってきたので、そっとドアのそばへ行く。ああ十円という金が、こんなにも重苦しい涙を見なければならないのかしら、その十円がみんな、ミシン屋の小母さんのふところへはいっていて、私には素通りをして行っただけの十円だったのに……。セルロイド工場の事。自殺した千代さんの事。ミシン屋の二畳でむかえた貧しい正月の事。ああみんなすぎてしまった事だのに、小さな男の後姿を見ていると、同じような夢を見ている錯覚がおこる。
「今日は、どんなにしても話したい気持ちで来たんです。」
 松田さんのふところには、剃刀のようなものが見えた。
「誰が悪いんです! 変なまねは止めて下さい。」
 こんなところで、こんな好きでもない男に殺される事はたまらないと思った。私は私を捨てて行った島の男の事が、急に思い出されて来ると、こんなアパートの片隅で、私一人 が辛い思いをしている事が切なかった。
「何もしません、これは自分に言いきかせるものなのです。死んでもいいつもりで話しに来たのです。」
 ああ私はいつも、松田さんの優しい言葉には参ってしまう。
「どうにもならないんじゃありませんか、別れていても、いつ帰ってくるかも知れないひとがあるんですよ。それに私はとても変質者だから、駄目ですよ。お金も借りっぱなしで、とても苦しく思っていますが、四、五日すれば何とかしますから……」
 松田さんは立ちあがると、狂人のようにあわただしく梯子段を降りて帰って行ってしまった。夜更け、島の男の古い手紙を出して読んだ。皆、これが嘘だったのかしらとおもう。ゆすぶられるような激しい風が吹く。詮ずれば、仏ならねどみな寂し。 226-8



 他に「地球よパンパンと二つに割れてしまえ、」から始まる、寝床で隣に眠る男を腐すp.55とか好き。

 書くことをめぐる断章として下記。


(八月×日)
 速くノートに書きとめておかなければ、この素速い文字は消えて忘れてしまうのだ。
 仕方なく電気をつけ、ノートをたぐり寄せる。鉛筆を探しているひまに、さっきの光るような文字は綺麗に忘れてしまって、そのひとかけらも思い出せない。また燈火を消す。するとまた、赤ん坊の泣き声のような初々しい文字が瞼に光る。段々疲れて来る。いつの間にかうとうとと夢をみる。天幕のなかで広告とりをしていた夢、浅草の亀。物柔らかな暮しというものは、私の人生からはすでに燃えつくしている。自己錯覚か、異様な狂気の連続。ただ、落ちぶれて行く無意味な一隅。ハムズンの飢のなかには、まだ、何かしらたくらみを持った希望がある。自分の生きかたが、無意味だと解った時の味気なさは下手な楽譜のように、ふそろいな濁った諧音で、いつまでも耳の底に鳴っているのだ。 496


 私は、書けるだけ書こう。体は割合丈夫だ。その丈夫さがいとわしいのだけれど、仕事をするには、体が健全でなければならないと思っています。果てる時は果てる時だと思っている。大熊長次郎という人の歌にこのようなのがある。

 静にぞねむらせたまえ
 命死にゆく時のおわりに

 これは、ほのぼのとした歌で、強がっている私を妙に悲しがらせる。実際悲しい時がある。勉強も字を書く事も嫌になってしまう時がある。芝居や映画も久しく疎縁だ。白々しい時は、唇に両手をあててじっとしているに限る。媒介物によって身を終ってしまいたいような、そんな焦々した日も多いのだけれども、ほんとうはこれからいい仕事をしたいと思っています。「大した仕事じゃないじゃないか。」という、その私の大した事でもない仕事に、私はいまなお拘泥して生きているのです。何も大道の真中を行くのばかりが小説でもないと思っている。片隅の小道を通るような、私なりに小さくつつましいものが書きたいと思います。 352


 何事もおぼしめしのままなる人生だ。えらそうな事を考えてみたところで、運命には抗しがたい。昔男ありけりではないが、ああ、あんな事もあった、こんな事もあったと、暗い窓を見ていると、田園の灯がどんどん後へ消えてゆく。少しも眠れない。一つのささやかな遍歴の試みが、私をますます勇気づけてくれる。何でも捨身になって働くにかぎる。詩なぞはもうこんりんざい書くまい。詩を書きたい願望や情熱は、ここのところどうにもならない。大詩人になったところで、人は何とも思わぬ。狂人のようになれぬ以上は、このみじめな環境から這い出すべしだと思う。夜の雲がはっきりみえる。 504



 《解説》より。


 放浪記を書いた始めの気持ちは、何か書くという事が、一種の心の避難所のようなもので、書く事に慰められていた。私は、当時は、転々と職業を替えていたし、働く忙わしさでいっぱいであったから、机の前に坐って、ゆっくりものを書く時間はなかった。作家になるなぞとは思いもよらない事だったが、とりとめもない心の独白を書いているうちに、私は次々に書きたい思いにかられ、書いている時が、私の賑やかな時間であった。男に捨てられた事も忘れたし、金のない事も、飢えている事も忘れた。二日位食べなくても、私は到って健康であった。(『放浪記II 林芙美子文庫』 あとがき) 553




2. 町屋良平 『生きる演技』 河出書房新社

「向くんも高橋先生も、撮影してた子も傍観してた子もわたしも、生崎くんも、みんな演技してたんだと思うよ。それはあのときたまたま濃かったけど普段からそう。高校生であるとか、教師であるとか、ヤンキーであるとか、そういう演技をしていることが、樹がぜんぜん演技をしなかったことで、あの瞬間に露呈しちゃったんじゃないかって、思ってるんだよね。だって、ほんとに「ヤメロー、やめてくれ」って思って、そう言ってたんだもん。そんなひとがあの場 に他にいた?」 54

「ハイ、おかあさんが自殺したときのことを・・・・・・」
 笹岡ならそう言うかもしれないが、それすらも嘘。本当はなにも考えずただ場に集中すればいつでも泣ける。だから台詞や文脈など関係ないそうしたテレビ番組などの方がはやく泣ける。人間がほんとうに集中するとき、自己同一性や個人の趣味嗜好を離れて場にズレた身体に、複数の意識が入り込んでくるから昂る。どんな場でもえぐい感情や常軌を逸したハッピーは同等に溜まってい、だから場をちゃんと見て身体に入れればどんな感情にもなれた。「私」じゃない身体になれば泣けるような蓄積がどこにでも落ちていて、場にこもれば誰だって泣ける。どんな幽霊も泣けるものなら泣きたいはずだ。そのようなかれもだれも言葉では考えていない泣くコツを、「えっと、なんとなく」と応えると湧いた。天才とは集中する場のことをいう。 68-9


 関わっている同人で、町屋さんをお招きした座談会を企画、町屋作品をめぐる批評を寄稿した。↓

 『第三批評 創刊号』Booth販売始めました。→ https://booth.pm/ja/items/6349906

 関連で読んだ町屋作品のうち、最も重たい衝撃を受けたのが本作『生きる演技』だった。
 

「いや大丈夫すよ。8R後に2Rマスして、そのあとSR首相撲いいですか?」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 なるほど、試合に出れば、それだけいっぱい練習ができるのか、とかれは気づいた。そのように時間は熱意によって濃さが変わっていく。濃ければ濃いほどいい、人生や生活をやらずに済むと身体が先に思った。なにかに集中していれば、この社会に参加しなくてもいいのか。あるいは身体が疲れきっていれば。対人練習を終えたあとで息をととのえているともう夜だった。この時間には両親は寝ているし、自分も飯食って風呂に入ったらすぐ寝る。
 濃い時間のあとは薄くてよい。身体がすうっと透明になっていくような疲れが気持ちよかったかれは、ひさびさに死にたくもならずまっすぐ寝つけた。 170

「いいよ。本気で当てにきて」
 そこから、なにかしらスイッチが入った。実力差が前提とされている、おそらく本当に攻撃 を当てるのは難しいのだろう。だが、「当てられる」という可能性に初めて経験する身体感覚が兆すのを感じた。葉賀といったん距離をおき、シャドーにいつもにはありえない集中がやどる。自分の身体にかかわる環境によって集中が変わる。それは意思を超えた人間の自由さだと感じた。自分ひとりではできない集中がある。たとえばマススパーや首相撲では、真剣に取り組むのだがどこか演技をしているような自意識の膜があった。だけど、攻撃を当てたいという相手ありきの意思によって本気が深まる。昨日までの本気を足がかりにして、さらに奥にある本気へ。そのように、他者によって知る自らの集中や本気に段階があり、もっと奥のそれを経験しなければ見えない世界があるということ。演技の現場でもそれを感じることがあった。たとえば息の合う共演者や制作陣と時間をともにすることで。
 止めたくないな、とかれは思った。だが止める。かれにとって生きるということはそうした 集中をことごとく手放すことだった。かれのリアリティはこちら側にある。止めたくないことから止めるのだ。そのように生まれてき、そのように生きていく。
ともにウォーミングアップを終えてグローブとヘッドギア、レッグガードをつけ、リングに上がりスパーを始めた。2R、一度でも狙ったコンビネーションを当てることを目標に集中した。葉賀の前蹴りやミドルの重さに阻まれ、距離を詰めることは難しかった。
「蹴り足にロー蹴って」
「パンチで終わっちゃだめ」 171-2



 会話文、こう使うのかと感心する。流れを変える。抜けをつくる。勢いをつける。書かれることが、より鮮明に浮かび上がる。
 

「ありがとうございます! じゃあ今日は、解散。また来週、席順を変えてやりますんで、来られる人はぜひ。なんか聞きたいことあったら、おれか、生崎に、聞いてくださーい」
 われわれは心の底からホッとし、一斉に窓の外を見た。 冬の近づく空はすでに暮れかけていて、月曜日から晴れつづけている乾燥した視界が山の端に滲む夕方の赤さをはっきり映した。いくつかの稜線が見えるもの見えないもの、複数に重なるうすい赤抹茶色の影が蒸発するように空と混ざる。緊張し、こわばっていた身体がほどかれると、演じることで感じていた恥が集合し、べつべつの人格として繋がっていた、そこから解放されたことに気づく。演じることで溶けあい、合流する人格において、とても現実ではありえないと思えることでさえできてしまえそうだった。物語の線を描き、補い合うことでわれわれは、自分の存在だけでは思うこともできないことを起こせそうでたのしい。おもしろすぎる。フィクションに合流する演技力は、 ふつうの状態では想像不可能なことへと思いきってしまえる。
 うれしかった。笹岡も、みんながそれぞれに自分のおもいや経験を、それぞれの身体に宿して演じてくれているなと、そんなことは考えもしないがたのしく、おもしろい。



 情景描写の貫入↓。珍しいけどたまにある。


 クラスの面々が引きあげてくるのを認めて、教室で自習していた花倉は保健室に戻った。その道中で仮にクラスメイトのだれかと遭遇してもまあいいと、花倉は教室に来れなくなってか らの半年間で初めて思う。保健室にこもっていても知っていた、クラスで浮いて嫌われていた笹岡が校庭で演劇をやってのびのびしている様子を見て、自分もあんな風になれたらと願う。うらやましい思いはしかし暗くはならず、樹木のてっぺんの枝が尖っているのを束の間見つめていると、葉が渦巻いて回転するように、木じたいがぐんぐん伸びていくように揺れた。窓の外では風が強いのだろうとわかる、花倉はしかし、そんなにうまくいくわけがないとも思う。笹岡も、自分も。結局クラスのだれとも会うことなく保健室に戻り、しかし校医には「二時間も教室いたよ? よくがんばったねー」と褒められた。
「演劇ねー。でもそれは学校だから。やっぱ知ってる場所だから、集中しやすいだけだな。できるとかできないじゃなくてそれだけ」
 ()
 最近ムエタイのジムをばっくれた。ラストまでいた日に掃除を手伝うふりをして鍵を開けて おいた窓から夜に侵入しキックミットをパクった。笹岡はいまだに毎日ミットを殴り、蹴り、 どんどん身体が痩せていく。
「いいよ」 276-7


人は、それぞれに死んでいくけど、なんというか、ひとつひとつは言葉にしても呆気ないものだよ。戦争になると、たとえば! たとえばだよ、いろんな階級とか、立場とか、政治的な主張から、弾圧とか粛清もあり、圧倒的な現実をつきつけられて、脱落する人がたくさんでる。学校に馴染めない人間が少しずつ、脱落して減っていくみたいに、ぼくも研究から脱落していったようにアイデンティティとしていたものから剥がされていく。その過程で、元より愛国的な人はそれが弱くなったり、反体制的な人はちょっと愛国っ ぼくなったり、他にもいろいろ、「私」だと思っていたものが減っちゃうみたいにふわふわする、そんなふうに、たとえば、たとえばだけど、国みたいなものに「私」が削られた人間が、なんか……一体化しよう、ってなる。ひとりひとりはそれぞれ違うつもりでも、いまそうなっていないならできない想像力で、できない思考回路でそうなる。つまり、平和なときは考えもしない、考えられもしない状況でアイデンティティが真逆になっていても気づかなくなってたりもする。これも、多分すぎる。都合いいおれの想像力にすぎないんだ。だからちょっと違うちょっと演出。……だけど、非常時だしここはまあ、いったん合流しようぜ! みたいな? 時代とか、局面が演出するのよね。だから戦争のときにあらわれる国家ってのは平和なときにいまある国ってのとまったく違うもので、それが、絶対主義といわれる以上に超、絶対主義と呼ばれもする、つまりだからこそ、しょせん、平和なときに言葉なんて。うーん……想像力なんて、言葉なんて、そう、呆気ないもの、呆気ない……だから、つまり、あのね。俘虜をリンチした人たちも、たしかにあの瞬間、人を殺そうとした。だけど……、 つまりその、それって」
 言葉は詰まっていく、それなのに学生時代に繰り返し読んだテキストが喚起するイメージばかり頭にあって、それは米軍俘虜虐殺事件の数ヶ月前におなじ土地で襲われた空襲のさなかに山中坂の壕で死んでいった人たちが生き埋めになった爪と口と鼻と髪の毛のあいだに詰まるおなじ成分の土が何人も死体。勝手に朝見の身体の想像しやすいようなその言葉のままのビジョンが頭のなかにある。だけど、それをそのまま爪と口と鼻と髪の毛のあいだに詰まるおなじ成分の土が何人も死体、そんな文体みたいに自分が経験したことでもないイメージを同じように 言っては教育ではないと無理する身体が言葉にふるえていた。
「つまり、笹岡くん、君は、どうしてあの演劇を」
「へー! 先生の言うこと、面白いね。それ、舞台に活かせそう」
 かれは言った。興奮していた。なぜか目の前の朝見というろくに会ったこともない人間の身体が、まるでそういう演劇のシーンみたいに言葉に行き詰まり、言葉に硬くさせられる様子を見て、自分がこれから演じる役柄へのインスピレーションをもらったのだった。なるほどリアリティとはこのように出すものだと感心した、かれは朝見の言う内容というより全体に感動していた。
「そっか。やっぱり、よくなかったね。ごめんなさい。相手がいくら卑劣なくそ野郎だからって、暴力もいきすぎて、あの男を殺せたなんておれ言って、ごめん。おれ、いまどうかしてるのかも」 290-2



 このあたりはアウシュヴィッツへの関心とも重なり過去の読書記憶も想起され、読ませる。

 「よみめも75」町屋良平『ほんのこども』https://tokinoma.pne.jp/diary/4737
 「よみめも45 魂消る」 https://tokinoma.pne.jp/diary/2972



立川警察署に勾留された笹岡は、夜じゅうなにも求めることはできない、求められることのないこの身体を空間に置いておくことそのものの苦痛を味わい、退屈すぎるのがまずキツく、つい取調の時間を待ち望んでしまっていた。だれかのことを思うこともできず、ひたすらその場に圧倒されてい、自分以外の者も生きているおなじ現実とは思えない、そんな場だった。数日同じ空間で同じように退屈し、合間に取調で喋る、そのくりかえしにも慣れ やく思考が戻ってくる、孤独にすら埋没しきれない意識があるのがわかった。
 退屈すら退屈しきれない身体だった。 331


 すこし家のなかを探索し、風景を見る。廊下で何度も「ただいま」「おかえりなさい」「いってきます」「気をつけて」を言いあい、二階の開いていた窓から入り込む風がリビングで合流し吹き抜ける。生活していたころの傷みに記憶がながれない。この家にいないものだけがここにいる。ずっとずっと昔からのここのここにいないものらの。靴下を脱いで床に立つときいんとつめたい。しかし首からうえは火照ってい、どんどん頬があかくなっていった。口のなかになにか味がする。 珈琲の香りがなくなっても消えない、この家ですごした記憶が味覚として舌にあるのだった。皮膚から吸われるたくさんの言葉はしかしこの身で翻訳することはできない。なにもオリジナルな言葉なんて言えないとわかる。だから台詞はぜんぶ、熱海からの電車のなかで暗記していた。その言葉がここにいないものとしてここにいる、そうある生崎陽という身体に馴染んでいき、すごく寒いな、とようやくおもった。冬だ。
 いまはもう冬だ。おれにはもう血の繋がった父親も母親もいない。笹岡には両方いる。その事実がどういうことなのかわからない。寒いから遠くがよく見える。この周辺にいたわれわれとかの間にだけあった言葉をぜんぶ捨てて、笹岡の言葉を生きよう。自治体が四時三十分を 告げる放送が遥かから聞こえた。おれは笹岡の手紙に書かれていた言葉を、自分の言葉として語りはじめる。 熱海‐立川間のこの移動で、だいぶ笹岡の文体がこの身に入り、より適切なそれへと変化しつづける、その場だけがおれなのだと、決めてしまった身体がある。前半は決まり文句がつよく一字一句を正確に言いやすい、しかし後半は暗記したままを諳じるのが難しく、意味がわからないその言葉をしかし言える渾然が、前半の定型句をアクセルとしてより集中するこの身と場にこもっていく。読みながら解釈し、集中のなかでおれは笹岡の言葉をおれが言いやすいように翻訳していくのだ。 355-6



 一番引っかかりを覚えた箇所は、メモを残さないでおく。
 これだけ引用して何だよという話だけど、そうしたほうが良いという直感が働いたので仕方ない。




3. エドワード・W・サイード 『オリエンタリズム 下』 今沢紀子訳 平凡社
 Edward Wadie Said, إدوارد سعيد “Orientalism” Vintage Books, US 1978


カーゾンの考えでは、地理学のもつ世界市民的性格とは、西洋世界全体にとっての地理学のもつ普遍的重要性にほかならなかった。というのも、西洋世界と他の世界との関係は、むき出しの欲望によって結ばれていたからである。しかも、地理学的な欲望は、発見し、現場におり立ち、暴露しようとする認識論上の衝動に特有な倫理的中立性をおびることができた。「ちょうど『闇の奥』の主人公のマーローが地図に対する情熱について告白している時にもそうであったように。

 僕は何時間も何時間も、よく我を忘れて南米や、アフリカや、豪洲の地図に見入りながら、あの数々の探検隊の偉業を恍惚として空想したものだった。その頃はまだこの地球上に、空白がいくらでもあった。なかでも特に僕の心を捉えるようなところがあると、(いや、 ひとつとしてそうでないところはなかったが、)僕はじっとそのうえに指先をおいては、そうだ、成長くなったらここへ行くんだ、とそう呟いたもんだった。〔コンラッド「闇の奥』 中野好夫訳、岩波文庫〕 42-3


 オリエンタリストとは書く人間であり、東洋人とは書かれる人間である。これこそ、オリエンタリストが東洋人に対して課した、いっそう暗黙裏の、いっそう強力な区別である。このことを認識することによって、我々はオルロイの発言を説明することが可能になる。東洋人に割り当てられた役割は消極性であり、オリエンタリストに割り当てられた役割とは、観察したり研究したりする能力である。ロラン・バルトが述べたように、神話(と、それを永遠化するものと)は、絶え間なく自己をつくりだしうるものである。東洋人は固定化された不動のもの、調査を必要とし、自己に関する知識すら必要とする人間として提示される。いかなる弁証法も要求されず、いかなる弁証法も許されない。そこにあるのは情報源 (東洋人)と知識源(オリエンタリスト)である。つまり、筆記者と、彼によってはじめて活性化される主題である。両者の関係は根本的に力の問題であり、それについては数多くのイメージが存在している。ここでは一例として、ラファエル・パタイ〔人類学〕の黄金の川から黄金の道へ」の一節をあげてみよう。 244



 いまさらのオリエンタリズム、上巻で感銘を受けすぎたせいか、下巻は流し気味に読んでしまったけれど、下記シェイクスピア言及部などはより広範な文系脳の思考癖に通底する偏見を言い当てているように思えてはんなりする。
 

 ここで興味深いのは、世界のなかのある地域を理解しようとすることがいかに難しいかということである。()要するに、我々が一般的にはオリエント、特殊的にはアラブ世界を理解しようとする理由は、まず第一に、それらの地域が、経済的・政治的・文化的ないしは宗教的に我々に訴えかけ、我々の注目を求めてやまなかったからであり、第二にそれが、中立的で超然的な、安定した定義を受けつけなかったからである。
 同様の問題は、文学的テクストの解釈においてもごく普通にみられることである。例えば、各時代ごとにシェイクスピアが解釈し直されるのは、別にシェイクスピアが変化するからではない。むしろそれは、シェイクスピアに多数の信頼に値する校訂版が存在するにもかかわらず、十六世紀末以来の校訂者や俳優、他国語への翻訳者、あるいは彼の戯曲を読み、その舞台を観たあまたの読者や観衆から独立したシェイクスピアなどという、一つの固定化した、確固たる対象がどこにも存在しないからである。他方、シェイクスピアには独立した存在性というものがまったくないとか、シェイクスピアは誰かがそれを読み、演じ、それについてものを書くたびに、根本的に再構成されるものだと言ってしまうのも行き過ぎである。実際、シェイクスピアとは制度的・文化的な生命体なのであり、それこそが、偉大な詩人としての彼の卓越性や、三十余の戯曲の作者としての名声、その西洋における異常なまでに規範的な力を保証してきたものなのであった。ここで私が述べていることは至極あたりまえのことである。文学的テクストのように比較的不活性な対象ですら、一般にそのアイデンティティーの幾許かは、読者の注目や判断・学識・パフォーマンスなどと相互連関する歴史的契機からひきだされるものと考えられているのである。だが、私の見るところ、こうした特権がオリエント、アラブ、イスラムに対して与えられることはめったになかった。それらは、学問的思考の主潮流のなかでは別々に、または一緒くたにしてとらえられ、西洋の透視者の凝視によって瞬時に凍結してしまった物体として、ある固定的な地位に縛りつけられているものとみなされてきたのである。
 私の議論は私の書物が多くの読者にそう受け取られたようにアラブやイスラムを擁 護するためのものではなかった。むしろ私が主張したのは、アラブもイスラムも「解釈の共同 体」としてしか存在せず、それによってはじめて存在を与えられるのだということであり、 300-1





4. 高野秀行 『イラク水滸伝』 文藝春秋

 イラク南部の広大な湿地帯へ、経典の民マンダ教徒の集落を訪ねる。湿地帯の葦の住居、イスラーム社会とは一線を画した風習と生活様式、誇りと伝統。そして固有の造船技術と、マーシュアラブ布。
 
 びっくりさんである。いや高野秀行の本に驚くのは初めてじゃないけど全編が想像以上、格別。PKOとかイスラム国とかじゃないイラクへこんだけ深入りし、馴染んで帰ってきて大著を成す胆力と膂力。なんだろうな。憧れを通り越して呆れに近い、でも一部の冒険作家たちの漂わせる危うさが、このひとにはないんだよね。次もきちんと帰って来ることについては、安心して読んでいられるというか。なぜなんだと考えるに、人間関係ベースで動かしていくからなんだろうとは考える。絶壁登攀とか極地行とかに挑む、孤独で危険なチャレンジではなく、日本人には真似しがたいというだけの、現地のひとはみなやってることへ馴染んでみせ読ませるテク。Nスペとか山形ドキュメンタリー作品とかでなく、ぐいぐい読ませるテクニック。そういうのがほんと、いい。

 
 「よみめも51」高野秀行『西南シルクロードは密林に消える』:
  https://tokinoma.pne.jp/diary/3317

 
 


5. 近藤真理子 『変わったことがあったから』 自主制作

 2024年8月末から10月頭にかけての日記エッセイと、英単語やイタリア単語をめぐる辞書的コラムからなる小冊子。

  《よみめも84 かいじゅう文学とでんしゃの木》 https://tokinoma.pne.jp/diary/5055

 近藤真理子作品は去年も《よみめも84》で短篇集『象牙の部屋』を扱ったけど、形式としてはそちらが小説群なのに対し、こちらはエッセイ・コラム調なので肌合いが異なるといえば異なる。けれど同じといえば同じで、この「同じ」という観点に立つと『象牙の部屋』よりかなり薄味の、より日常的な記述がつづく。日常的つまりは「日記」なのだけど、個人的な好みとして両者を比べたとき、やはり小説形式のものが読みたいなと望んでしまう。

それからあっという間に下唇がぷっくり腫れてしまい、口が閉じにくくなった。
 唇が切れる、とは喧嘩や戦闘のシーンなどでよく耳にしていたものだが、わたしはなぜ拳で唇が切れるのか、よく分かっていなかった。殴る拳に小さな砂利などが付いてい て、殴られる唇に砂利の鋭利な角がちょうど当たって切れるのだろうかとか、そんなことを想像していた。
 なにかが当たって唇が切れるとはつまり、やわらかい唇が、当たってきた物体と歯という固いものの間で押しつぶされて傷ができるということだったのだ。身をもって知っ た。この世は知らないことばかりだ。 35


 以上は「9月24日の日記 初めて唇を切った。」で、同居人とふたりで寝転がっていたところ、同居人の手からすべり落ちたスマホが作者の唇に怪我を負わせる描写なのだけど、端的かつ生理的な想像を誘う表現の中に、目立たない形で《破れ》を潜ませる。意図的にというより恐らく無自覚にそうなるのだろうあたりが余人にはないこのひとの素質で、上掲『象牙の部屋』所収作「入浴研究」中の、以前も引用した下記部などにもそれは表れる。
 
 水場は、不潔と清潔が混ざり合い、見分けがつかなくなり、最後に清潔さがすっとある表面から立ち上がる場所だ。そこは、あの得体の知れないイモムシという生き物が、ストイックに籠るサナギとも、似ていやしないだろうか。 
 
 殴る拳に付く砂利も、ストイックに籠るサナギも語り手の不意の想像の中にしか存在しないのに、読み手に対し作品内リアルと同等の物質性をもって感覚させる。凡百の書き手であれば無意識に置いてしまう留保が一切ない。こういう仕草はたんに書く技術として身につけられたというより、生きてきた過程で自然に身についた言葉と生理との距離感がそうさせるのだということはしかし、《よみめも84》を書いた頃にはまだ見えていなかった。つまりはそれから一年強をかけ共に同人誌編集に取り組む中で学ばせてもらった発語に対する構えのようなものになるけれど、そんな間にも本人はさらに先へと知らぬ間に進みゆく。

 腫れは一晩でひいて、今は真ん中にゴシックなアクセサリーみたいな血豆がぷっくりある。歯磨きも、発話も、食事も、キスも、ちょっと不便だ。けれど口を閉じているだけなら、上唇が当たっていても痛くない。血豆を圧することなく、ぴったりと閉まる。唇はどんな形のものが挟まっていようが密閉できる完璧な蓋だと、冷蔵庫の扉の開発者がしみじみと話していたのを思い出した。舌先で切れた傷と血豆を確かめ、唇をんぱんぱと開け閉めしてみるたびにわたしもしみじみとする、自身の変形にすらもっちりとすい付く、素材以上の密閉力。 36

 キスも不便、んぱんぱとしみじみ、もっちりとすい付く、なんだこの貫通力は。とかいう仕方で本人を前に褒めちぎったりはしないのだけど、これを書く前夜に新橋の立ち呑みでサシ呑みした際この冊子の感想をしばらく述べた。話しだすと意外なほどがっついてくるのが面白く、酔ってる頭に刻み込もうと指を折ってこちらの言葉を反芻したりする。同人誌仲間のなかで彼女は、プロの書き手になりたい系の欲望をむしろ感じないほうの一人だけれど、だからこそこのがむしゃらさはより信頼が置けるというか、それでいいんだという気しかしない。

 あと本冊子、副題で「流星群に目を凝らすような試み」と付くのだけど、どうせ付けるならもっとメインタイトルに対し位相の異なるものにしたほうがいい。それに本文1ページ目から誤字も見つけ、なんで入稿前に一度見せないんだ、見せてくれれば改善提案も校正も速攻したのに水臭いとかは思った。けれどこちらがその手の遠慮を一切しない人間であることを彼女も今では充分知っていて、だから彼女のほうでしないと保てない距離感こそ正解なのかもしれない。とも思う。




6. 九段理江 『東京都同情塔』 新潮社

 シンパシータワー東京というくらい、「シンパシー」の語をグロテスクに使えるいかにも公共機関的センスから、東京都同情塔を導く、しかしそれすらも大江戸線を彷彿とさせる巧さを添える、そこに痺れる。
 
 「全体の5%くらいは生成AIの文章をそのまま使っている」っていうのが芥川賞受賞時だかに話題になったけど、読むと話題になったような意味でなく、ベタにAI言明として使ってるだけなのがちょっと面白い。

 “女性建築家”が象徴的なアイコンになるの、ザハ・ハディドの一件を外してもたしかにいろんな要素あるし、たまたまきのう呟いた映画↓にも出てきたし、この選択も巧さの一環だよなと。主人公の背負ってるトラウマが性被害である点や、諸々若干教条めいた説明が目立つ点込みで、いま世上で求められてるものに対する嗅覚の鋭さが感覚され、なんだろうこのウェルメイドにパッケージされてる感は、とも思う。という意味では今さら登竜門として注目を浴びるに不似合いな老練さとも。つまりようやく脚光を浴びたということなのか、そこらへんはよくわからないけど。

  『DOG DAYS 君といつまでも』https://x.com/pherim/status/1849304892311310513




7. 阿部和重 『ピストルズ』上 講談社文庫

 神町サーガ第二編。シンセミアとは打って変わる民俗ファンタジー調が読ませる。東北の閉ざされた孤立感とか、出口なしの逼塞に耐える少女の煩悶とか。シンセミアの雑然混沌茫漠として瀑布のように勢いで流れゆく感じからパキッと転調してみせる技巧に痺れる。緊張をとぎらせず、といってシリアス一辺倒の退屈へ陥ることなく言い知れない不穏さをそうとは言わず高めゆく技量というか。「菖蒲家」っていかにも地方豪族にいそうでいない血筋の末裔が開く「ヒーリングサロン・アヤメ」の秀逸すぎるネーミングセンス相変わらず天才よね。出過ぎない中庸を敢えて狙ってきちんと当ててゆく感じ。
 ここからどう、そうとは書かずに外部と接続し破れてゆくのか。たのしみたのしみ。

  よみめも91 阿部和重『シンセミア 上』https://tokinoma.pne.jp/diary/5346
  よみめも94 阿部和重『シンセミア 下』https://tokinoma.pne.jp/diary/5419
  よみめも96 阿部和重『グランド・フィナーレ』https://tokinoma.pne.jp/diary/5465





8. 仲俣暁生 『東アジアから読む世界文学 ――記憶・テクノロジー・想像力』 破船房

 小説家の想像力は、しばしば現実の出来事を先取りする。小説の役割は未来予測ではないが、世界のあり方を深いところから理解することで、結果的に未来を言い当ててしまうのだ。
 情報技術の進展とグローバル化が急速に進む二一世紀の世界にあって、人間の意識にも大きな変化をもたらすこうしたモチーフを意欲的に小説に盛り込み、文学作品のあり方自体にも大きな革新を起こしてきた作家が阿部和重である。 99



 仲俣暁生の本で初めに読んだのは、今では市販されてないだろうオリジナル判型の『ポスト・ムラカミの日本文学』と『極西文学論』で、佐藤可士和のデザインは今でも最先端を行けるというかこうして思い出すに、書店を見渡すかぎりブックデザインは今のほうが明らかに劣化して思える。
 ともあれ読みやすく丁寧な書き口は変わっておらず、しかし昔は気づかなかった時々顔を覗かせる古風を狙ったかのような単語選択の嗜好性も込みで楽しめた。まだ読んでない本の書評ってけっこう苦手なんだけど、仲俣さんのものは安心して読める。安心して読めるというのがどういうことなのかは別として、書評で売りたい書き手には見倣うべきポイントの一つなのは確かだろうな。ここには以下3書評から抜粋引用しておく。

  阿部和重『シンセミア』――戦後日本のミニチュア的寓話
  リチャード・パワーズ『われらが歌う時』――色彩と音をめぐる家族小説
  郝景芳『流浪蒼穹』――古典的SFに込められた祈り


 「時間が何か知っているか?」
 「時間というのは何もかもが同時に発生するのを防ぐために人間が使用する道具なんだよ」

 デイヴィッドが「時間」について語る言葉は、複数の物語をシャッフルしつつ進むパワーズの小 説作法そのものといっていい。そこでは時間は過去から未来へと一方向に流れる因果関係の系ではなく、過去と未来が同時に存在したり、ときには未来が過去にかかわったりする。デビュー作「舞踏会へ向かう三人の農夫」では、アウグスト・ザンダーが残した一枚の写真によっていわば「時間」が多元化し、そこから生じた三つの異なる物語が撚り合わされて一つの小説が構成されていた。小説とはそうした複雑な表現を可能とする「道具」なのだ、と言わんばかりに。 107


 二一世紀の強国となった中華人民共和国で成長した郝景のような世代の知識人にとって、この二つの世界は、一身のなかにともに備わっている分裂でもあるだろう。だからこの小説を自由社会と管理社会、たとえば西欧社会と中国やロシアのような権威主義体制の残る社会との対立の物語として読むのは生産的ではない。
 この両者の対立を超克するものとして、郝景芳は〈創作〉という行為を位置づけている。火星社会は高度に知的な社会であり、学術と創作活動が社会の発展に寄与するものとして奨励されるが、個人に知的財産権はない。だがロレインやレイニーのような火星の知識人が参照するのは、地球社会で生まれた文学作品なのだ。
 おそらく意図的にだろうが、郝景芳はこの小説で火星社会が生んだ高度なテクノロジーをいくつも列挙しながら、火星が生んだ独自の文学作品を作中に一つも設定しなかった。独立戦争を戦い、ナショナリズムが高揚していながらも、文学作品として語りうるオリジナルな「物語」が欠けている――それは現実の中華人民共和国にも言えることかもしれない。辛亥革命の時代には魯迅がいた。だが国民党から共産党へと権力が移行した後、中国の知識人が自分たちの自画像であると思える物語は、なにひとつ書かれなかったのではないか。 50-1





9. 劉慈欣 『白亜紀往事』 大森望 古市雅子訳 早川書房

 蟻と恐竜の共生により発展した高度科学技術文明の歴史を描く気宇壮大SF秀作。壮大だけど、かわいいんだよね。なにしろアリと恐竜ですから。アリの女王と恐竜大王の威厳の張り合いとか、なるほど『三体』感も醸され趣深い。相互依存が必須なのは明らかなのに、対立が始まるとエスカレート待ったなしになる過程もくり返され、現代人間社会風刺も存分に鋭いのだけれどそこが肝ですみたいな見せ方をむしろ避けてるのも好感度高。
 意識を宿す極大と極小の対置構図をシンプルに物語化する技量、劉慈欣すなぁ。




10. 『第37回東京国際映画祭公式プログラム』 公益財団法人ユニジャパン

 2023年につづく176ページ構成。2022年が170ページ、2021年が160ページなので、コロナ禍後の復調完了といったところか。とはいえプログラムそのものの存在感は希薄で、コアの映画祭ファン層でも存在を知らないひとは多いだろう。知ったとして2000円出して買う価値を感じるひとも多くなさそうだし、この販売縮小傾向は方向性として正解なのかもしれない。紙で手元にあることの利便性を享受している身としては、内容が維持さえされればの話だけれど。
 とはいえ、Webの貧弱な作品解説が改善されたら、自身も買わなくなるかもしれない。Webも英語版とか年々充実してきてるしね。




▽コミック・絵本

α. 東村アキコ 『かくかくしかじか』 2 集英社

 金沢美大の学生生活が描かれるとは夢にも思わず、そうと知ってたら速攻読んでたな。ごく短期間ながら、金沢美大の校門から30秒くらいのところに居候していたし、金沢美大の子と付き合ってたし。
 
 はちクロのムサビと、ブルーピリオドの藝大に並ぶ名作感は2巻にしてもう確定、つづき楽しみ。この、すべてが終わったあとから視点、ガチ嵌まりすると抜けらんなくなる。ようやく嵌まりそう。てかそういう未読作品、きっと他にも多いんだろうな。

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β. 毛塚了一郎 『音街レコード B面 毛塚了一郎作品集』 KADOKAWA

 A面(よみめも93)とほぼ同じ厚さながらいかにもB面的というか、幽霊譚中編「音霊ドライブ」が中身の大半を占め、余韻としてはかなり薄味。香港やバンコク(の中華街風)でレコードショップ漁りをするカットも登場するのだけど、タイ文字読めない著者がひらがなに寄せた選択でタイ文字看板を描いてるの逆になごむし、気づいたひと他に何人いるだろうとか想われちょっと楽しかった。
 まぁほんと、ここまでレコード愛ある漫画描き続けられるの稀有だし絵も巧いし、音街&音盤紀行的なのつづいてほしい。

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(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)

γ. よしながふみ 『大奥』 15-6 白泉社

 井伊直弼の心理描写さえ詳細に独断専横を描いたあと、桜田門外の変は一切直に描かず伝聞のみという強表現。ここまで積み重ねてきたよしながふみだからこそやるし、できることよね。むしろその直後に起こる宮様が風呂に入ったら女と判明する場面のほうに衝撃をもってくるという。史実に沿い、しかし通史からつねに距離をとり読者の興味を引き続ける手管の凄味。
 
 攘夷を男女の入れ替わりで描く巧緻自体がもう芸術品、ってもとより芸術なんだけど。貧しいながらに、何とかしてこうぜっていう家茂周囲のムード素敵。



 
δ. 松本直也 『怪獣8号』 8-13 集英社

 いざというとき頼りにできる同輩サブキャラ発見&育成巻。サブキャラのサブみたいのも現れてバディ感醸すのは情景全体の解像度UPへ連なる良い感じ。9巻末のリヴァイ兵長キャラ出陣でようやく本筋が再起動した感ある。

 でもスーツ化された怪獣との鍔迫り合いは、複数巻つづくと正直飽きる。亡き両親への承認欲求描写とかも、単発だからこそ刺さり得るので、引っ張っちゃ良くない。というあたりすこしだけ、引き伸ばし型の編集者介入ムーヴを感じて惜しい11巻。

 13巻、亜白隊長の内面描写が出てきて、ヒーロー独壇場の地ならし感満載。次号楽しみ。

 


ε. 原泰久 『キングダム』 59-64  集英社

 楚の什虎城編開始。南方の大国の底知れなさがよく表出して、これは良い感じ。鄴攻略編は、一つの城を落とすのに十数巻もたせたこと自体が達成だったとはいえ、やっぱ飽きるよね。といってこれだけ複雑な戦場並立させたうえ、同時並行で他の局地戦を出すのはブレるしなぁ。

 桓騎が野盗集団の弱さを偽装しつつ、数的劣勢から敵総大将を欺いて首を獲る展開、雑に描けば描ける細部をクリアに描き解像度を上げることで戦略スケールに立体感をもたらしていて、巧い。これこそ60巻描いてきたからできる本作の強みになっていて、ここを手放さないかぎり一定の読者はついてくるし、続いてれば新たな読者も加わる勢いあるジャンルを自力で耕してきた感さえ醸され圧倒の。映画化成功の前提でもあるよねこのあたり。





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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